「解説」から読む本

『本当の夜をさがして』夜を喪う

巻末エッセイ by 角幡 唯介

白揚社2016年4月19日

光が氾濫する現代に生きていると、夜が本当の暗闇に包まれていた時代を思い描くのは難しい。安全や便利さと引き換えに、当たり前の存在であったはずの星空を失なったことは、生態系や私たちの生活・健康にまで影響を与えているという。本書は、もっとも明るい都市からもっとも暗い砂漠まで、世界各地を訪ね歩き、失われつつある「夜」の価値を問い直した一冊だ。巻末に寄せられた角幡 唯介氏のエッセイを特別に掲載します。(HONZ編集部)

本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのか

作者:ポール ボガード 翻訳:上原 直子
出版社:白揚社
発売日:2016-04-19
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ケンブリッジベイの村はすでに冬を迎えていた。12月下旬の北極圏の空はすでに太陽の支配圏から脱しており、一日、一日と徐々に深い紺色の色合いを濃くしつつあった。

スキーを履き、橇に荷物を満載にして私は村を出発した。次第に濃度を増していく暗闇の底にむかうように、私はいくつもの小さな丘を越え、そして次に現れる小さな谷を横切り、また丘を乗り越え、そして谷を渡るということを繰りかえした。

大気中を漂う水分はすべて凍りつき、月光に照らされてダイアモンドダストのようにキラキラと輝いている。冷たく乾いた強風によって吹き曝しになった地表では、ごつごつとした岩と礫に覆われた茶色い地面が雪の下から露わになっている。露出した岩面をスキーで横切るたびに、私の重たい橇はズリズリという鈍い摩擦音をだして軋んだ。小さな丘と谷が連続して段々となった地面は、全体的に緩やかな傾斜で高度をあげており、それが重い橇を引く私の心肺にさらなる負担を与えた。

苦しさに耐えかねて立ち止まり、私は背後を見わたした。うしろにはケンブリッジベイの村の灯りが灯っている。人口1000人少々のその小さな村の灯りは、地球とはちがうどこか別の惑星のように荒涼とした氷原のなかに灯る、今にも消えそうなロウソクの炎のようだった。振りかえるたびに村の灯りは少しずつ小さくなっていった。少しでも早く村の人工灯から遠ざかり、本当の夜の世界の経験を開始したかった私は、息を弾ませて、村の灯りから逃げるように一歩一歩スキーを前に進ませた。

北緯66度33分以北の北極圏では、冬になると太陽が昇らない極夜という時期を迎える。緯度が高くなればなるほどこの極夜の期間は長くなり、ケンブリッジベイの村のある北緯69度あたりになると、大体それは1カ月ほどつづき、その間、太陽は一瞬たりとも地平線のうえに姿を現さない。長い夜の季節だ。私がケンブリッジベイの村を旅出ったのは、この長い夜を探検するためだった。

極夜にたいする私の憧憬は、極地文学の古典であるアプスレイ・チェリー=ガラードの『世界最悪の旅』を読んだときに形成されたものかもしれない。この本は極地探検の全盛期にあたる20世紀初頭に、英国のロバート・スコットの探検隊が世界初の南極点到達を目指したときの記録で、スコット隊はノルウェーのアムンセン隊に極点到達競争で先を越され、帰路に全滅するという悲劇を迎える。そのような探検の記録なので、本のタイトルになっている『世界最悪の旅』とは、この非運に見舞われたスコット隊の最期を表した題名のように思える。だが実際はそうではなく、このタイトルは本隊である極点到達隊の前冬に、コウテイペンギンの卵を手に入れるために実行された短期間のサブ探検隊のほうに由来している。

確かに、この「コウテイペンギンの卵探検隊」は、本を読んでいる私に「世界最悪」という修辞語句が適切だと首を頷かせるほど過酷なもので、顔や手足に凍傷がいくつもできるほどの極寒の氷の世界を行進し、強烈なブリザードにテントが吹き飛ばされて命はもうないと覚悟するような苦難の連続だった。しかし、この旅が真に世界最悪だったのは寒さや風が原因ではなかった。じつはこの旅は南極の冬、すなわち極夜の時期に暗闇の世界をさまようという非常に特殊な環境下でおこなわれた旅だったのだ。未知の闇のなかを手探りで進む旅のあり方こそ、著者に「世界最悪」という修辞語句を思いつかせた要因であったのだ。

闇のなかを行進するという旅は、私の想像の範囲を明らかに逸脱する行為であった。なにしろ極夜は通常の夜とちがい、1日のうちに昼が来るということがない。基本的に24時間つづく夜なのだ。来る日も来る日もつづく夜である。いったいその旅にはどんな障壁が待ちかまえているのか、1カ月以上の間、闇のなかで過ごして人間の精神は持ちこたえることができるのか。長い不在のすえに太陽がついに地平線の上に姿を現したとき、人は何を思うものなのか。何もかもがわからないことばかりで、この読書は私の記憶に強烈な刻印をのこす体験となった。

ケンブリッジベイを出てから1カ月ほどの間、私はチェリー=ガラードの探検隊のように闇の世界をさまよった。ケンブリッジベイの緯度では、正午を中心に4、5時間ほど地平線の下の太陽の影響で空は薄明りにつつまれるため、天体が出てくるのは午後2、3時頃からである。まず東の空で木星が明るい光を放ちはじめ、つづいてカペラ、ベガ、デネブといった輝度の高い1等星が順番に薄暮時の空に煌めきの炎を灯していく。

空がすっかり夜の闇にのみこまれると、私は毎日、アークトゥルスの輝きを目標に前にすすんだ。だが、星は24時間かけて北極星を中心に反時計周りに一周するため、目印にしていた星も時間が経つうちに徐々に方角がずれていく。私は頭のなかで星の移動を考慮しながら、適当な頃合いを見計らって目標とする天体を次々に変えていった。アークトゥルスからベガへ、そしてベガからアルタイルへと……。

風がなく視界が透き通った日に、夜空の天体を水先案内人として旅をつづけることはまったく素晴らしいの一言に尽きた。私は天体とあいだに純朴なつながりを感じた。私の身体は天体との見えない糸によって結びつけられており、その糸が私がこの世界に紛れもなく存在していることを約束している。この見えない糸が切れてしまえば、私の命は自然との連関を失い東京での生活のように再び漂流してしまうだろう。天体の光がなければ私の旅は不可能も同然だった。私は凍てつく闇空間で一人、身体と精神が溶けだしてしまいそうな星との一体感を感じて、高揚した。

天体は行き先を示す目印となるだけではなく、私がこの極夜世界のどこに位置しているのかという旅に不可欠な情報も提供してくれた。私は意図的にGPSを持っていかなかったので、自分の現在位置を知るためには天体を六分儀で観測して高度を割り出し、観測データをもとにテントのなかで複雑な計算をこなさなければならなかった。天体の光という自然物によって行き先を示され、そして自分の地球上における現在位置の手がかりもまた星によって手渡される。凍てつく闇の底で天測をするということは、世界を構成している万物の源である自然に対して自分が関与する領域を広めることに他ならなかった。

このような自然にたいして働きかける具体的な作業を通じて旅を構築することで、私は自分と天体とのあいだにこれまで感じたことのない強固な関係性が生じているのを発見した。六分儀をかざすことで私は星に働きかけ、そして星からの返答を読み取ることで、曖昧だった自分自身の存在を地理的な位置という具体的なかたちで物理的空間の中に明確に確定させることができる。星とのあいだに紡がれた関係により私は生存することができているのであり、自分の生の明瞭な輪郭線を感じとることができた。

星と同様に月にもまた私は生かされていた。しかも月は星よりも、抜き差しならないかたちで私の命運を握っていた。月は星と違って毎日必ず姿を現すわけではない。地球の地軸が傾いている関係上、北極圏のような高緯度地方では、月の位置によっては地平線の上に姿を現さない日も少なくない。したがって月の出ない夜こそ、極夜の暗闇はその真価を発揮する。

月の出ない夜は行動するのが著しく困難だ。私は行動中はあまりヘッドランプを使わずに歩いていた。ヘッドランプをつけると、明りで照らされた範囲以外は逆に目が効かなくなり、狭い範囲しか見えず、全体的な地形の雰囲気がわからなくなるからだ。人工的な明りがなくても、目が慣れてくれば何となく周囲の丘や海岸線の位置がぼんやりとわかってくるものだ。しかし月がなければそれも限界があり、肝心の足元の氷や雪の状態がよく見えなくなる。

ある晩、乱氷帯を歩いていた私は、足元の雪がそれまでの堅い雪面から突如、ふんわりとした柔らかい新雪に変わったのを感じた。そのまま歩き、5メートルほどで新雪帯を突っ切ったが、少し不思議だったので、振り向いてその柔らかい雪面をストックで突いて確かめてみた。その瞬間、ゾッとした。その新雪帯は氷が割れて海水が露出したところに雪が積もっていただけだったのだ。月のない暗い夜だったので、雪が積もっただけの海水の上をそれとは知らずに歩いてきてしまっていたのである。

月が出ない真の暗闇につつまれた夜はシンプルな恐怖と不安に支配される夜でもある。極夜の暗い世界で吹く風は、昼間の太陽の光がある明るい世界で吹く風よりもはるかに風力が強く感じられて、単純に恐ろしい。闇のなかを歩いていて次第に風が強まってくると、まだ歩ける風力であるとわかっていても、テントが立てられなくなるのではないかという不安が勝って、どうしても早めに幕営することが多くなる。そしてテントのなかに入っても、風でバタバタと揺れるテントの生地や地吹雪の不気味な轟きが実際の音以上に大きく聞こえて、それが自然のなかに一人でいることから生じる孤独感や不安感を増幅させた。

強風のなかから時折聞こえてくるガサガサ……ガサガサガサ……という雪の摩擦音が、鼓膜を通過するときに変調をきたし、脳内の感知部位に達するときには熊の足音にしか聞こえなくなるのである。そして私は疑念に耐えられなくなり、銃を構えてテントの外に飛び出す。しかしそこにあるのは熊の足跡ではなく、強風吹きすさぶ荒涼とした氷原がどこまでもつづく極夜の闇である。

月の出ない期間、私はとにかく一刻も早く月が戻ってきてくれることを望んでいた。そして満月が強大な明りをともなって地平線から力強く立ち上り、どこまでも長く伸びる私自身の人影を氷の上に作りだした瞬間、私は狂喜した。極夜で旅をするには星や月に頼るほかなかったのだ。

いつ頃から人間は闇を畏れるということをしなくなったのだろう。現代人にとって太陽、月、星といった天体はすでに本質的な存在ではなく、私たちの日常は人工灯やGPSという疑似的な太陽、月、星を周囲に設営、運行させることにより成立している。私たちは休日の天気や、皆既日食や数十年に一度の流星群を見る時以外に太陽や天体にたいしてさほど関心をいだかなくなった。現代の女が夜の闇にたいしてどのような恐怖を抱くかは男である私にはわからないが、少なくとも私のような成年男子が闇が怖いので夜は出歩かないということは考えにくい時代になっているし、仮に大人の男がそのようなことを言い出したら逆に精神の健全性を疑われるだろう。

だが、それがはたして元来自然物である人間のあり方として健全なものなのだろうか、とも思う。初めての極夜の旅から戻って以来、私はそんな問題意識を持つようになった。古代人が世界的に太陽を神と崇め祭祀を執りおこなってきたことからも分かるように、太陽や月や闇は人間にもっとも身近な自然の対象だった。

人間は昔から太陽の光を崇め、それに生かされていると感じ、闇を畏れて回避しようとしてきた。それが自然物である人間の自然に対する然るべき距離感であり、そうやって何万年も暮らしてきたのである。しかし近代以降、人間は人工灯で闇を覆い隠すことで、最も身近な自然を撲滅させた。夜という自然を撲滅させた結果、闇を畏れるという人間として極めて適切な感情も私たちは喪いつつある。

外部世界のあらゆる事象は、私たち人間自身が内部で直観し、主観的に知覚することで初めてその存在に形式が与えられる。これは西欧近代哲学に現れたひとつの考え方かもしれないが、しかし自分の経験に照らして、私も実感をもってそんなことを感じることがある。自分の精神と身体が直観、知覚できないところに存在する「純粋客観」などこの世に存在するかどうか極めて怪しいし、少なくともそれは私自身の生に切実な意味は持たない。

夜の闇が持つ本来の恐怖性を人間が直観できなくなったのは、それに呼応する内部の直観センサーを人間自身が失ったからである。たしかに現代人にとって夜は恐ろしいものではなくなったが、それは夜を恐ろしいと感じることのできる感受性を現代人側が喪失したことの裏返しだ。私たちの精神からは外側の夜と等しいだけの内側の何かが剥がれ、そして空洞化している。

夜を畏れることができなくなった精神など単なる貧しさの表れである。私は夜を畏れる人間でありたい。

角幡唯介(ノンフィクション作家・探検家)

本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのか

作者:ポール ボガード 翻訳:上原 直子
出版社:白揚社
発売日:2016-04-17