「解説」から読む本

『冒険歌手 珍・世界最悪の旅』日本冒険界の奇書中の奇書

解説 by 高野秀行

山と渓谷社2015年11月21日

2015年のHONZが太鼓判を押す『冒険歌手 珍・世界最悪の旅』。第三弾はノンフィクション作家高野 秀行さんの解説を掲載。あまりにも無謀な著者の峠恵子さん、圧倒的な個性の藤原隊長、そしてついに大学生隊員・ユースケの正体が明らかに!(HONZ編集部)

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冒険歌手 珍・世界最悪の旅

作者:峠 恵子
出版社:山と渓谷社
発売日:2015-09-18
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ノンフィクションの醍醐味は「事実は小説より奇なり」を地で行く部分だと思う。小説は作家が人工的に創ったものだからどうしてもきれいな形で収まるが、現実はそうはいかない。あまりに予想外でどうしてそうなるのか─当事者や著者にさえ─さっぱりわからないなんてことが起きる。ある意味で”人智を超えた”おもしろさを感じる。

佐藤俊『越境フットボーラー』(角川書店)がまさにそういうノンフィクションだ。
……え? 解説すべき本がちがう?

まあ、細かいことを言わずに話を聞いてほしい。おもしろいんだから。この本は「戦力外通告」を受け、Jリーグ、欧州、南米以外の場所、つまりマイナーな国や地域に渡っていった日本人プロサッカー選手たちの物語だ。

酒井友之選手もその一人。稲本潤一選手や小野伸二選手らと共に1999年、U‐20日本代表としてワールドユース選手権準優勝を勝ち取り、「黄金世代」と呼ばれた選手だ。彼は持病の腰痛などが原因でJリーグで結果を残せず、東南アジアのプロリーグに活路を見いだす。最初はベトナムのホーチミン、次はインドネシアのジャカルタと流れ、さらには同じインドネシアでもニューギニア島のワメナに拠点を置くチームに移籍した。

仰天してしまった。ニューギニアのワメナなんて、大学探検部の学生が隊を組んで遠征に行くような場所だ。現地のダニ族という人の中にはいまだに全裸で陰茎にペニスケースをつけている人もいると聞く。そんな場所にプロサッカーチームがあり、かつてユースとはいえ日本代表で活躍した選手が流れていくなど想像もつかない。

言葉も通じず、トイレには桶に水が張ってあるだけという環境で、酒井選手のストレスを癒やしたのは、ホテル近くのインターネットカフェだった。ここにずっと入り浸り、ネットをしたり日本のテレビ番組を見たりしていたという。このカフェ、いったいどんな人が経営しているかと思いきや…。酒井選手は語る。

経営しているのが藤原さんという日本人の方なんです。藤原さんは冒険家で10年くらい前にワメナに来て、インターネットがないので自分でやろうと店を開いたそうです

なんと! 私は目が点になった。冒険家の藤原さん? それはもしかして、というか、そんな人はほかにいるはずがない。あの『ニューギニア水平垂直航海記』に登場する藤原一孝隊長。そうとしか思えない。

まったく関係のないサッカー本の中で藤原隊長に再会した驚きと感動は本書を読んだ人にはよくわかると思う。まさにノンフィクションでしかありえない、予想外の展開だ。

ここでようやく本書の解説に入りたい。

これは日本冒険界の奇書中の奇書である。

まず著者の冒険の動機が尋常でない。峠さんはシンガーソングライター。それまでトントン拍子にプロのミュージシャンになり、家族、仕事仲間、友人、恋人まで周囲は温かく優しい人たちばかり。楽しくて幸せで言うことなしの人生。そんな峠さんにとって最大のコンプレックスは「自分は苦労を知らない」ということ。このままでは将来たいへんなことになるのでは…という不安にさいなまされた結果、自ら苦難に飛び込むことを決意した。

フラッと立ち寄った書店で何気なく手に取った山岳雑誌『山と溪谷』に「日本ニューギニア探検隊募集」とあるのを発見、アウトドアに無縁だったのに、「これで人生が変わるかも!」といきなり応募してしまう。しかしこの探検計画はものすごい。

ヨットで太平洋を渡り、ニューギニア島を目指し、それからゴムボートでニューギニア島の大河・マンベラモを遡上、オセアニア最高峰カルステンツ・ピラミッド(4884m)北壁の新ルートを世界で初めてロッククライミングで開拓する─。

計画したのは先述の藤原一孝氏。かつては山岳界で数々の初登攀を成し遂げ、新宿の住友三角ビルを命綱なしの素手だけで最上階までよじ登り世間を騒がせ、その後、海に転じて日本にウインドサーフィンを普及したカリスマ的人物だという。日本を代表する冒険家なのだ。その藤原さんが人生の集大成と位置づけて計画したのがこの大冒険だった。

そんな植村直己級の冒険にド素人の峠さんは「遺書」を書いて参加する。「苦労したい」というだけの理由で。

ほかに隊員は二人。元自衛隊員の「コーちゃん」と早稲田大学探検部の現役学生である「ユースケ」。私も早大探検部出身だが、「へえ、現役の後輩が参加してるんだ」と思っただけだった。本書を初めて読んだ頃、私は10歳も年下の後輩と付き合いがなかったからだ。あとになり、角幡唯介と直接会い、あの「ユースケ」が彼だったことを知って驚いた。

角幡は開高健ノンフィクション賞と大宅壮一ノンフィクション賞をダブル受賞した傑作『空白の五マイル』でチベット・ツアンポー渓谷の二度にわたる探検について記している。その最初の探検の前に、こんな風変わりな探検隊に参加していたのだ。

元自衛隊員のコーちゃんは船酔いのため早々と脱落。結局、藤原隊長、角幡、そして峠さんという珍メンバーでニューギニアへ向かった。

※以下はネタバレを含みます。未読の人はまず本書を読んでください。絶対おもしろいですから

しかし、この探検隊はすごい。やっていることは並外れた冒険なのに、実に杜撰でテキトーなのだ。そもそもこんな冒険に素人女性を連れて行くことが間違っているし、ヨットの燃料計が壊れていて残量がわからないとか、行ってみたらオセアニア最高峰が現地の諸事情で登れそうにないので、現地の人に「未踏峰がある」と聞いてそっちの山にひょいっと目標を変えてしまうが、それもやっぱり登れず、また別のトリコラという山にするとか……。

それでも峠さんという人はすごい。登山用具の名称すらわからず、登攀準備でぼうっとして隊長に激怒されたりしながら、根性だけで一週間もかけ、標高4000メートルの岩壁を登ってしまう。

ここでめでたく探検隊の目的は終了するはずだが、なぜか今度はニューギニアに棲む「幻の犬」を探すことになり、呆れた角幡は帰国してしまう。その他、現地のガイドやポーターたちに騙されること無数、パプアニューギニアとインドネシアへの密入国を繰り返したり、長い待ち時間は麻雀に明け暮れたり、もう、とりとめがない。でも、峠さんは常に一生懸命。幻の犬がいるという情報を聞きつけてはあちこちを奔走するが、当然見つかるわけがない。そのたびにショックのあまり、峠さんは村人の前で泣きじゃくったり、「これで私たちは信頼、自信、金、夢…、全てを失ってしまった」などと書く。

そもそも「幻の犬」探しなど、探検の予定に入ってないし、さっさと帰国すればいいものをどうしてこんなに追い詰められているのかまるでわけがわからない。

最終的に峠さんは日本のお父さんに電話か手紙かで「お前は、人ができないことをもう充分やったんだよ。(中略)帰っておいで」と言われて帰国を決意する。お父さんの言葉は読者全員の思いを代弁しているのだが、それに著者の峠さんが気づいているかどうかは不明だ。

こうして、なんと1年1カ月に及ぶ大冒険活劇は幕を閉じた。そして、藤原隊長は「幻の犬」探しが諦めきれず、ニューギニアに戻り、ネットカフェをオープンしたところ、元ユース日本代表の酒井選手が入り浸るようになったというわけだ。ネットカフェにはレストランもあり、酒井選手は中華丼やオムライスも食べていたという。本書では、食事作りはもっぱら峠さんに任せっぱなしで、文句だけは言い、「ハイエナのように」食べるばかりの藤原隊長が、客にちゃんと日本食を作って出していることにも妙な感銘を覚えてしまう。

本書と『越境フットボーラー』を合わせて読み、ノンフィクションの醍醐味をイヤというほど満喫した私だった。

……以上は約二年前、私が自分のブログに書いた感想を再構成したものである。

ところが今回、あらためて本書を読み直すと、少々ちがった印象を受けた。冒険旅行はやはりとりとめがないのだが、読んでいくと最初から最後まで一貫してぶれない部分がある。

それは「峠さんと藤原隊長の愛と葛藤の物語」である。

最初読んだときも思ったのだが、本書ではあまりに角幡の影が薄い。気力、体力、技術には何も問題なさそうだが、それ以上でもそれ以下でもなく、ただ一緒にいるだけという感じ。たった三名しかいない隊の隊員なのに「ユースケ」と愛称だけしか記されていないのは、角幡に気を遣ったのかもしれないが、やはり変である。

でも、本書を藤原隊長と峠さんの愛憎劇として読めば、すごく腑に落ちる。峠さんにとって死活的に重要なのは常に隊長なのであって、角幡のことは別にどうでもいいのである。

冒険旅行の間、峠さんは8割か9割方、隊長に対し腹を立てており、ときには本気で憎んでいる。隊長は峠さんに辛く当たりつづける。ヨットやクライミングの技術がないという当然のことに怒りまくり、「飯がまずい」「指示したときに返事をしなかった」と難癖をつけ、大事な食料を一人で食べてしまったりする。峠さんは何度も何度も「もうこの人にはついていけない」と思うのだが、でも毎回踏みとどまる。自分が至らないせいだと思うせいだし、やっぱり隊長についていけば夢が見られるからだ。

わがままだけど魅力的な男についていく恋人のようでもあり、無茶な師匠ととんちんかんな弟子のようでもある。二人の関係は読んでいるこちらも「いつ破綻するのか」とハラハラさせられるが、ときおり、分厚く覆った雲の切れ目から明るい日の光がさっと差すように、美しい場面が照らし出される。

トリコラ登攀のあとがそうだ。隊長はマラリアかなにかで高熱を発しガタガタと震える。峠さんも寒さが限界だったにもかかわらず自分のセーターを隊長に着せた。隊長は「あったかい、あったかい」と独り言のようにつぶやいたなんて場面は夫婦愛のようにも見える。

帰国の航海では”邪魔者”の角幡もいなくなってしまった。「隊長と二人で海を渡るなんて考えただけでも恐怖」と前は思っていた峠さんだが、実際には二人とも疲労が限界に達して肉体的には非常に厳しい状態にありながら、今までの「憎しみ」「怒り」は消えている。二人だけの純粋で爽やかな旅がある。

最大の危機はグアム入港時。エンジンが止まってしまい、防波堤のすぐそばに高波が打ち寄せたいへん危険な状態に陥っていた。一歩間違えれば防波堤に激突し、ヨットもろとも海の藻屑になるところだが、真の冒険家の顔になった隊長が奮闘し、危機一髪で入港に成功した。峠さんはこう書く。

ギラギラ輝くグアムの熱い太陽をバックに、隊長は、「いやぁ、スリリングだったなぁ!」と、真っ黒の顔に真っ白な歯を剝き出しにして、ガハハと笑った。あまりにまぶしくて、私は涙が出るのを一生懸命こらえていた。

私が読んでも「まぶしい」場面だ。

そして最後には感動的なラストシーンが待ち受けていた。

一年以上にもおよぶ苦難と危険の連続だった冒険行を終え、相模湾に入ると、峠さんは驚くことにあれほど恋い焦がれていた日本を前にして「さびしさ」を感じる。

五感と向き合い、自然と対話した充実の日々を失いたくないという理由だが、それだけではなかったんじゃないか。隊長と別れたくなかったんじゃないか。男性としてか師匠としてかわからないが。

彼女はこう書く。

隊長に、「このままチャウ丸(船の名前)でどっか行っちゃおうよ」と言いたかった。そう言おうとしたまさにその瞬間、隊長が私の目を見つめて、思いも寄らないことを言い出した。

「恵子、お前はよくやった。お前がいなかったらこの探検はなかった。こうして生きて帰ってこられたのもお前がいたからだ。たいしたもんだ。よくやった。……ほんとうによくやった。ありがとうな……」

こんな隊長は見たことないくらいに、優しい口調だった。

思いもかけない出来事に、私は驚いた。それと同時に、溢れる涙を抑えることができなかった。

探検出発前の訓練のときから、私はいつも怒られっぱなしだった。一度だって誉められたことがなかった。まさか隊長が私のことをそんなふうに思ってくれていたなんて……。私には、とても信じられなかった。

「お前はほんとうに頑張ったよ。さ、握手しよう」

隊長が手を差し出した。

いや、ジーンときてしまった。艱難辛苦の果て、ついに二人の心はつながったのだ。とてもノンフィクションとは思えないほど、できすぎたラストである。

と同時に私はなんだか切なくなった。「残念!」と思ったのだ。

隊長は日本に帰る理由を持たない人である。家族もいないし、この冒険が人生の集大成なのである。ニューギニアで「幻の犬」探しを続けていたのも、ロマンを追うだけでなく、日本に帰りたくなかったゆえだろう。

だから、もし峠さんが先に「このまま二人でどこかに行きましょう」と言ったら、「よし、そうするか!」と映画「卒業」ばりの展開になったのではないか。でも、隊長が一瞬先に「本心」を見せてしまったがために、二人が新しい世界に向かって逃走するというチャンスを失ってしまったんじゃないか。ああ、もったいない。もしかしたら二人は今頃、ニューギニアでネットカフェを経営し、料理上手な峠さんがいるだけに酒井選手にもっといろいろな料理を食べさせていたかもしれないのだ。

……なんて妄想も広がり、この本は実に楽しい。

読み方によって全然ちがう相貌を見せるのもノンフィクションの醍醐味だと再認識させられた。 それから、本書では「どうでもいい男」に甘んじることになった角幡唯介にこの冒険記を書いてほしい。彼の端正な筆にかかれば、このハチャメチャな珍道中も文学性の高い紀行文となるのかもしれない。書き手が変わっても、同じ事実がちがったものに変化する。

それもまたノンフィクションならではの醍醐味なのである。

(高野 秀行・ノンフィクション作家)

冒険歌手 珍・世界最悪の旅

作者:峠 恵子
出版社:山と渓谷社
発売日:2015-09-18