「解説」から読む本

『量子物理学の発見 ヒッグス粒子の先までの物語』量子物理学に今、革命が起ころうとしている

訳者解説 by 青木 薫

青木 薫2016年9月23日

2012年に世界を震撼させた「ヒッグス粒子」の発見。本書は、その発見にいたるまでの人類の歴史と、その先に広がる量子物理学のフロンティアをノーベル賞量子物理学者が綴った一冊である。宇宙の始まりを解き明かせるくらいの極小な世界を探索していく中で、今、実験物理学には大きなパラダイムシフトが起きているという。本書に余すところなく描かれたそのダイナミズムを、翻訳者の青木薫さんに解説いただきました。(HONZ編集部)

量子物理学の発見 ヒッグス粒子の先までの物語

作者:レオン・レーダーマン 翻訳:青木 薫
出版社:文藝春秋
発売日:2016-09-23
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実験家が一般読者のために本を書くこと自体、まずめったにない。一般向けの物理学の本は、ほとんどすべてと言っていいほど、理論家によって書かれているのである。

そうなってしまう理由は明らかだ、と、本書、『量子物理学の発見』の著者であるレオン・レーダーマンは、かつてこう書いている。

「なんたって連中(理論家)には、時間がたっぷりあるんだから」。

本を書けるのは、ヒマだからさ、というわけだ。「いや、わたしは忙しい!」と憤慨する理論家もいるだろうが、そのセリフがレーダーマンの口から出たものとわかれば、きっと苦笑いして「降参」の手を上げるだろう(ちなみに、本書のもうひとりの著者であり、レーダーマンの親しい同僚で、何冊かの共著をものしている物理学者クリストファー・ヒルは、ご想像の通り、理論家である)。

そして本書の魅力は、難解きわまりないことで悪名高い量子物理学が、ぐっと身近に感じられることだろう。量子物理学という分野は、一般にはきっとこんなふうに思われているのではないだろうか。

「それって、猫が死んでいるとか生きているとか、宇宙が無数に分裂するとかしないとか、まるで禅問答のような話が延々と続く分野でしょう?」。

しかし、そう思っている人にこそ、ぜひとも本書を手にとっていただきたいと思うのだ。個性的な粒子たちを、目の前で見ているかのような、あるいはその手で捕まえようとしているかのような、実験家ならではの語りを、きっと楽しんでもらえるはずだ。

本書の魅力をよりいっそう深く味わっていただくために、ここではまず、著者たちにゆかりのフェルミ研究所とはどういう研究所なのか、そしてレオン・レーダーマンとは何者なのかを、少し紹介させていただこう。

フェルミ国立加速器研究所は、1967年に、もっぱら素粒子物理学の基礎研究を目的として、イリノイ州シカゴ近郊に設立されたアメリカの国立研究所である。初代所長はロバート・ウィルソン(同姓同名の多い名前だが、このウィルソンのミドルネームはラスバンRathbunという)。

ウィルソンは第二次世界大戦中、原爆開発のマンハッタン計画に、最年少のチームリーダー(加速器部門)として参加した。しかし1945年5月にナチスドイツが降伏してみると、ナチスは核兵器を製造するどころか、ほそぼそと原子炉研究をやっていただけであったことが判明する。

それを知ったウィルソンは、この恐るべき兵器の開発はここでやめるべきではないかと考え、同僚の物理学者たちに呼びかけてミーティングを開く。そのときの緊迫した状況は、専門家に読まれるだけの歴史資料を飛び出して、ジョン・アダムズとピーター・セラーズによる現代オペラ、『ドクター・アトミック』にも活写されている。

しかしウィルソンの努力もむなしく、原爆が広島と長崎に落とされてしまったことは、日本人なら誰しも知る通りである。

戦後ウィルソンは、核の軍事利用のための研究はいっさい拒否し、軍拡競争の中止、および核兵器使用の禁止を訴えて、米国科学者連盟(FAS)の設立に尽力した。また、もっぱら基礎研究を行う加速器研究所、今日のフェルミ研究所の設立を国に働きかけた。研究所の設立を審議する上下両院合同原子力委員会の席で、「その研究は国防のために役に立つのか」と尋ねられたウィルソンが、「直接その役には立ちませんが、この国を守るに値する国にするためには役に立ちます」と答えたことは有名である。

その結果として研究所の設立が認められ、ウィルソンはフェルミ研究所の初代所長となった。乏しい資金をやりくりして加速器を作るためには、研究所の建物は粗末なもので我慢するしかあるまい、との意見もあったという。しかしウィルソンは、優れた研究者が集い、ともに研究したくなるような、魅力的な建物がぜひとも必要だと考えて、美しく印象的な中央管理棟を低予算で完成させた。それが、本書にも何度か登場するフェルミ研究所の中央管理棟、「ウィルソン・ホール」である。建築家にして彫刻家でもあったウィルソンは、「調和」を象徴するというそのデザインを、北フランスにある未完の大聖堂、ボーヴェ大聖堂のイメージに重ねた、と語っている。

ウィルソンはその後、陽子と反陽子を高エネルギーに加速して正面衝突させる画期的な加速器、「テバトロン」の建造計画に着手した。しかし連邦政府の助成額があまりに少ないことに抗議して、1978年、ウィルソンはフェルミ研究所の所長を辞任する。

そのウィルソンを引き継いでフェルミ研究所の第二代所長になったのが、レオン・レーダーマンである。レーダーマンはたぐい稀なリーダーシップを発揮して、危機に瀕していたテバトロンを完成に導き、この加速器はそれからおよそ30年の長きにわたり、「高エネルギーフロンティアの王」として君臨することになった。レーダーマンもまた、ノーベル賞何個分にもなると言われるほどの仕事をした(実際にもらったのは1個)。20世紀アメリカにおける理論物理学者のアイコンがリチャード・ファインマンだとすれば、実験物理学者のアイコンは、まちがいなくレオン・レーダーマンだろう。

レーダーマンは傑出した実験家であるのみならず、ウィルソンの志を継いで、研究所と周辺の環境との融和や地域住民との交流にも努めた。また、本文中にもそれとなく触れられているように、飛行機に飛び乗ってワシントンDCに乗り込んでは、基礎科学研究への助成を精力的に訴えてきた。さらに、次世代への科学教育のためのプロジェクトにも多大なエネルギーを注ぎ、この方面ではレーダーマンその人に捧げられた本もあるほどだ。(『Science Literacy for the Twenty-First Century』[邦訳『科学力のためにできること科学教育の危機を救ったレオン・レーダーマン』渡辺政隆監訳、野中香方子訳、近代科学社])。

テバトロンを完成させるためには、テクノロジーの壁をいくつも乗り越える必要があった。とくに重要だったのが、本書にも折に触れて登場する超伝導磁石である。フェルミ研究所は、このタイプの強大な磁石を作るためにユニークな設計思想を打ち立て、その後世界中で作られたほとんどの加速器はそれを継承している。さらに、そうして開発されたテクノロジーは、加速器のみならず、さまざまな分野での応用を生み出すことになった。レーダーマンは、純粋な基礎科学研究のために開発されたテクノロジーや概念が、医療や情報通信をはじめとする多くの分野で、現実の社会に大きく貢献できるということを、最先端の現場でまのあたりにしてきたのである。

とかく世間では、科学のビッグプロジェクトというと、「どうして理系オタクの知的好奇心なんかに、われわれの税金を使わなきゃいけないのか」という反応が起こりがちだ。しかし、それは間違いだ、とレーダーマンは本書の中で訴える。そう思い込んでいる社会の未来は暗い。科学には正真正銘、社会を活気づけ、豊かにする力があるのだ、と。

古典物理学から量子物理学への転換に匹敵する革命とは

20世紀の後半には、次々と大きな粒子加速器が作られ、どんどん高いエネルギー領域に手が届くようになった。加速器でビーム粒子のエネルギーを上げるということは、その粒子の量子波長を短くすることだ(木材伐採用のナタを、手術用のメスにするようなもの)。ビーム粒子をきりきりと絞りあげて、小さな世界を見ようとするわけだ。また、粒子と反粒子のビームを逆向きに加速して正面衝突させれば、両者は打ち消しあって、あとには純粋なエネルギーだけが残される。これは無駄をなくして大きなエネルギーを得る方法である。エネルギーを元手に、身の回りの世界には姿を見せない、質量の非常に大きな(それゆえ、作るためには大きなエネルギーを要する)、新粒子を作り出すこともできる。そうして作られた不思議な粒子たちがダイナミックに相互作用をする、驚くべき量子物理学の世界が、われわれの目の前に着々と広がっていった。

こうして、次々と高いエネルギー領域を目指すアプローチのことを、「高エネルギーフロンティア」という。このアプローチを一般向けに説明するときは、しばしば、「宇宙の始まりに迫る」とか、「未知の(重い)粒子を作る」といったキャッチフレーズが使われる。20世紀には、このアプローチからめざましい成果が上がった。実験と理論とが、あたかも車の両輪のようにうまく噛み合って回り出し、こんにちの量子物理学の基礎となる「標準理論」が作られた。しかし大きな成果が上がったがゆえの副作用もあった。素粒子物理学の実験というのは、次々と大きな加速器を使って高エネルギーフロンティアを切り開くことだ、というイメージが固まってしまったのである。

しかし、そのイメージは間違いだ、とレーダーマンは力説する。レーダーマンは、高エネルギーフロンティアを先頭に立って開拓してきた人物である。しかし第一人者であればこそ、そのアプローチだけがすべてではないことも知っている。そもそも、こんにち量子物理学で記述される、素粒子たちの不思議な世界が、どうやって発見されたのかを考えてみればいい。19世紀の末に古典物理学が完成すると、あとは細部をこつこつ詰めていくだけだ、という見方が支配的になった。物理学にはもうやるべきことは残されていない、物理学は終わったのだ、という気分が蔓延った。

そんなとき、アンリ・ベクレルやキュリー夫妻ら先駆者たちが、古典物理学という壮麗な建物に入った小さなひび割れから漏れ出す、かすかな光に気がついた。そして、当時はまだ誰も想像すらできなかった量子物理学の世界を、初めてその目で垣間見たのである。かすかな光を捉えるためには、東欧のウラン鉱山から譲りうけた何トンもの廃棄物を、汗水たらして精製し、わずかばかりの放射性核種(ラジウムやポロニウム)を取り出すこともやった。精製の方法を工夫し、精密な分析を行ってきわめて稀な現象を捉えたのである。それは非常に実り多い、現実的かつ有力なアプローチだった。

本書の特筆すべき特徴は、ベクレルやキュリー夫妻らの足跡に学び、現代のテクノロジーを駆使することで、現在の実験のパラダイムを変えよう、そして量子物理学に新たな突破口を切り開こうという企てを、レーダーマンが熱く伝えていることだ。その新しい実験のパラダイムが、「大強度(ハイ・インテンシティー)フロンティア」である。

それは、ビーム粒子をきりきりと絞り込む代わりに、非常に多くの陽子を詰め込んで「大強度」のビームを作り、そこからまた大強度の二次粒子ビームを作り出す。そうして得られた強いビームを、さまざまなターゲットにあびせかけ、結果として得られる膨大なデータを精密に分析して、きわめて稀な現象を捉えようというものだ。

フェルミ研究所はいちはやく、高エネルギーフロンティアから大強度フロンティアへと舵を切った。その基幹となるのが、第八章で紹介されている大強度陽子衝突型加速器、プロジェクトXである。

かつて先駆者たちが稀な現象を捉え、古典物理学という壮麗な建物に入った小さなひび割れに気づいたように、こんにちの物理学者たちは、「標準理論」という壮麗な建物に入ったひび割れを探そうとしている。標準理論は絶大な成功を収めたが、それにもかかわらず、物理学者は誰ひとりとして、この理論に満足してはいない。この理論は、自然界の4つの力のうち重力を扱うことができないし、標準理論というひとつ屋根の下にあるとはいえ、電磁気力と弱い力の統一理論と、強い力の理論も、実質的にはつぎはぎの寄り合い所帯だ。

それに加えて、標準理論に登場する粒子たちが、なぜ3つの世代になっているのか、なぜ質量が実験からわかるようなばらばらの値になっているのか、なぜクォークの電荷が電子の電荷の3分の1なのか、といった多くのことが、この理論ではまったく説明できないのである。さらに言えば、この宇宙の少なからぬ部分を構成していると考えられているダークマターを構成する粒子についても、どうやら標準理論では説明できそうにない。要するに、実験と手に手を取って歩んできた標準理論は、実験をみごとに説明する一方で、あからさまな欠点を抱えてもいるのである。

そんななか、標準理論を超えようとするエキゾチックな理論だけはたくさん提案されており、レーダーマンに倣って言うなら、その数は「シカゴに生息する野良猫より多い」ほどだ。科学において真理の判定者は実験であり、新しい世界を切り開くのも実験である。実験家の肩には大きなものがかかっている。われわれの想像を超える世界が、まさに目と鼻の先に潜んでいるかもしれない、いやきっと潜んでいるはずなのだ。かすかな光を捉えて、この難局を突破しなければならない。

古典物理学から量子物理学への扉が開かれ、思いもよらぬ世界が目の前に広がったように、まさに今、量子物理学に大きな革命が起ころうとしているのである。

本書の原書タイトルは『Beyond the God Particle』だが、すでに「神の粒子」を超えた探索が始まっているのだ。

青木 薫

量子物理学の発見 ヒッグス粒子の先までの物語

作者:レオン・レーダーマン 翻訳:青木 薫
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