近年機能的磁気共鳴画像法(fMRI)など新技術の出現で脳の活動がより精確に観測できるようになり、脳科学/神経科学は飛躍的に進歩した。そうなると気になるのは、我々が「意識」や「心」と言っているものはいったいなんなんだという問いかけである。
幾つもの神経科学方面の本がその謎に挑んでいるが、本書は「機能不全に陥った脳を調べ、健康な脳と比較・検証することで心を推論する」こと。また脳が受け取った情報の純粋に客観的な処理を、主観的な「心」に変換する時に何が起こっているのかを追求し、「哲学」と「神経科学」の融合した「神経哲学」分野を切り開いてみせた野心的な一冊である。
私の目的は、不健康な脳から健康な脳を推論することだ。それによって、哲学者が心や脳と呼ぶものを的確に記述するために、現在の哲学的概念を変える必要があるのか、そしてその必要があるのなら、いかにしてかがわかるだろう。
「不健康な脳から健康な脳を推論する」とはいっても実際どういうことなんだろう、と思われるかもしれないので、まずは簡単なモデルケースをいくつか紹介してみよう。
たとえばわかりやすい例としては、「意識の喪失した」、いわゆる植物状態もしくは宰相意識状態の患者が挙げられる。彼らは問いかけに反応しないし、自発的な行動など一切起こさないので、意識があるとは到底いえない。が、こうした患者をfMRIに寝かせ、テニスをしているところや自宅の内部を歩き回っているところを想像するよう指示を出すと、正常な被験者が同じ指示を出された時に反応する脳領域(頭頂皮質と海馬)が活性化する(複数の再現事例がある)。
明らかに指示に反応しているわけだが、これは「植物状態であっても意識がある」ことを意味するのだろうか? 意識がある証拠だと考える者もいれば、患者が認識したか否かに関わらず、刺激に対する反応として現れたと考える者もいる。実験によって裏付けられているのは後者だが(『刺激に喚起された活動の度合いは、臨床的に測定された意識のレベルを予測しない』)その場合は「刺激による活動」と「意識」はどう違うのか? というさらなる問いが生み出される。
話はここからより専門的に「意識」とは何なのか、どう定義できるのかをトノー二の「統合情報理論」、ドゥアンヌの「グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論」など無数研究成果を概観しながら独自に提示してみせる。ざっと説明すると、我々の脳は寝ているときであっても活動を続けているわけだが、この安静時脳活動は植物状態の患者にも見られる。しかし患者らにおける脳活動の変動性は健常者と比べると小さく、著者は『安静時脳活動が変動性を失うと、それは外部からの刺激と自らを関連づけられなくなり、自己特定的な活動は減退する』としている。
自己特定的な活動が低下すると意識のレベルへと間接的に影響を及ぼすので、安静時脳活動こそが意識構築の基盤であるというのだ。これまでの研究では認知機能など脳における高次の機能が注目を集めてきたが、『より低次の安静時脳活動に着目する必要がある。脳の奥深くで生じる内因性の活動に、意識の起源、すなわち意識の神経素因を見出だせるだろう』というのが著者の主張であり本書の主な特徴であるといえる。(ここは、本記事後半の話にも繋がる部分なので説明を行ったが、誤解が生じないように要約するのは厳しいので、読んで確かめてみてもらいたい)。
本書ではこの後、安静時に自分の名前を提示されたら脳の発火率は変わるのかという自己についての実験や、なぜ今日の朝目覚めた自分が昨日の自分と同一だと感じられるのか? への神経科学からの回答など魅力的な問いかけと答えが続くが、興味深いのは統合失調症をめぐる事例だ。
統合失調症とは精神疾患のひとつで、他者から言われていないメッセージを行動から推測して勝手に受け取ってしまったり、幻聴が聞こえたりとさまざまな症状が出る。場合によっては、思考は完全に混乱して無秩序になり、自分が自分であるという感覚を喪失し「自分はキリストである」などということを冗談ではなく本気で信じ込むようになってしまう。それどころか時間的な連続性が失われ無数の個別の今が生じ、時間の規則が感じられなくなる患者までいる。
「なぜそれが起こっているのか」を研究すれば、自己や時間の連続性をもたらすのは何かといったこともわかるはずである。ここでも重要なのは安静時脳活動の変動性だ。たとえば幻聴が出ている統合失調症患者は、聴覚皮質の安静時脳活動が異常に激しくなっていることがわかっている。その際、外部刺激に対する反応は鈍くなり、内への知覚が極端に高まる事で幻聴が引き起こされてしまう(しかし安静時脳活動の高まりが確実に幻聴に繋がるわけではない)。自己の連続性が保てなくなってしまった統合失調症患者についても同様で、自己認識と関わりの深い正中線に沿う皮質領域への安静時脳活動の異常が関連していることが研究によって裏付けられている。
安静時脳活動から意識を解明しようとするアプローチや神経哲学はまだまだはじまったばかりの分野で、「そこはまだわからない」「調査が必要だ」で終わっている問いかけも多いが、それだけに可能性を感じさせるともいえる。脳の安静状態がもたらす空間/時間構造や自己の感覚についてより理解が進めば、統合失調症や各種精神疾患への新たな治療法にも繋がるだろう。
本文ぴったり250ページと、長くはない分量の中にみっちりと神経哲学のエッセンスが詰め込まれている。専門用語も決して少ないわけではなく、膨大な情報量によって読んでいてくらくらしてしまうかもしれないが、その分読み応えのある内容で、見事に神経科学と意識や心をめぐる哲学を融合させている好著である。意識について問いかける時にも、神経哲学というまだまだ始まったばかりでこれからの分野を知るためにも現時点ではちょうど良い一冊だ。