『赤の女王 性とヒトの進化』で魅力的に性の仕組みを解説し、『繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史』では「現代ほど良い時代はかつてなかった」という単純な事実を、膨大な例証と共に指摘してきたマット・リドレー最新作とあれば読まないわけにはいかない。今作のテーマは『進化は万能である:人類・テクノロジー・宇宙の未来』という書名通りに「進化」である。
進化はリドレーが長年扱ってきたテーマであってその点に不思議はないが、進化は万能である、といきなり言われても意味がよくわからずに最初戸惑ってしまった。とはいえ、読み進めてみれば何を言っているのかはだんだん理解できてくる。中心となっている主張は『進化は私たちの周りのいたるところで起こっている』ということだ。「いたるところ」というだけあって題材は宗教から経済、政治にテクノロジー、果てはリーダーシップにまで及び、これまでの作品の総集編的でありながらも、新たな領域への挑戦が含まれた野心的な内容になっている。
本書で用いられる「進化」とは、自然発生的で否応のないものであり、じわじわと進展することであり、計画はなく試行錯誤で起こる、いわば自然淘汰の1バージョンのことである。一方これに対立する考えとして述べられていくのは、「デザインや指示、企画立案を過度に重視する姿勢」だ。たとえば我々が持つ眼は、見るためにデザインされたとしか思えないから、「誰かが目的を持ってデザインしたのだ」と考えたくなってしまう。だが実際には、眼は自然淘汰の結果残ったものであり、何者かによる計画はそこには存在しないのだ。
リドレーはこの「デザイン対進化」という対立した考え方を、先に書いたように、道徳、経済、文化、言語、都市、企業とあらゆる部分へと当てはめていき、我々は「上からデザインすることで変化が起こっていくという考え方」に取り憑かれており、「下から推進される自然発生的に変化を起こす力」を過小評価していると広く指摘してみせる。
したがって、現在のような人類史の教え方は、人を誤らせかねない。デザインや指図、企画立案を過度に重視し、進化をあまりに軽視するからだ。その結果、将軍が戦いに勝ち、政治家が国家を運営し、科学者が真理を発見し、芸術家が新しいジャンルを生み出し、発明家が画期的躍進をもたらし、教師が生徒の頭脳を形成し、哲学者が人々の思考を変え、聖職者が道徳を説き、ビジネスマンが企業を引っ張り、策謀家が危機を招き、神々が道徳を定めるように見えてしまう。
本書はこうしたデザイン的な世界の捉え方に反抗し、万物は進化によって「意図せず」進歩してきたことを認めさせようとする一冊だ。『私は本書を通して読者のみなさんを徐々に、人間の意図やデザインや企画立案という妄想の束縛から「解放する」ことができればと願っている。』と、最初からかなり過激に宣言しているが、上記引用部の「デザインを過度に重視した事例」をざっと見渡してみて、いくつか疑問に思うところもあるだろう。たとえば、「発明家が画期的躍進をもたらすのも意図や企画立案じゃなくて進化の恩恵なの?」とかである。
それについて解説する「テクノロジーの進化」の章では、ケヴィン・ケリー『テクニウム』を参照し、温度計には同時期に6人の異なる発明者がおり、皮下注射には3人、予防接種には4人、電報には5人──というように、「各種発明品は、時代の進展、技術の発展にともなって、発明されるべくして発明されたのだ。」といってみせる。こうした同時多発的な発明は科学や芸術でも起こっており、と続けていくつかの事例を並べていくが(アインシュタインとかも)、結局のところ結論は、「技術の進歩には個人の意図に頼らない圧倒的な必然性がある」ということである。
世の中にはごく少数の変人か物好きしかやらないような研究によってもたらされる進歩もあるわけで、そういうのは属人性が強く必然性なんてないじゃんと反論も即思い浮かぶ。ただ、ムーアの法則を筆頭として進歩が容赦なく進んでいく現実もあるわけで、「細部はともかく大まかな傾向として」技術の進歩に必然性があるということならば特に異論はない。また、どんなに優れた製品であっても(MacBookとか)ソフトウェアやシリコンチップなど無数の発明/淘汰がなければ成立しえないのがほとんどであって、「創造」されたのと同じ程度には「進化」しているのだ。
本書では他、言語や政治といった諸文化について「いかにしてそれが自然/偶発的に生まれ、淘汰されて現代の形になっていったのか」の歴史が語られていく。宗教のような意外なものまで進化論の観点から検証されていくのは、新たな視点の提供となっておりおもしろいところだ。
とはいえ、読み終えてみてもリドレーがいうところの進化万能論について、飲み込みきれていないところがある。「人類はあまりに出来すぎているので、超越的存在にデザインされた存在である」などの大きな主張に対して進化論で反論するのはよくわかる。しかし、他のものまで全て進化論で説明付けようとすると、どうしても明確に計画/デザインと進化を区別しきれない部分が出てきてしまうし、そもそも厳密に分ける意味があるのかと疑問に思う題材が多々ある。
訳者あとがきでも『すべてに進化の観点を当てはめることには多少の無理を見て取る方もいらっしゃるかもしれない。おそらく、著者も批判は覚悟の上だろう。』と述べているように、大きな論を張っているだけに多少の無理はある、という前提で読んだほうが良いだろう。
もちろん、それで本書の価値がなくなるわけではない。
歴史の変化が「上からの意図やデザイン」によって駆動されてきたという考え方に多くの人が取り憑かれているのは確かだし、見過ごされがちな、下から推進される自然発生的な「進化」の力にたいして強引にでも眼を向けさせたいという主張自体はよくわかる。何より宗教から政治、貨幣に心まで幅広く、我々は意図ではなく「進化」によって進歩したのであり、望む望まないに関わらず、否応なく進化してしまうものなんだ、と各種文化をぶった切っていく内容はおもしろいとしか言い様がないので、あくまでも「注意深く」読んで、楽しんでもらいたい。
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