ここに翻訳をお届けする『印刷という革命──ルネサンスの本と日常生活』は、西欧印刷史の泰斗アンドルー・ペティグリーが満を持して2010年に世に問うた、実にスリリングな初期近代メディア文化史の傑作である。
原著で400ページを超えるその浩瀚なヴォリュームと射程の広さ、扱うトピックの目くるめく多様性にもかかわらず、原題は『ルネサンスにおける本』(The Book in the Renaissance)と意外なほどシンプルで、そのややもするとぶっきらぼうにも見える骨太な表題のうちに、著者の自信のほどがうかがえる魅惑の一冊だ。邦題の選定にあたっては、そのあたりの含みをうまく伝えられないものかと苦心したが、結局は本書の内容を要約した『印刷という革命』に落ち着いた。
ペティグリーは現在、イギリスのセント・アンドルーズ大学歴史学講座で教鞭をとる気鋭の研究者である。もともとは初期近代西欧の宗教改革や革命・独立闘争の歴史を専門とし、当時のプロパガンダ合戦や情報戦争の諸相を探るうち、コミュニケーション史のほうへとしだいに重点をシフトさせ、いまや印刷文化史界の押しも押されぬ権威となっている。
また本書の巻末にも触れられているとおり、1601年以前に出版された全書籍の書誌データをデジタル・アーカイヴ化したオンライン・カタログ Universal Short Title Catalogue のプロジェクトリーダーを務め、現在もその後継プロジェクトである17世紀の書籍のカタログ化作業を続けている。
ペティグリーの語りの魅力はなんといっても、最新のデジタル・データベースを駆使したダイナミックな資料分析の力技と、欧州各地の文書館に籠って古書と格闘して得た緻密な研究成果とを融通無碍に撚りあわせる、その緩急を心得た絶妙な筆さばきであろう。大局をつかむ広い視野と徹底した細部拘泥とが稀有な調和を見せる彼の文章は、初期近代の文化史全般に興味を持つ読書子たちの心をつかんで離さない。
15世紀中葉に印刷術が発明されてからおよそ150年あまりの印刷文化の消長史を活写した本書『印刷という革命』は、2010年に出版されるや、たちまち新聞各紙や代表的な書評誌で絶賛され、同年のアメリカ・ルネサンス協会が主催する Phyllis Goodhart Gordan Book Prize を受賞している。
年来の研究成果をまとめ、当該トピックについての最新の見取り図を提示し終えたペティグリーではあるが、その旺盛な研究活動はとどまるところを知らず、2014年には新著『ニュースの発明──世界はいかにして己を知るに至ったか』を発表し、本書の後半でも取り上げていたニュース・メディアの発展史を、スリリングに掘り下げている。
本書の特徴をいくつかあげるとすれば、まずは、いわゆる「くず本」ないしは一枚刷りシートといった 簡易印刷物が持っていた底知れぬ重要性に着目し、それらのはかない紙切れにかぎりない愛情を注いでいることであろう。当時の高価なラテン語書籍を網羅した著名な蔵書をもっぱら分析対象としていた旧套のアプローチでは、決して掬い取ることのできなかった生きた資料群である。
そして、これまで等閑視されてきたその種の印刷物に組織的にアクセスできるようになったのも、ペティグリーが率先して整備を進めている、デジタル・アーカイヴの充実のおかげでもあるのだ。当時の世情を騒がせた事件を、時には過激に、時には皮肉交じりに綴った一枚刷りの安価なビラ、あるいはぼろぼろになるまで学生たちが使い込んだ学校の教科書の類こそは、初期近代という激動の時代を生きた人々の息吹を伝える貴重な証拠となっているのである。
もうひとつの特徴は、宗教改革や政治闘争の場面で、印刷術がいかに主要な役どころを演じたのかを、微に入り細を穿って論じている点だ。この部分は、もともと初期近代の政治闘争・革命史を専門とするペティグリーの面目躍如といった観がある。ここでも当然、敵対勢力をさげすみ、味方を鼓舞するパンフレットやちらしの類が、大活躍をした。
ここから発展してくるのが、ペティグリーの次著のテーマであるニュース紙である。またこれらの簡易印刷物は、さほど教養のない一般市民を対象としていただけあって、文字の傍らに印象的な図版を掲載したものが多かった。言葉はわからずとも、イメージならばわかる。見るものの心の奥底にまで入り込み、情報を精神にしっかりと刻み込むこの種の図像は、同時代に大流行していた記憶術とも、深い関係があったはずだ。
またそうしたイメージの持つ認識補助的なパワーと関連してくるのが、本書の最終部で論じられる自然科学や医学の領域である。印刷術の発明というと、我々はとかく、文字の大量複製が可能になったという事実にばかり目を向けがちであるが、実は文字よりも、複雑で精巧な図版が印刷術によって大量にコピーできるようになった点のほうが、文化史的なインパクトは大きかったといえる。
本書で取り上げられるレオンハルト・フックスの植物図譜や、アンドレアス・ヴェサリウスの解剖図、あるいは怪物の出現や異常気象などを伝えるイラスト入りパンフレットなども、そうした観点から分析してみると面白い。またこの論点を拡幅してゆくと、イメージを通じた知のオーガナイズ、いわゆるルネサンス百科全書主義の問題領域にも接続可能であり、ペティグリーが80年代以降の豊穣な視覚文化史の研究成果を存分に利用していることが実によくわかる構成となっている。
以下に、本書と関連するトピックについて、より理解を深めるための参考文献を挙げながら、簡単な解説を加えてゆきたいと思う。まずは初期近代の印刷文化史そのものであるが、喜ばしいことにここ数年、新なアプローチから切り込んだ清冽な著作がこぞって邦訳されている。
たとえば本書の主人公のひとりでもあるアルド・マヌーツィオを中心とする、ルネサンス期ヴェネツィアの華麗な書物文化史に焦点を当てた本として、アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ『そのとき、本が生まれた』およびラウラ・レプリ『書物の夢、印刷の旅』がある。
イタリアはもとより当時のヨーロッパ規模においても有数の印刷拠点であったヴェネツィアは、カトリック圏でありながら、その巧みな外交戦略と圧倒的な財力によって教皇庁からの知的・政治的独立を維持し、文芸共和国の発展に益する数々の名著や重要著作を世に送り出した。その知的インパクトをより深く知りたい向きは、ぜひこれらの著作を手にとってみられたい。
また手書き写本から印刷本へと時代が転換してゆくなかで、当時の知的世界に計り知れない影響を与えた一冊の本をめぐる秀抜な物語としては、スティーヴン・グリーンブラッド『1417年、その一冊がすべてを変えた』をお勧めしておこう。
コジモ・デ・メディチやエラスムス、ポッジョ・ブラッチョリーニ などなじみの名前も登場する本書をひもとくと、印刷術黎明期に、修道院に眠る古典写本を求めてヨーロッパ各地を踏破したブックハンターたちの活動が手に取るようにわかる。ペティグリーも強調しているように、人文主義者たちが黎明期の印刷術に見た夢とは、まさにこうした失われた古典の復興であったのだ。
また、彼ら人文主義者たちが古典テクストといかに向き合い、古代文化を復興させていったのかを活写した精神史研究の傑作が、アンソニー・グラフトン『テクストの擁護者たち』である。
人々の本離れが進み、人文系の学問への風当たりが強まっている昨今であればこそ、そもそもの人文学の誕生の瞬間を切り取った本書の重みは増してくるはずだ。ペティグリーによる印刷文化論とセットで読みたい一冊である。
最後に、自然科学分野と印刷の関係についても補足しておこう。ペティグリーが本書の第四部で詳しく論じているように、印刷術の発明は科学の発展に大きく寄与した。当時はラテン語が学術共通言語として流通し、郵便制度もそれなりに発達していたから、次々と出版される専門著作を通じて、ヨーロッパの各地の学者たちはかなりの程度、最新の科学知識について情報を共有できていた。
当時はまだ、植物学や動物学、鉱物学といった細かな学問分類がなされておらず、自然の諸事象を研究する学問として「博物学」とひとくくりにされていた。コンラート・ゲスナー、ウリッセ・アルドロヴァンディ、ピエール・ブロンら当時を代表する博物学者たちは、世界中から自然の珍しい標本を大量に蒐集し、分析を行ない、その結果を浩瀚なラテン語著作として次々に出版していったのである。
そこには、学術パトロネージ、宮廷文化、印刷術、蒐集文化史等々、初期近代という複雑な時代を読み解くためのさまざまな問題系が織り込まれており、まさにその点を徹底的に論じたポーラ・フィンドレン『自然の占有──ミュージアム、蒐集、そして初期近代イタリアの科学文化』は、本書の格好のサイドリーダーとなってくれるだろう。
その一方で、印刷メディアのイメージ複製という点に着目するならば、博物学はまさに図像複製と情報伝達をめぐる最先端の議論が戦わされた領域として注目に値する。植物や動物の形状は、贅言をつくして言葉で長々と描写するよりも、正確なイメージを一枚提示するほうがはるかに理解がすすむ。
古代や中世には、そもそも写実的な絵画技法が発達していなかったこともあり、イメージに対する不信感がまさっていたが、初期近代には、レオナルド・ダ・ヴィンチやデューラーらの努力によって超写実的な図像の実現が可能となり、イメージへの信頼度は一挙に高まった。
自然の形姿をいかに忠実に画像として写し取るか、そしてそれをいかに印刷用図版として正確に大量複製するか。そんな博物学者たちの葛藤を見事に描いたのが、サチコ・クスカワ『自然の書物を描く──16世紀の人体解剖と薬用植物学におけるイメージ、テクスト、議論』である。
博物学および隣接する医学はまた、怪物学や奇形学、あるいは天変地異をめぐる各種の予言・予兆や、はたまたそうした疑似科学情報を売り物にするペテン師たちの活動領域とも、ゆるやかに繋がっていた。そこには当然、印刷によるメディア戦略もからんでくる。
ペティグリーも楽しげに分析している、驚異事象や怪物をめぐる当時の上を下への大騒ぎについては、ロレイン・ダストン&キャサリン・パークの名著 『驚異と自然の秩序── 1150-1750年』が、あますところなく論じてくれている。
また、あやしげな薬の調剤法や健康療法を満載した、いわゆる「秘密本」(Books of secrets)の伝統についての強烈におもしろい通史を綴ったウィリアム・イーモン『科学と自然の秘密──中世と初期近代文化における秘密本』も、必読の一冊であろう。
ぺティグリーが推進する、初期近代に出版されたすべての書物の総カタログ化プロジェクト Universal Short Title Catalogue は、かつて博物学者にして書誌学者であったコンラート・ゲスナーが『万有書誌』 Bibliotheca Universalis(1545-55年)において試みた、この世のすべての本の書誌を網羅しようとする夢想の現代版に他ならない。
ゲスナーを指してはシジフォス的な作業にいそしむ愚者よとさげすむ者もいたようだが、われらがペティグリー率いるチームの成果やどうだ。すでに1610年までの書物の全カタログ化を終え、17世紀の書物にまでその触手を伸ばしているではないか。
このプロジェクトが完成し、他のオンライン書誌データとも相互リンクが可能となったとき、また新たな印刷文化史の物語が立ち現れてくるに違いない。その時、嬉々として原稿に向かうペティグリーの姿が今から想像されてならないのだ。
※本稿は書籍に収録されている内容を一部割愛のうえ、掲載しております。