あなたはどうしてこの本を手にとったのだろうか。進化についての興味からだろうか。それとも、リチャード・ドーキンスというスター科学者にたいする関心からだろうか。あるいは、すでに熱心な愛読者であるために手にとるのも当然のことだったかもしれない。
どちらにせよ、あなたは最高の一冊を選びとった。本書は現在望みうる最良の進化論入門書であり、またサイエンス入門書である。なにしろ、マイケル・ファラデーの不朽の名著 『ロウソクの科学』を生んだ英国王立研究所のクリスマス・レクチャーに、稀代の科学者・ 科学啓蒙家であるドーキンスが挑んだドキュメントなのだ。聴衆の子供たちを夢中にさせたにちがいない刺激的な連続講義は、まさしく現代版『ロウソクの科学』と呼ぶにふさわしい。 また、高度な内容を易しく面白く伝えるテクニックは、専門家にとっても学ぶところが多いだろう。要するに、子供にも大人にも素人にも玄人にも有用な最強の進化論入門書でありサイエンス入門書なのである。
それだけではない。このレクチャーは、世界に衝撃を与えた1976年の『利己的な遺伝子』以来、ドーキンスが次々と発表してきた傑作群のエッセンスが詰まった精華でもある。現代の進化思想・科学思想に大きな影響を与えつづけているドーキンスの入門書としても恰好の一冊なのだ。なんであれものを知りたい考えたいと願う人が、この本を読まないですませる理由なんて、ちょっと思いつかないくらいである。
本の成り立ちについては、編・訳者の吉成真由美さんによる行き届いた説明があるので、ここで繰り返すまでもないだろう。本文の内容についても、ドーキンスのレクチャーはこの上もないほど親切かつ明快なので、じっくりと取り組んでもらえれば理解できるはずだ。
そこでこの解説では、本書をきっかけに進化論の世界に足を踏み入れようという人に向けて、今後のさらなる探究のための補助線を引いてみたい。まず、レクチャーで繰り出される魅力的なアイデアの数々が、それぞれドーキンスのどの著作で詳しく説明されているのかを示そう。しかる後に、ドーキンスの仕事がわれわれの世界観や自己認識においてどのような役割を果たすものであるかについて述べよう。備忘録や読書ガイドとして参考にしてほしい。
第1章「宇宙で目を覚ます」は、レクチャー全体への導入部である。まずドーキンスは、 科学が対象とするミクロからマクロまでのスケールが、私たちの日常的な感覚からはかけ離れたものであることを、さまざまな例を通じて示してみせる。これは、すべての科学入門書に採用してほしいくらい巧みな導入である。というのも、進化論を含め科学にたいする誤解や無理解の多くは、私たちの日常的な感覚と科学が扱うスケールとの圧倒的な乖離をイメージできないところからくるからだ。ドーキンスはレクチャーの冒頭にあえて躓きの石を置くことによって、私たちが日常性という麻酔から目を覚ますためのショック療法を施すのである。デイヴ・マッキーンによる挿画が楽しいフルカラーの大型本『ドーキンス博士が教える 「世界の秘密」』(早川書房)では、本レクチャーでも語られた祖先への長い旅が愉快なヴィジュアルとともに活写されている。プレゼントにも好適な一冊だ。『祖先の物語──ドーキンスの生命史』(小学館)は、まさに祖先への旅そのものがテーマとなった二巻本。また、 神秘体験や超常現象といった超自然的な認識から抜け出して科学的な理解力を養うことの重要性は、『悪魔に仕える牧師──なぜ科学は「神」を必要としないのか』(早川書房)の第7章「娘のための祈り」にて、ドーキンスが娘ジュリエットへと宛てた手紙というかたちで感動的に綴られている。
第2章「デザインされた物と『デザイノイド』物体」では、いよいよドーキンスの本領へと踏み込むことになる。「デザイン」の問題は、ドーキンスが生涯をかけて追究してきた最大のテーマだ。それはあらゆる進化生物学者が挑戦すべき難問であり、さらにいえば、あらゆる反‐進化論者がよりどころとする砦でもある。つまりデザインの問題こそが進化論の主戦場なのである。あたかもデザインされたかのように見える自然の物体「デザイノイド」が、 単なる偶然ではなくほかならぬ自然選択による進化から生まれることは、本レクチャーでも十分に説得的に示されているが、『盲目の時計職人──自然淘汰は偶然か?』(早川書房) では、それがより詳細かつ広範に論じられている。また、進化論を否定する創造説にたいしてこれでもかと進化の証拠を突きつける『進化の存在証明』(早川書房)という力作もある。
第3章「『不可能な山』に登る」では、進化の途中過程が語られる。なぜ進化の途中過程が問題になるかといえば、実際の生物に見られるような精巧な姿や仕組みが自然選択によって生まれるはずがないという反論が根強く存在するからだ。しかし、自然選択の漸進的なプロセスが一見不可能と思えるような造形を生みだすことを万人に向けてわかりやすく解説したのはドーキンスの功績である。これは本章と同名の書籍『「不可能な山」に登る』 (Climbing Mount Improbable、未邦訳)で詳しく展開されている。レクチャーで紹介されているコンピュータ・プログラム「アースロモルフ」や「バイオモルフ」も登場する。
第4章「紫外線の庭」は風変わりなタイトルだが、ふだん私たちが囚われている人間中心の観点から離れてみるには恰好のメタファーである。進化を理解するためには、かりそめにであれ人間の観点から離れなければならない。たとえば紫外線は私たちの目には見えないが、ハチにははっきりと見える。だからハチは自分が利用する花を、私たちが見るのとはぜんぜん異なった仕方で見ているはずだ。そして花もまたハチを利用している。このような共生関係は、いったい何のために存在するのか。そこで登場するのが遺伝子の観点である。生物の姿や行動は遺伝子の複製という観点から初めて理解できるものであるからだ。本レクチャーで簡潔に「われわれはDNAによって作られた機械であり、その目的はDNAの複製にある」と述べられている主張は、世間を驚かせたドーキンスの出世作『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店)の中心的論点だった。次作の『延長された表現型──自然淘汰の単位としての遺伝子』(紀伊國屋書店)では、この論点がハチと花に見られるような共生関係や、生物がつくる構築物にまで拡大されている。『遺伝子の川』(草思社)は、連綿とつづく遺伝子の自己複製の営みを、地質学的な時間をかけて分岐していく川のメタファーで描いた愛すべき小品だ。
第5章「『目的』の創造」では、一転してわれわれの脳にスポットライトが当てられ、人間がどのようにして世界にたいする認識をもつことができるのかが論じられる。私たちは決して世界を直接的に見ているわけではない。われわれが現実として把握しているものは、精巧な脳の働きによってつくられた一種のヴァーチャル・リアリティーなのだ。このアイデアは、後に科学全般の意義を説いた傑作『虹の解体──いかにして科学は驚異への扉を開いたか』(早川書房)のクライマックスにおいて詳しく展開されることになる。ドーキンスがレクチャーの最後に人間の脳を話題にしたのは、無目的な進化によって生まれた私たちの脳が、 おそらく宇宙史上初めて「目的」という観念を生み出したというエポックメーキングな事件に注意を向けたかったからだろう。その知的能力のおかげで、私たちは宇宙についての正確なモデルをつくるという共通の目的をもつことができる。つまり科学的な認識を育むことができるのである。
文明史におけるドーキンスとは、ずいぶん大げさな話だと思われるかもしれない。単なる科学解説者ではないかと言う皮肉屋もいるかもしれない。しかし私はドーキンスの仕事には文字どおり文明史レヴェルの意義があると考えている。
『利己的な遺伝子』1989年版のまえがきで、彼は次のように述べている。
私は科学とその「普及」とを明確に分離しないほうがよいと思っている。これまでは専門的な文献の中にしかでてこなかったアイディアを、くわしく解説するのは、むずかし い仕事である。それには洞察にあふれた新しいことばのひねりとか、啓示に富んだたとえを必要とする。もし、ことばやたとえの新奇さを十分に追求するならば、ついには新 しい見方に到達するだろう。そして、新しい見方というものは、私が今さっき論じたように、それ自体として科学に対する独創的な貢献となりうる。アインシュタインはけっしてつまらない普及家ではなかった。そして、私は、彼の生き生きとしたたとえは、あとの人々を助けたという以上のものであったのではないかと、しばしば思ったことがある。それらは彼の創造的な天才を燃えたたせもしたのではなかろうか? (『利己的な遺伝子〈増補新装版〉』日高敏隆、岸由二、羽田節子、垂水雄二訳、紀伊國屋書店、xviii-xix)
ドーキンスはアインシュタインの名前を挙げているが、これはまさしく彼自身が成し遂げつつある達成でもあるのではないだろうか。贔屓目にすぎるかもしれないが、ドーキンスの仕事は社会へのインパクトという点で、コペルニクスやニュートン、そしてダーウィンといった科学史上の巨人たちのそれに匹敵するものだと私は思う。
デビュー作『利己的な遺伝子』が、その「新しい見方」──生物とは遺伝子が自らの複製のために利用する乗り物にすぎない──によって世間を騒がせたのは、1976年のことだった。当時は毀誉褒貶にさらされたこの主張も、いまでは専門家にかぎらず多くの人びとが受け入れる常識のひとつにまでなっている。これは生命観におけるコペルニクス的転回というべき大事件であり、今後さらに数十年をかけて徐々に私たちの世界観と人生観に後戻り不能の変化を及ぼしていくにちがいない。
デビューから40年が経ち、老境に入ったドーキンスだが、「新しい見方」の導入と普及にたいする熱意はとどまるところを知らない。近年は宗教への批判と無神論の擁護にますます力を注いでいる。そのマニフェストというべき『神は妄想である──宗教との決別』(早川書房)は、全世界で数百万部を売るベストセラーとなった。執筆活動だけでなく、自由思想と無神論を公言する「アウト・キャンペーン」といった社会運動なども精力的に展開している。日本でなら後期高齢者と呼ばれる年齢であるにもかかわらず、いつまでも若々しいその姿には驚かされるばかりだ。
いったい何がドーキンスを衝き動かしているのだろうか。ドーキンスは私たちに何を伝え たいのだろうか。その答えは、2014年に刊行された自伝『好奇心の赴くままに ドーキンス自伝Ⅰ──私が科学者になるまで』(早川書房)の原題があますところなく語っているように思う。An Appetite for Wonder ──ドーキンスを衝き動かすのは、渇望のレヴェルにまで高められた好奇心である。そして彼が私たちに伝えるのは、好奇心を決してあきらめるなというメッセージだ。
好奇心やワンダーという言葉は、耳に心地よいだけの子供だましのスローガンのようにも聞こえるかもしれない。しかし、好奇心の追求がじつのところそんな生易しいものでないことは、ドーキンスの仕事そのものが示しているとおりである。それは子供だましであるどころか、子供を泣かせてしまうこともある。ドーキンスは、『利己的な遺伝子』を読んだ女生徒が人生とは空疎なものだと絶望して教師の前で泣き出してしまったというエピソードを 『虹の解体』の序文で紹介している。また、それはときに大人を激怒させるものでもある。 敬虔な信仰者にとって、あらゆる宗教を仮借なく批判するドーキンスは極悪人以外の何者でもないだろう。
ドーキンスが身をもって示すとおり、知的好奇心の追求は旧来の価値観との対決へといたらずにはいられない。ときとしてそれは探求者を既存の善悪を超えた場所へともたらすことすらあるだろう。本書でドーキンスは、そんな危険で魅惑的な旅へとわれわれを誘っているのである。
2016年12月 吉川 浩満