心をつかさどっているのは心臓であると、かつては広く信じられていた。心臓はドクドクと拍動する特別な臓器であるうえに、気持ちが高ぶれば鼓動が速まりもするから、そう考えるのはごく自然なことだったろう。エジプトでミイラを作る際にも、心臓は大切に取り出され、別個にミイラ化されたのに対し、脳は、耳や眼窩、あるいは頭蓋にあけた小さな穴から搔き出され、捨てられていたようだ。人びとは古来、心の働きに多大な関心を寄せてきたが、脳がいったい何のためにあるのかはわからないままだった。
脳の研究と言えるようなものがはじまったのは、長い歴史をもつ人類の知の営みの中では、ごく最近のことでしかない。ようやく18世紀になって、人の性格や能力を脳に結びつける「骨相学」の考えが生まれた。19世紀になると、細胞に色をつける染色技術が発明されたおかげで、脳もまた多くの細胞からできていることが明らかになった。それは脳研究にとって画期的な前進だったが、それからまたしばらく、遅々として理解の進まない時期が続いた。
しかしここ数十年ほどのあいだに、主としてイメージングの技術が飛躍的に進展したおかげで、脳こそは、心身のほとんどすべての機能の基礎だということに疑問の余地はなくなっている。基本的な体の動き(心臓の鼓動さえも!)をはじめ、新たに何かができるようになること(「学習」すること)、思索すること、感じること、記憶すること……。要するに、あなたをあなたに、わたしをわたしにしていることの根幹が、1000億個という膨大な数の神経細胞──ニューロン──の活動に支えられていることがわかってきたのだ。
しかし、いかに多くのニューロンがあるとはいえ、個々の細胞の活動から、どうすればこれほどまでに複雑多様な心の機能が生じるのだろうか? この問いに対する答えとして、現在もっとも有望視されているのが、「ニューロンたちが互いに接続(connect)することによって」というものである。この立場に立つなら、あなたをあなたに、わたしをわたしにしているのは、莫大な数のニューロンの接続だということになる。その接続の総体が、本書のタイトルでもある「コネクトーム」だ。そして、コネクトームと脳のさまざまな機能との関係を調べようとするのが、神経科学の新領域、コネクトミクスである。
本書はそのコネクトミクスを、広く一般の読者に紹介するものである。21世紀は、「脳の世紀」と言われることもある。宇宙でもっとも複雑な構造物とさえ言われ、その複雑さゆえに探究を阻んでいた脳だが、今後その幾重にも重なった神秘のベールがつぎつぎとめくり上げられていくだろう。脳は現在、どこまで理解されているのか、そしてわれわれは今後、どちらに向かおうとしているのか? 本書にはそんな脳研究の大きな眺望が、コネクトミクスの観点から魅力的に語られている。
本書の著者、セバスチャン・スン(Hyunjun Sebastian Seung; 승현준:承現峻)は、コネクトミクスの旗手と目される気鋭の研究者である。スンは、物質構造の数理物理学的研究でハーバード大学の博士号を取得したのち、バイオインフォマティクスとニューロサイエンスを軸とする分野縦断的な研究に乗り出した。その彼がとくに力を注ぎ、重要性を訴えているのがコネクトミクスだ。現在スンは、プリンストン大学計算機科学部とニューロサイエンス研究所の教授であると同時に、生物医学分野における第一級の研究者を重点的に支援することで知られるハワード・ヒューズ医学研究所の研究者(インベステイゲーター)でもある。
今日、コネクトームの重要性に意義をさしはさむ者はいないだろう。脳機能研究は、生物学分野における最大にして最後のフロンティアだとも言われる。コネクトームを得ることは、そのフロンティア開拓の要(かなめ)だ。コネクトームが得られれば──すなわち、ニューロン接続の全地図が得られれば──運動、学習、記憶といった、心身の機能がどんな仕組みで働いているのかを明らかにするための基礎となるデータが初めて得られることになる。それに加えて、社会的、経済的にも大きな問題となっているいくつかの病気は、ニューロン接続の異常──すなわちコネクトームの異常──と関係がありそうだ。じっさいスンは本書の中で、コネクトームの知識なしに統合失調症やアルツハイマー病の研究することは、顕微鏡なしに感染症に立ち向かうようなものだと述べている。かつて感染症の原因がわからなかったときは予防も治療もおぼつかなかったように、コネクトームを知らずには、脳の機能にまつわる病気への対処はおぼつかないだろう。
問題は、ヒトのコネクトームを得るのは非常に難しいということだ。1000億個のニューロンがつながり合うシナプスの数は、160兆にのぼるとみられる。脳をシナプス・レベルの解像度で網羅的に画像にすれば、その情報量は数百ペタバイトに及びそうだ。数百ペタバイトと言われてもピンとこないが、Googleのデータセンターのストレージ総量に相当するという。しかも、画像情報を得さえすれば、コネクトームが得られるというわけではない。画像データをもとに、すべてのニューロンの接続地図を作ることができてはじめて、われわれはヒトのコネクトームを得たといえるのである。
ひょっとするとみなさんは、アメリカでは2009年に「ヒト・コネクトーム計画」という大規模プロジェクトがはじまり、2015年夏に終結したという話を聞いたことがあるかもしれない。終結したというからには、すでにヒト・コネクトームは──すなわちヒトのニューロンの全接続地図は──得られたのだろうか? とんでもない! なにしろ人類は、そのために必要な技術をまだ手に入れていないのだから。
本書に述べられているように、じつはここは非常に誤解を招きやすいところだ。スンは、コネクトームを三つの階層に分けて説明する。一番基礎的な階層は、ニューロン・レベルの接続をすべて明らかにすることで得られるコネクトームで、「シナプスの全接続地図」と呼ぶべきは、この「ニューロン・コネクトーム」である。それより大まかな地図として、ニューロンをタイプごとにまとめて(それも容易ではないのだが)、それらのつながり方を地図にした「ニューロン・タイプ・コネクトーム」を考えることができる。そして、それよりもさらに大まかなのが、脳の部位ごとの接続地図、すなわち「部位コネクトーム」である。これはシナプスレベルの接続ではなく、軸索レベルの接続を明らかにするものだ。アメリカのヒト・コネクトーム計画は、この三番目の部位コネクトームを得ることを目標としていたのである。この計画で得られたデータは、すでに科学者コミュニティーに提供され、刺激的な研究成果が出はじめている(たとえば、学齢、身体の強健さ、記憶力といった変数の値が高い人たちと、喫煙、攻撃性、アルコール中毒の家族歴といった変数の値が高い人たちとで、部位コネクトームのつながり方に明確な違いが認められた。前者の人たちのほうが、接続性が強いようにみえるという)。
もちろん、本当に知りたいのは、もっとも基礎的なレベルのニューロン・コネクトームだ。ニューロン・コネクトームの重要性を考えるために役立つのが、本書にたびたび登場するジェニファー・アニストン・ニューロンである。2005年に、女優ジェニファー・アニストンの画像に反応するニューロンが発見されて大いにメディアをにぎわせた。なにしろそれ以前は、われわれが対象を認識する際のしくみは、まったくわかっていなかった。そんなとき、たった一個のニューロンがジェニファー・アニストンには反応し、アニストン以外には反応しないことがわかったのだから、それはたしかに衝撃的な発見だった。
しかし、ジェニファー・アニストン・ニューロンが発見されても、それが何を意味しているのかがわかったわけではない。たとえて言えば、ジェニファー・アニストン・ニューロンの発見は、異星人からのメッセージを受信したようなものだ。それは確かにすごいことだが、そのメッセージには何が書かれているのだろう? それを知るためには、メッセージを解読しなければならない。それができない限り、脳のしくみはわからないままなのだ。
たとえば、ジェニファー・アニストンの顔を見たり、名前を聞いたりすることと、彼女にまつわる記憶や概念が想起されることとの関係がわからない。ジェニファー・アニストンと言われて、真っ先にニューロンを思い浮かべる人もいれば(本書を読了したあなたは、そんな人のひとりになったことだろう)、ブラッド・ピットとの離婚騒動を思わずにはいられない人もいれば、世界的な人気を博したアメリカのテレビドラマ『フレンズ』を懐かしく思い出す人もいるだろう。このような記憶や概念のネットワークは、あなたをあなたに、わたしをわたしにしている重要な要素だ。
では、脳はいかにして、このきわめて個人的な概念のつながりや記憶を保存しているのだろう? さらに、ブラッド・ピットと言われたとき、かつてはジェニファー・アニストンの顔が浮かんだのに、今ではアンジェリーナ・ジョリーの顔が鮮明に浮かぶという人もいるだろう。新たな記憶を作ること、そして概念のつながりに修正を加えることは、人が人として生きるための根幹にかかわる部分である。脳はいったいどのようにして、刻一刻、われわれの記憶と経験を書き換えているのだろうか?
コネクトミクスはこの問いに対して、「コネクトームを形成することによって、そしてそれを変化させることによって」と答える。スンはコネクトームの形成と変化を、「河床と水の流れ」のメタファーをもって語る。個々のニューロンの活動は、ゆく川の流れのようにたえず移り変わる。その水の流れに対して、流れるべき道を教えているのが、河床としてのコネクトームだ。しかしその一方で、水の流れはゆっくりと大地を侵食し、河床すなわちコネクトームを形成する。ニューロンの活動は水、コネクトームは河床のようなものだというのである。
ニューロンの活動によりコネクトームが変化する、その具体的なメカニズムが、スンの言う「四つのR」、すなわち「再荷重(Reweighting)」「再接続(Reconnection)」「再配線(Rewiring)」「再生(Regeneration)」である。再荷重は、すでに存在する接続の強さが変わること。再接続は、新たに接続が作られるか、または古い接続が除去されること(作られるだけでなく除去も含まれることに注意)。再配線は、ニューロンの枝が伸びたり収縮したりすること。そして再生は、新しいニューロンそのものが作られたり、(ここもまた注意を要するが)除去されたりすることである。
コネクトームが変化することの意味は甚大だ。脳の中で起こっているこの変化が、あなたを他の誰でもないあなたにしていると考えられるからである。たとえあなたに一卵性双生児のきょうだいがいたとしても、あなたのコネクトームはあなただけのものなのだ。
コネクトームの観点に立つ脳研究の重要性を思えば、各国がこの分野の研究に、急速に力を入れはじめたのも驚くには当たらないだろう。本書の原書がアメリカで刊行されたのは2012年なので、ここではその後の動きをざっと見ておくことにしよう。
まずアメリカでは、2013年にオバマ大統領が、ブレイン(BRAIN:Brain Research through Advancing Innovative Neurotechnologies)・イニシアティブを発表した。これは、かつてのアポロ計画やヒト・ゲノム計画に匹敵するような、脳科学分野の大型科学プロジェクトである。その主な目標が、コネクトームを得ること、そして人間の行動をニューロンの活動に結びつけることだ。このプロジェクトでは、とくに技術開発が重視されており、アメリカには本書の著者スンをはじめ、今後も引き続きテクノロジーの開発にしっかりと焦点を合わせていくべきだと主張する研究者が多いようにみえる。技術的な突破口が切り開かれれば、予想もしなかったような地平が広がることが期待されるからだ。スンは本書の中で、コネクトームが得られるかどうかは、画像処理をどこまで自動化をできるかにかかってくるだろうと予想している(第九章)。運営面でも、科学的な面でも、アメリカのブレイン・イニシアティブは比較的順調な道を進んでいるように見える。
それに対して、欧州連合(EU)の大規模プロジェクト、「ヒト・ブレイン計画」は、混迷の中にあると言わなければならない。この計画は、本書にも取り上げられているブルー・ブレイン・プロジェクト(第15章)の後継として、アメリカの計画に先行するかたちで2013年10月に始まったもので、コンピュータでヒトの脳全体をシミュレートすることにより、ヒトの脳を理解し、ニューロンの異常にかかわる病気を治療し、新しい情報テクノロジーを構築するという、壮大な目標を掲げていた。
ところが、スイス連邦工科大学ローザンヌ校のヘンリー・マークラム(第15章に登場)ら一部の人たちが決定権を握り、神経科学分野の研究者を締め出して、コンピュータ・シュミレーションだけを目がけて暴走してしまったのだ。2014年7月には、150名ほどの科学者の署名した抗議文書が欧州委員会に提出され、調査に当たった外部委員会は、その抗議の内容を大筋で認め、改善を求めた。運営面での問題に加え、科学面では、シュミレーションを導くべき「コネクトーム」がないということが重大な問題である。コネクトームなしに、いったい何をシミュレートしようというのだろう? ヒト・ブレイン計画に今や〝脳〟はなく、単なる高価なデータベース管理技術プロジェクトになってしまったという厳しい批判もある。はたしてEUのヒト・ブレイン計画は、建て直しを図ることができるのだろうか?
日本でも、近年、脳に関する大型プロジェクトの必要性を訴える声が高まり、2014年には「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明プロジェクト」が発足した。このプロジェクトは、マーモセットのコネクトームの解明を通して、ヒトにおける神経活動の理解につなげることを目標としている。
ヒトのコネクトームを得るのは確かに難しい。それに比べれば、ヒト・ゲノム計画などは朝飯前だった、とはよく聞くセリフである。それでも、有望な新技術がすでにつぎつぎと開発されつつある。この先まだまだ克服すべき障害はあるにせよ、コネクトームを得ることの重要性は明らかであり、その目標はすでにしっかりと視野に入っているのである。
ニューロサイエンスの先駆者ラモン・イ・カハールは、脳を、「多くの研究者が迷い込んだ出口のないジャングル」にたとえた。今、そのジャングルにはじめて強い光が差し込みつつある。セバスチャン・スンは、熟練の案内人として、目のくらむようなニューロサイエンスの到達点にわれわれをいざない、この分野の来し方を振り返り、はるかな山頂を大胆に展望させてくれる。奥行きある教養と、幅広い視座を持つ彼の手引きで、多くの人にこの眺めを楽しんでいただけるならうれしく思う。
2015年9月 青木薫