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『気仙沼ニッティング物語 いいものを編む会社』

成毛 眞2015年8月19日
気仙沼ニッティング物語: いいものを編む会社

作者:御手洗 瑞子
出版社:新潮社
発売日:2015-08-19
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100年続く会社を作ること。100年続く老舗をめざすこと。100年続く事業を育てること。本書には100年という言葉が何回も出てくる。学ぶべき先輩企業は創業180年目を迎えようとしているエルメスや、室町時代からつづく和菓子の虎屋だという。この気宇壮大な目標を持つ会社の名前こそ、本書のタイトルにもなっている「気仙沼ニッティング」である。

ニッティングの広義は編み物一般だが、狭義はおもに2本の長い棒を使う棒針編みのことだ。両手に棒を持ち、人差し指を器用に動かして、マフラーやセーターを作る手芸だ。アマゾンの本売り場で「編み物」を検索すると5786点もの書籍や雑誌がヒットする。日本ヴォーグが発行する季刊誌「毛糸だま」の発行部数は56,000部だ。多くの人々にとっては家庭内での実益を兼ねた趣味だ。しかし、気仙沼ニッティングはそれを生業にする会社として2013年6月6日に誕生した。

古来6歳6月6日は習い事をはじめる吉日と言われてきた。この会社の母体となったのは、糸井重里さんと「ほぼ日」である。6月6日を意識していないはずはない。設立から3期目のこの会社は、すでに利益を計上しているとはいえ、まだまだ「9歳」になったばかりの幼子だ。本書をこれからの覚悟をしたためた決意書として読んだ。

著者は気仙沼ニッティングの創業者。東京大学経済学部を卒業し、戦略コンサルティングファームのマッキンゼーに就職した女性だ。ブータン政府では初代首相フェローとして産業育成に従事していた。どれほど目から鼻に抜けるような才女であろうと構えて本書を読み進めたのだが、そこにはたおやかで優しい眼差しをもつ、小柄で元気なお嬢さんの姿しか見えてこない。本書冒頭のプロローグを読むだけで、いかに肩に力が入っていないか良く分かる。

戦後日本人は焼け跡から高度成長期、バブル期から停滞期を経て、ついにある意味で日本人の理想形として、いま30歳以下の若者たちを作り上げてきたのではないか。自然体で強欲ではなく、知識を備えて現場に立ち、どこか謙虚でチャーミング。その典型としての人物像を本書で見ることができるかもしれない。彼らこそわれわれ中高年が苦労して作り上げた作品だと思えば、誇らしい気もしてくる。

とはいえ、彼女の決意は固い信念をともなうものだ。この会社が目指すものとは

「誇り」をもって仕事をしていきたい。
だれかに、よろこばれることが実感できるような仕事を、
編んでいきたいと考えています。

「うれしさ」を伝えていきたい。
編むことのうれしさが、着てくださる人に伝わって、
何年も何代にも渡って愛されていくようなニット。
そんな商品をデザインし、つくり、お届けしていきます。

気仙沼の「稼げる会社」になりたい。
被災地であることが忘れられても、
しっかりと暮らしの糧を得られる会社になりたい。
その経営の基盤を気仙沼につくっていこうと考えています。

世界中のひとがお客さまに。
日本だけでなく、世界中のひとに求められるものをつくっていく。
東北の気仙沼(Kesennuma)という地名が、
素敵で高品質なニット商品を生み育てる場所として、
世界に知られていきますように。

というものだ。編み手を筆頭とした社員はもとより、株主を含めたステークホルダーの誇り。美しくて高品質、世に残る商品がもたらす満足感。収益性の確保による事業の永続性。そしてグローバルブランディングへの挑戦である。立派な経営計画である。本書の読み方はいろいろあろう。東日本大震災からの復興支援という視点もある。しかし、ビジネスマンにとっては良質なビジネス書として心を落ち着けて読むことができる好著だ。

ところで、この事業をここまで育てた立役者は著者だけではない。傑出したニットデザイナーである三國万里子さん、プロジェクトのバックエンドを支えている斉藤和枝さんのお二人はその中心人物なのだが、それ以外にも斉藤家の「じっち」や「ばっぱ」など魅力的な人たちが登場してくる。著者によれば、気仙沼の人はオープンで、国際的で、どこかハイカラだという。読者は気仙沼という風土の面白さや、地方都市の醍醐味も味わうことができるであろう。

気仙沼ニッティングの旗艦商品はMM01というオーダーメードのカーディガンだ。順番を待つ必要があるらしい。価格は151,200円だ。これが高いが安いかは買う人の使い方次第であろう。

かつて白洲次郎は「ツイードなんて、買って直ぐ着るものじゃないよ。3年くらい軒下に干したり雨ざらしにして、くたびれた頃着るんだよ」と語った。ハリスツイードはイギリスのハリス島の漁師たちの定番ジャケットだった。イギリスのカントリージェントルマンはそれにならい、わざわざボロボロになったツイードジャケットを着て粋がっていたのだ。

気仙沼ニッティングはMM01を創るにあたり、アイルランドのアラン諸島に取材に行っている(下の写真)。手編みのアランセーターこそがお手本なのだ。そのセーターこそアラン諸島の漁師が船の上で着る作業着だったのだ。長年にわたって着ることができるジャケットやセーター。いや、時間をかけて着古していくことに価値のある宝物が15万円だとしたら安い買い物なのかもしれない。

アイルランド・アラン諸島へ訪れた時の、御手洗 瑞子さん(右端)

それにしても本書を読みながら無性に気仙沼を訪れてみたくなった。かの地では驚いたときには「ばばば」というのだそうだ。久しぶりに道で出会うと「ば!」、もっと驚くと「ばばぁ!」最上級が「ばばば!」らしいのだ。MM01を注文して順番を待つことにしようと思う。もし、自分の順番がきたら「ばばばば」と驚きながら、採寸のために気仙沼に行ってみようと思う。

 ※写真提供:株式会社気仙沼ニッティング

会社設立までのプロジェクトの進行については「ほぼ日」のコンテンツが詳しい。本書と併読することをおすすめする。
http://www.1101.com/knitting