「解説」から読む本

『外来種は本当に悪者か? 新しい野生 THE NEW WILD』

解説 by 岸 由二

草思社2016年7月14日
外来種は本当に悪者か?: 新しい野生 THE NEW WILD

作者:フレッド・ピアス 翻訳:藤井留美
出版社:草思社
発売日:2016-07-14
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現代生態学の核心的なテーマを扱う不思議な本が登場した、というと、意外に思われるかもしれない。扱われているのは、自然回復論。外来種をどう理解し、評価するか、未来の自然保護をどのようなビジョンで考えるか、そんな話題ではないか。そのどこが現代生態学の基礎テーマにからんでいるというのだろう。

現代生態学の基礎テーマというと、まっさきに、ドーキンスの利己的遺伝子論や、やたらに複雑な数理生態学のことを連想する読者がいるかもしれない。それはそれで、正しいのだが、自然回復、自然保護などを扱う生態学のいわば本道における基礎テーマは、すこし焦点が違う。きわめて重要な領域なのだが、とくに日本の生態学の領域ではなかなか話題にするのも難しく、わかりやすい専門書もほとんどないのが実情だ。そんな、わかりにくい世界について、「外来種をどう評価するか」という現代保全生態学の論争的な話題を切り口に、さらりと紹介してしまう、というか、さらりと紹介してしまった著者の手腕に拍手をおくりたい。

生態学という分野は、生物の種の生存・繁殖と、環境条件との関係を扱う、ダーウィン以来の生物学の一分野である。と同時に、生態系、生物群集などという概念を使用して、地域の自然の動態についても議論をする分野でもある。種の論議と、生態系や生物群集の論議は、かならずしもわかりやすくつながっているわけではないので、 2つの領域はしばしばまったく別物のように扱われることもあったと思う。

しかし、20世紀半ば以降、実はこの2つの分野をどのように統合的に理解するかという課題をめぐって、生態学の前線に大きな論争あるいは転換があり、古い生態学、とくに古い生態系生態学、生物群集生態学になじんできた日本の読者には、「意外」というほかないような革命的な変化が、すでに起こってしまっているのである。その転換を紹介するのにもっともよい切り口が、「外来種問題」、これに関連する「自然保護の問題」といっていいのである。

古い生態学の中心概念と思われていた生物群集、あるいは生物群集を重視する生態系は、しばしば、超個体などともよばれる有機体論ふうの全体論哲学につらぬかれていた。いわく、生物群集・生態系は、進化の産物として厳密・厳格な種の相互関係、共進化にささえられており、個々の種は、歴史的に形成されたその厳格な相互関係の結節点(ニッチなどともよばれた)に、みごとに適応する存在として位置付けられていた。攪乱されることなく、保持された「手付かずの生物群集・生態系」は、それ自体が、微妙なバランスのもとに相互適応する代替不能な種によって構成され、「遷移」という歴史法則にそって「極相」とよばれる完成形にいたる、歴史法則的な存在とみなされていたのである。

その理解からすれば、生態系から離脱した種(外来種となった種)は、バランスを喪失する。重要な構成種を失った生態系も、崩壊する。外来種群によって攪乱される生物群集・生態系はさまざまな混乱を生じ、崩壊することもあるということになる。中世的ともいうべきそんな生態理解のもとで自然保護を論ずれば、守るべき価値のある種は、〈在来種〉であり、〈外来種〉はなんであれ忌避されるべき存在、回復されるべき自然は、本来その場に歴史的進化史的に共存すべき在来種の作り上げる生物群集=原生自然=手つかずの自然、「外来種」は除去・拒否すべきという実践指針がうまれてしまうのは、理の当然であったというほかない。

植物群落の再生にあたっては、公園であれ、防災林であれ、「潜在自然植生」というまかふしぎな種がしばしば実証も無視して珍重され、同じメダカであっても、地域固有であることが遺伝子分析で推定されるものは絶滅危惧種だが、ペットショップ由来のメダカは、除去・排除の存在でしかないというような、我が国の自然保護の現場の理解も、実はそんな中世的な生態理解の産物なのだと言って、たぶんあやまりではないはずである。

しかし、予想される通り、そんな中世的な生態理解はもはや生態学の前線の正統ではなくなり、さまざまな批判、対抗理解によっておきかえられつつある。それに対応して、自然保護の理解、「外来種」「在来種」の理解、評価も、到底一枚岩でない状況となった。「外来種はなんであれ排除せよ、より古くから固有と認定される在来種こそ保全されるべき」という常識的な自然保護論は、現代生態学の領域ではすでに四方から批判され、吟味されるべき、過去の命題となっているのである。

著者ピアスの筆は、そんな落としどころをおさえつつ、外来種だけでみごとな安定性をしめす生態系が実在すること、外来種の介入があればこそ豊かな生物多様性・生体機能を発揮する在来・外来生物の混合生態系(=新しい野生)が存在すること、特定の外来種が生態系攪乱・破壊の元凶とされるさまざまな事例において外来種は実は犯人ではなく、人間による汚染などの環境破壊に局所・局時的に対応しただけの存在であることなどを、読みつかれてしまうほどの執拗さで事例をあげ、解説しているのである。

 

そんな吟味をとおしてピアスが紹介する、新しい生態理解、厳密極まる共進化の産物としてあたかも超個体のように形成される、あるべき自然という中世的な自然理解に対抗する新理論は、種をもっと自由で、主体的な存在と見る、グリーソンやジャンゼンに代表されるような、個体主義的な種の理解、生物群集の理解である。いま、目の前で、「手付かずの自然」とみえる生物群集を構成している種は、長大な進化の歴史をその場所で共有し、共進化してきた存在ではなく、もしかしたら、さほど遠くない過去において、自然のさまざまな偶然、あるいは人為によってその場所に到着した、外来種同志かもしれない。そんな外来者が、いまそこで偶然うまく相互適応(生態的調整)しているだけなのかもしれない。いや、実はそのようなケースが、 むしろ普通なのかもしれないという、理解なのだ。

この理解からすれば、全ての種は、なんらかの特定の生物共同体の一員としてはじめて適応的な存在なのではなく、それぞれの種に固有の歴史や都合、いわば主体性において適応的な存在なのであり、何らかの程度に常に「在来」そして「外来」生物なのだということになる。保全生物学にとって、この理解が革命的でないわけがないのである。ピアスは、このような理解のもとに新しい生態学をすすめ、自然保護をすすめている世界の研究者たちの現状を、有能なジャーナリストとして取材し、報告する。

ここで、ピアスの著書を批評している筆者も、あえて派閥をいうなら、中世全体主義派ではなく、ドーキンス的な生物種のイメージとも整合する現代個体主義派と宣言しておくことにしてもよい。さまざまな政治イデオロギーも絡むかたちで、なにやら極限的な中世全体主義的自然論の横行する日本国保全生態学の領域にあって、もう理論的なやりとりはあきらめ、ひたすら実践世界において、新しい生態学の理解で地域の自然保護をすすめたいと心に決めていた筆者にとって、本書の登場は(理論的な整理に異論反論は多々ありとしても)、老いて曇天にまぶしい日差し、のような爽快でもある。

ちなみにいえば、新しい生態理解、種の理解を、「それぞれの種に固有の……主体性において適応的な存在」とあえて上に記したのは、もちろん、今西錦司を意識してのことである。日本の生態学の系譜でいうと、筆者は、種社会の主体性を主張した、偉大なナチュラリスト、今西錦司の、勝手連的な無縁の弟子と自己規定しているからである。

1940年代、日本の今西錦司は、当時、全体論的中世的な生物群集論をひっさげてアメリカ生態学を席巻していたクレメンツ流の全体論的自然像を批判して、種の主体性を基本とする、すみわけ論という壮大な生態学的自然像の創出にかけていた。その工夫が健やかに進み、のちの今西進化論とよばれる全体論によって頓挫せずにいたら、世界の現代生態学の基本は、日本国すみわけ論の生態学から育ちあがっていたかもしれないと、筆者は本気で考えている。全体論に復帰してしまった今西すみわけ論を無念としつつ、種の現代的な理解にもとづく自然保護をこころざしていま本書にあえたこと、まさに奇遇と感じているところなのだ。

さて、稚拙な批評のしめくくりに、本書の主題に合うはずの日本生態学自然保護論にかかわるエピソードをひとつ、筆者の足元での日々の実践から紹介させていただきたい。

「流域思考」を基軸とした都市の自然再生活動を本格的にスタートさせた1980年代末のこと、保全活動の中心地でもあった鶴見川源流の、事故で湧水の枯渇した細流から、私たちはアブラハヤ(淡水魚の一種)の地域集団数十個体を2キロほど離れた近隣の谷に移動させ、湧水復活後、もとの谷にもどしたことがあった。予期した通りというべきか、新聞やテレビでも報道されたこの活動を目にした某保全生物学研究者から、間髪をおかず激しい抗議がおくられてきた。いわく、「固有の生息地からの集団の移動は、国内外来集団を生み出すことになるので認められない。ましてや湧水回復後に復帰させるというのは、環境改変後の地域への移植であり、 また近隣とはいえ別地域の個体群との混合、遺伝子汚染(!)の恐れがあり、さらにさらに認められない。貴殿は生態学者の風上にもおくわけにゆかない。そのアブラハヤ小集団は、湧水枯渇時に、元の生息地において全滅させるのが、保全生態学的に適切であった」

あれからもう30年になろうとしているのだが、いま筆者の自然保護の現場に、直接、間接に登場する日本国保全生態学者たち、あるいはそれに同伴する自然保護活動家たちの主張は、なお同じ中世世界にとどまりつづけているように思われて、ならないのである。

人類活動における温暖化、生息地破壊・改変の現実の中で、私たちの未来が目指すべき自然は、中世全体主義的な生態学理解が空想する復古中世的な自然ではなく、だれが在来で外来か、 という神学的な論議をすることも時には不可能になってゆくような、人新世(Anthropocene)的激動の〈新しい野生=在来・外来混在の野生〉と格闘しながら、安全、生物多様性、そして生態系サービス充実の管理可能な生態系をめざしてゆくほかないのではないか。その実践、判断をささえる、基礎生態学の再建、あらたなファンクラブの創出が、実はいま我が国の自然保護領域における最大の課題なのではないだろうか。

本書を契機として世界の関連著書にふれ、自然保護の課題から現代生態学の基本理解の世界にいたる若い生態学者たち、自然保護の実践の現場から湧きいでよ。そう願うこと、しきりである。

岸 由二(慶応義塾大学名誉教授)