「解説」から読む本

『殺人犯はそこにいる』「真犯人」の存在を明らかにした “調査報道のバイブル”

文庫解説 by 牧野 洋

新潮文庫2016年5月28日

徹底した「調査報道」のスタイル

調査報道のバイブル──。本書を読み終え、こんな表現がぴったりではないかと思った。
正直に言うと、民放テレビ業界については「そこは報道ではなくエンターテインメントの世界」と見下していた。そのため、メディア業界を取材するなかでも、ジャーナリズムという視点からこの業界を観察したことがなかった。本書の著者が民放テレビ局の記者だと知り、自分の無知と思い込みを恥じた次第だ。

本書は、足利事件をはじめ北関東で起きた一連の事件を「北関東連続幼女誘拐殺人事件」としてとらえ、真犯人「ルパン」に迫るルポだ。すでにテレビ報道を見たり雑誌記事を読んだりして、この事件の概要を知っている人も多いだろう。だが、一つの物語としてまとめて読むべきである。

なぜなら、事件の大きさはもちろんのこと、ジャーナリズムが本来担うべき機能について考えさせられるからだ。著者は事件の全容を描きつつ、自分自身が職業ジャーナリストとしてどう行動したかについても克明に記している。本書は読み物として第一級であると同時に、「公益に資する報道」とは何かを考えるうえでも秀逸なのである。「殺人事件について記者が興味本位で書いたエンターテインメント作品」と思ったら大間違いだ。

著者の清水潔氏は、「桶川ストーカー殺人事件」を扱った『遺言──桶川ストーカー殺人事件の深層』(2000年新潮社刊、現在は『桶川ストーカー殺人事件──遺言』に改題し、新潮文庫)で見せた調査報道のスタイルをここでも貫いている。警察や検察など「官」からの情報をそのまま信用することはない。公的な文書であっても、である。たとえば清水氏はこう書いている。

私自身を納得させるためには、はっきりとした根拠を探し続けるしかない。新聞記事や関連記録、報道資料に起訴状、冒頭陳述書、判決文の写しなど、あらゆる資料に当たる。(中略)どんな資料も鵜呑みにしない。警察や検察の調書や冒頭陳述書は被告人を殺人犯として破綻がないように書かれている

「一番小さな声を聞け」

大量の公開情報を入手し、徹底分析するのは調査報道の王道だ。そこから矛盾点を探し出し、権力側が何か隠していないかヒントを得るのである。ウォーターゲート事件などで調査報道の伝統がある米国では、「今時のジャーナリストは回帰分析ぐらいできないとダメだ」(米コロンビア大学ジャーナリズムスクールのニコラス・レマン前学長)と言われるほどデータ分析能力が重視されている。

次も本書からの引用だ。足利事件を語る文脈で出てくる。

「一番小さな声を聞け」──。それは私の第一の取材ルールであり、言い方を換えれば「縛り」とすら言えるものだ。この事件ならそれは4歳で殺害された真実ちゃんの声であり、その代弁ができるのは親しかいない

「小さな声」とは、言い換えれば非権力側である。調査報道では権力側と対立する内部告発者の声に耳を傾け、権力側の不正を暴くケースが多い。ウォーターゲート事件では、ワシントン・ポスト紙の記者が「ディープスロート」と呼ばれる内部告発者とパイプを築き、当時のニクソン政権の不正を明らかにした。

清水氏は、捜査当局と実質的に二人三脚で動くマスコミについても手厳しく書いている。

マスコミが「お上」という「担保」によりかかってしまい、右から左に情報を流すだけになってしまったらどうなるか。実際、現場にも行かず、容疑者や遺族と会ったこともない捜査幹部から、記者が話を聞くだけ、という「伝聞の伝聞」取材もあるのだ

調査報道と聞くと、何やら小難しい話ばかり出てくるのではないかと思う人もいるかもしれない。本書ではそんな心配は無用だ。清水氏は取材の手の内を明かしながら臨場感あふれる筆致で物語を展開していく。読者も一人の記者になった気持ちで引き込まれ、最後まで一気に読み進めることができる。

杜撰なDNA型鑑定と「警察広報紙」

清水氏の調査報道が大きな威力を発揮したのが足利事件だ。同氏は独自取材によって冤罪の可能性を浮き彫りにし、警察など巨大権力と対立。ついには、無期懲役囚として17年半も服役していた菅家利和氏の釈放を実現させることに成功した。まさに公益に資する報道だ。米国ならば、ジャーナリズム最高の栄誉であるピュリツァー賞の中でも最も格が高い「公益」部門の受賞作に選ばれてもおかしくない。

タイトルが「殺人犯はそこにいる」となっているのは、菅家氏が釈放されたのにいまだに真犯人が野放しにされたままになっているからだ。警察が真犯人を捕まえると、菅家氏有罪の決め手になったDNA型鑑定のミスを認めることになり、ほかの事件でも冤罪が発覚しかねない──これが警察が動かない理由かもしれないのだ。

DNA型鑑定をめぐる攻防は本書の中でもとりわけ生々しい。これほどいい加減なDNA型鑑定が行われていたのかと愕然としてしまうのだが、菅家氏逮捕を伝える新聞紙面はまるで「警察広報紙」である。何しろ「指紋制度にならぶ捜査革命」(読売新聞)などと報じていたのだから。
殺人罪などで服役していた無期懲役囚の無実を明らかにする証拠を示し、釈放させたとすれば、文句なしの大スクープとして胸を張れる。ならば、すでに死刑が執行されている事件で冤罪の証拠を示し、司法当局に認めさせたらどうか。「日本を動かす大スクープ」と言ってもいいだろう。本書に何度か出てくる「日本を動かす」というフレーズは大げさに聞こえるかもしれないが、決してそうではない。

一つの報道がもつインパクト

本書は、1992年に福岡県飯塚市で起きた幼女殺人事件「飯塚事件」についても一章を割き、冤罪の可能性を示唆している。同事件では足利事件と同様にDNA型鑑定が決め手になり、死刑判決を受けた男性の死刑はすでに執行されている。本書が示す疑問点を目の当たりにすると、「ひょっとしたらこれも冤罪では……」と思わずにはいられない。

清水氏は本書の中で「私はそもそも冤罪報道に興味はない。狙いは最初から許し難い犯罪者だ」と書いている。理不尽にも五人の幼女を誘拐したり殺害したりした「ルパン」を捕まえることに狙いを定めてきたというのだ。

確かに真犯人が野放しになっているのは大問題だ。これでは人々は安心して生活できない。だが、本書を読めば分かるように、日本には冤罪事件がこれまでも起きてきたし、これからも起きるかもしれない構図がある。これは日本社会に深く根ざしたシステム上の問題である。このシステムを変えない限り、仮に今回「ルパン」を捕まえることができたとしても、「第二のルパン」「第三のルパン」が現れるのではないか。

ここで留意しておきたい点が一つある。そもそも清水氏の報道がなければ、菅家氏は今でも刑務所の中におり、「ルパン」の存在についても誰も知らないままだったかもしれないということだ。「ルパン」を生み出すシステムを変えるうえで、報道は大きなインパクトを持つというわけだ。

国民にとって重要でありながらも、永遠に闇に葬り去られかねないニュースを掘り起こす──これこそ報道機関の根源的な役割であり、職業ジャーナリストとしての清水氏の立ち位置でもある。

スクープの四形態

米ニューヨーク大学教授でジャーナリズムの論客ジェイ・ローゼン氏によれば、スクープには四形態ある。清水氏による足利事件報道は、第一形態の「エンタープライズスクープ(発掘型スクープ)」に該当する。調査報道と同義と考えていい。ローゼン氏は次のように定義している(引用元はローゼン氏のブログ「パブリック・ノートブック」の2012年4月20日付記事)。

〈これは記者が独自に掘り起こしたニュースであり、記者の努力がなければ決して明らかにならなかった特報のこと。典型例は「CIAはテロ容疑者を秘密収容所に監禁」。デイナ・プリーストによるスクープだ。彼女がスクープしなければ、われわれは今もブラックサイト(CIA秘密収容所)の存在を知らないかもしれない〉

デイナ・プリースト氏とは、米ワシントン・ポスト紙のスター記者である。同氏は、非合法に拉致したテロ容疑者を拘束するために中央情報局(CIA)が世界各地に設置した秘密収容所「ブラックサイト」の全貌を明らかにしたことで、2006年にピュリツァー賞を受賞している。

ローゼン氏は第四形態の「ソートスクープ(思考型スクープ)」とともにエンタープライズスクープを高く評価し、「これこそ本来のスクープであり、特ダネを狙うときにすべての記者がお手本にしなければならない」と強調している。ちなみに、ピュリツァー賞最高格の公益部門ではエンタープライズスクープが常連だ。

では、日本の報道界ではどんなスクープが主流なのか。スクープ四形態のうちの第二形態「エゴスクープ(自己満スクープ)」である。次もローゼン氏による定義だ。

エゴスクープの特徴は放っておいてもいずれ明らかになる点。何もしなくても発表されるニュースであるにもかかわらず、それを誰よりも早く報じようとしてしのぎを削っている記者がいる。読者の立場からすれば、誰が初報を放ったのかはどうでもいい話であり、こんなスクープの価値はゼロである

特徴が「放っておいてもいずれ明らかになるニュース」であるから、事件報道であれば「警察はあすにもA氏を逮捕」といった報道が典型的なエゴスクープになる。ローゼン氏は「エゴスクープを放って喜んでいる記者は、公益とはまったく関係ない世界に身を置いて自己満足しているだけ」と手厳しい。

エゴスクープは「日本版ピュリツァー賞」とも呼べる新聞協会賞を受賞することもある。 朝日新聞による「紀宮さま 婚約内定」や日本経済新聞による一連の巨大合併スクープが代表例だ。厳密には巨大合併スクープは第三形態の「トレーダーズスクープ(業者型スクープ)」なのだが、ここでは議論単純化のためエゴスクープに含めておく。

一貫して市民目線

足利事件など「北関東連続幼女誘拐殺人事件」で登場するエゴスクープは、警察情報に頼った報道だ。警察がいずれ発表する情報を誰よりも早く入手するには、警察に気に入ってもらわなければならない。警察の”宣伝”になるような記事を書かなければ、エゴスクープをモノにできないというわけだ。

たとえば、菅家氏逮捕直後の読売新聞には次のようにも書かれていたという。

〈菅家容疑者 ロリコン趣味の45歳〉
〈”週末の隠れ家” 借りる〉
〈この「週末の隠れ家」には、少女を扱ったアダルトビデオやポルノ雑誌があるといい、菅家容疑者の少女趣味を満たすアジトとなったらしい〉

これは警察側の説明をそのまま垂れ流した誤報である。清水氏自身が自分の足を使って確かめ、当時の報道がいかにゆがめられていたか本書の中で明らかにしている。記者クラブに常駐する記者が書く「記者クラブ報道」は警察寄りの報道であり、清水氏が重視する「小さな声」を無視していたのだ。この場合、「小さな声」とは菅家氏本人や菅家氏の友人らの声のことだ。

記者クラブがない米国では、報道現場で記者は「市民目線」を保つよう口を酸っぱくして指導される。市民目線の報道は、英国人作家でジャーナリストのジョージ・オーウェルが残した名言「権力が報じられたくないことを報じるのがジャーナリズム。それ以外はすべて広報」の延長線上にある。

清水氏はまさに「権力が報じられたくないことを報じる」ジャーナリストだ。日本の大新聞については「警察や検察との対立事案について、まさにその警察や検察の言い分ばかり報じるのは本当に解せない」と書いている。記者クラブに属さず、いつも「小さな声」に耳を傾ける同氏の目線は一貫して市民目線だ。

本書と前作『遺言』で清水氏が見せた調査報道は、事件報道に限らずあらゆる分野の報道に適用できる。「小さな声」はどんな分野にも必ずある。事件報道であれば「警察ではなく市民」、政治報道であれば「政府ではなく納税者」「政治家ではなく有権者」、経済報道であれば「大企業ではなく消費者」「経営者ではなく労働者」の声を聞けばいいのだ。ちなみに、記者クラブは権力側にばかり配置されているため、たとえば「財政研究会(財務省の記者クラブ)」はあっても「納税者記者クラブ」はない。

調査報道で日本は変わる

調査報道では、発表報道とは比べものにならないほど時間と労力が必要とされる。にもかかわらず、「北関東連続幼女誘拐殺人事件」では、清水氏は多い場合でもせいぜい数人のチームで真犯人に迫っている。

片や日本の大新聞は、一社当たりで1000人以上の記者を抱えている。大半を記者クラブから解放し、市民目線に軸足を置いた調査報道に従事させたら、どんな変化が日本に起きるだろうか。「これでは日々の官庁発表モノを処理できない」とぼやくメディア幹部が出てくるかもしれないが、発表モノは通信社に任せておけばいい。清水氏級の調査報道記者が何十人、何百人と現れたら、それこそ「日本が動く」のではないか。

私は2014年夏に清水氏に会い、そんな思いを一層強めた。私が非常勤講師を務める早稲田大学ジャーナリズムスクールに同氏をゲスト講師として招いたところ、調査報道をめぐって議論が盛り上がり講演は大盛況になった。

教室で清水氏を待っていたのは、日本、中国、台湾、シンガポールなど国際色豊かな大学院生九人。このほか現役のジャーナリストや編集者、さらには高校生による勉強会「高校生が考える未来のジャーナリズム」を運営する女子高校生も話を聞きに来た。当初予定の一時間半を超えても質問が相次ぎ、その後の夕食会でも清水氏の話に熱心に耳を傾ける院生らの姿があった。

個人的に最も印象に残ったのは、質疑応答の最後だ。高校生が「日本に調査報道を根付かせるにはどうしたらいいですか?」と質問したところ、清水氏は「記者クラブなどのシステム的な問題で、記者は大量の情報に溺れているから、そこから別の方向へ進むことがなかなかできない。そんな環境を変えていくのは簡単ではない」としながらも、次のように答えたのである。

「ここにこれだけの人がいます。みんなが『調査報道は大事だよね』という意識を共有できれば、それが第一歩。みんながいろんな場所に散って、いろんな立場で少しずつでも調査報道をやっていけば、世の中を変えることができるかもしれない」

これまでは日本の報道機関が調査報道をやろうにも、調査報道のスキルを備えた人材を育ててこなかったから、右往左往するのがオチだった。調査報道を体系的に教えるためのジャーナリズムスクールもなかったし、教科書もなかった。だが、これからは違う。『殺人犯はそこにいる』という”バイブル”を一つの指針にすればいいのだから。

(2016年2月、ジャーナリスト)

「フォーサイト」2014年2月21日付記事に加筆した。