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『バブル 日本迷走の原点』

著者まえがき

新潮社2016年11月18日

「失われた20年」が続き、今なお抜けられぬデフレ状況。本書『バブル 日本迷走の原点』は、その起点となったバブル時代の正体を様々な角度から捉えた一冊である。特筆すべきは経済モノとしての確かさだけではなく、物語としての面白さも群を抜いている点だ。時代の狭間に蠢く、男たちの野心と欲望。30年の時を超えた今だからこそ書ける事実を積み重ね、バブルの再到来へ警鐘を鳴らす。はたして本書は「予言の書」となるのか? 冒頭に掲載された著者の「まえがき」を、特別に紹介する。(HONZ編集部)

バブル:日本迷走の原点

作者:永野 健二
出版社:新潮社
発売日:2016-11-18
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「ここにいるエコノミストの皆さんのなかに、誰一人として、1年前に今日の株高を予測している人はいなかった。これがアベノミクスの成果なのです」

2013年12月、ホテルオークラで開かれた日本経済新聞社など3社が主催する年末恒例のエコノミスト懇親会の席で、安倍晋三総理は得意満面でこう言い切った。「株価がすべてを解決する」と言っているかのような、”大見得”だった。

その前年12月の総選挙で、安倍晋三率いる自民党は圧勝し、第二次安倍内閣が発足する。時を置かず、黒田東彦日本銀行総裁が、未曽有の大金融緩和に打って出る。それと相前後して、のちにアベノミクスと呼ばれる経済政策が打ち出される。

①大胆な金融政策、②機動的な財政政策、③民間投資を喚起する成長戦略──の3つが柱になっていた。株価は短期間で1.5倍近くに急騰し、日経平均が1万5000円台に乗せた時期だった。安倍政権の最大の目標はデフレ脱却。この株高で、デフレ脱却などいとも簡単にできる──安倍総理がそう断定しているように思われた。

「危ないな」40年間経済記者として市場経済を見続けてきた私の信念は、「市場は(長期的には)コントロール出来ない」ということである。

1980年代後半に、日本はバブル経済を経験した。バブル経済とは好景気のことではない。特定の資産価格(株式や不動産)が実体から掛け離れて上昇することで、持続的な市場経済の運営が不可能になってしまう現象のことである。

バブルのピーク時には、株価の上昇が庶民の年収を上回るような値上がり益を生みだす一方で、都心部には普通のサラリーマンの生涯賃金を4倍にしても手が届かないようなマンションが出現した。それは人々の価値観を破壊するのに十分な出来事だった。誰もがまじめに働くことの「割りの悪さ」を感じ、持てる者と持たざる者のあいだには不公平感が広がった。そして欲望と怨嗟が渦巻くなか、人々はユーフォリア(陶酔的熱狂)へとなだれ込んだ。もはや誰にも止めることはできなかった。

バブルには大きなオマケも付く。バブル崩壊後のデフレという病である。健全な市場経済の仕組みが機能せず、モノの価格が下がりすぎてしまう。90年代から今日にいたる「失われた20年」は、80年代の異常なバブルの反動として、避けて通れないツケ払いだった。

資本主義の歴史は、バブル経済とデフレという二つの病の循環の歴史である。数十年単位でこの二つの危機の間を行き来する。やっかいなのは、バブル経済が将来のデフレの原因を育て、デフレへの対処が将来のバブル経済の原因をつくり出すことである。

バブルもデフレも完全に防ぐことはできない。しかしその悪影響をできるだけ小さくすることはできる。その手段は「財政政策」と「金融政策」、そして「長期的な構造改革」である。その舵取りをゆだねられているのが内閣総理大臣であり、日本銀行総裁である。

為政者はデフレの先のバブルまでを読み込んだうえで、果敢に対応策を打たなければならない。なぜなら目の前で大きな効果を生みだす政策もまた、将来において大きな副作用をもたらす政策かもしれないからである。

だからこそ、権力の頂点にいる人間には「英知」と「決断力」に加えて、「謙虚さ」が求められる。「不確かでコントロールできない市場」を理解しつつ、それでも「その不確かさを信頼しゆだねる」謙虚さである。

安倍総理の大見得には、その「謙虚さ」が不足していた。

日本の80年代のバブルとは、いったい何だったのだろうか。それをいまあらためて考えることの意味はどこにあるのだろう。

バブルはただの金融現象ではない。バブルは世界のいたるところで起き、どれも似たような様相を呈する。しかし実態はそれぞれに異なる。なぜなら、バブルはその国や地域の文化・歴史と複雑にからみ合いながら生じるからである。日本の80年代後半のバブルは、戦後の復興と高度成長を支えた日本独自の経済システムを知ることなしには理解できない。

私が「渋沢資本主義」という造語を使いはじめたのは、バブルが燃えさかり、リクルート事件が国会で話題を集めていたころのことである。グローバル化がもたらす新しい経済活動のうねりと、従来型の日本的な経済システムの乖離を、なんとか説明したいと考えたのがきっかけだった。渋沢とはもちろん日本の資本主義の父、渋沢栄一のことである。それくらい長い時間軸で捉えないと80年代のバブルを理解することはできない、というのが私の結論だった。

日本は明治以来、資本主義と日本の文化のあいだで、巧みにバランスを取り、修正する仕組みをつくってきた。資本主義には、優勝劣敗の冷徹な論理が働く。封建社会を抜け出したばかりの日本にこの仕組みを埋め込んで競争力を高めていく一方で、いかに社会的な摩擦を減らしていくか。「義利合一」と「論語とそろばん」という哲学は、この矛盾に満ちた課題に対する渋沢なりの現実的な答えだった。渋沢資本主義とは、資本主義の強欲さを日本的に抑制しつつ、海外からの激しい資本と文化の攻勢をさばく、日本独自のエリートシステムだった。

渋沢の同時代には、「渋沢資本主義」と拮抗するさまざまなライバルも登場した。福沢諭吉のイデオロギーと行動を受け継いだ、欧米型の「グローバルスタンダード」に近い路線。そして、三菱財閥の岩崎弥太郎に象徴され、独占を志向する「財閥資本主義」の路線。明治以降の日本の資本主義は、いわばこの三つのタイプの資本主義が拮抗しつつおりなすダイナミズムだったといってもよい。

そして戦後の混乱期をへて、日本にまた新しい渋沢資本主義が誕生し、定着する。その主役は、「日本興業銀行(興銀)」、「大蔵省」、「新日本製鉄(新日鉄)」だった。

戦後の資金不足の時代に資金の配分機能を握った興銀は、日本経済の司令塔となる。また大蔵省は、財政・税だけでなく金融のあらゆる許認可権を独占することで、戦後日本システムの調整役となる。そして新日鉄(70年の合併までは八幡製鉄と富士製鉄)は「鉄は国家なり」という言葉そのままに産業資本主義の頂点に君臨し、日本の財界をリードする。それを、長期の一党支配を続ける自由民主党が支えた。

80年代のバブルとは、戦後の復興と高度成長を支えたこの日本独自の経済システムが、耐用年数を過ぎて、機能しなくなったことを意味していた。日本経済の強さを支えてきた政・官・民の鉄のトライアングルが腐敗する過程でもあった。

70年代はじめのニクソンショック(ドルショック)、オイルショックによって、すでに世界経済の仕組みは大きく変わっていた。グローバル化と金融自由化という世界の新しい現実に対して、日本という国を新しくつくり変えていくべき時期が来ていた。

しかし日本は進むべき道を回避した。新規参入の少ない規制に守られた社会を求める空気が日本全体を覆っていた。業態別の「仕切られた競争」(村上泰亮)を徹底する官僚の指導が行き渡っている時代でもあった。その代表を一つ挙げれば金融機関だろう。大銀行から信用金庫・信用組合にいたるまで、護送船団方式によって、一行たりともつぶれないように、金利水準や店舗数までが調整されていた。

日本のリーダーたちは、構造改革の痛みに真っ正面から向き合うことを避けた。制度の変革や、産業構造の転換を先送りしたのは、大蔵省をはじめとする霞が関官庁であり、日本興業銀行を頂点とする銀行だった。つまり戦後日本システム(渋沢資本主義)の担い手たちである。彼らは残された力を、土地と株のバブルに振り向けた。

バブルは最終的には、個人のユーフォリアにまで及ぶ。「濡れ手に粟」の儲け話を目にした人々に、借金をしてまで土地や株式に投資する癖を埋め込んだのは銀行である。バブルは日本人の気質まで確実に変えてしまった。

そしてバブル崩壊。「失われた20年」と呼ばれる長い空白期が訪れた。世界でも例を見ない長い空白期は、それ自体が、日本の何かが変わってしまったことを示していた。土地や株式で儲けようという過大な期待は薄れ、バブルを起こそうにも起こせない「デフレの時代」が続いた。
しかし状況は変わった。

12年暮れの安倍政権の発足とアベノミクスの動きは、バブルの序章である。世界経済の激震のなかで、日本の政治がそれに対応した構造改革を口にする。それは86年の中曽根康弘政権による日本の構造改革の試みと重なる。

安倍政権の株高対策に、なりふり構わぬ右肩上がりの株高・土地高を煽った80年代のバブルの時代の金融機関の行動に似たものを感じる。当時、銀行から聞いたリスク感覚の欠落を、最近は年金や公的資金の運用担当者、ベンチャー企業の経営者から聞くようになった。

バブルの時代を知らず、その弊害を何も学んでいない世代が、80年代を懐かしんだり、バブル待望論を口にすることも増えてきた。

最近の田中角栄待望論は、その好例である。彼が魅力的な人物であることは否定しない。田中角栄は、類まれなリーダーシップで権力の階段をのぼりつめて総理になった。しかし彼が旗を振った日本列島改造論は、土地を商品と位置づけることで、地価の上昇を加速し、日本をバブル社会へと導く原因をつくった。そして角栄自身も、株と土地で得た資金力を権力の源泉としながら、ロッキード事件による失脚後も、長く日本の政界を水面下で操り、バブルの時代に到るまでその権力を保持し続けたのである。

グローバルな資本主義はおよそ10年周期で危機を繰り返し、政府のコントロール能力を弱体化しつつ、不安定さを増している。

その端緒といえる87年のブラックマンデーは、グローバル化が進んで、世界の金融・証券市場が一体化したことを象徴する事件だった。それから10年後の97年にアジア通貨危機が起こり、ヘッジファンドの雄、ジョージ・ソロスがロシアやタイの通貨で巨額の富を得て、最後はマレーシアのマハティール首相と対峙する。08年、リーマン・ブラザーズの倒産を引き金とした金融システムの危機は、世界がもはや危機においても一体であることを示した。そして16年、中国の株価暴落に端を発した世界経済の混乱は、英国のEU(欧州連合)離脱という予想もしない事態を前に、一段と混乱の度合いを深めている。

それでも、世界のグローバル化と金融化(カジノ化)に歯止めはかからないし、かけることもできない。デフレの時代であろうが、インフレの時代であろうが、地球のどこかでは新しいバブルが発生して、私たちはそれと無縁では生きられない時代になったということである。

バブルとは、グローバル化による世界システムの一体化のうねりに対して、それぞれの国や地域が固有の文化や制度、人間の価値観を維持しようとしたときに生じる矛盾と乖離であり、それが生みだす物語である。

バブルの時代を知ることなしに、現在の日本を理解することはできない。私たちは、日本固有のバブルの物語に謙虚に耳を傾ける必要があるのではないだろうか。80年代のバブルの教訓は、まだ十分に汲み尽くされていない。

本書はバブルの時代の本質に迫るために、バブルより少し前の時代から書き始めている。最初から読むことでバブルの本質をよく理解してもらえると思うが、バブルの最盛期の話だけを知りたいという人は、第2章や第3章から読み始めてもらってもかまわない。各項は独立したコラムとしても読めるようになっている。興味をひかれた項を入り口にして、「日本のバブルの物語」を味わってもらえれば幸いである。

永野 健二 1949年東京都生まれ。京都大学経済学部卒業後、日本経済新聞社入社。証券部の記者、編集員として、バブル経済やバブル期の様々な経済事件を取材する。その後、日経ビジネス、日経MJの各編集長、大阪本社代表、名古屋支社代表、BSジャパン社長などを歴任。共著に『会社は誰のものか』『株は死んだか』『宴の悪魔-証券スキャンダルの深層』『官僚-軋む巨大権力』(すべて日本経済新聞社)などがある。