「解説」から読む本

『あなたの人生の意味 先人に学ぶ「惜しまれる生き方」 』

訳者あとがき

早川書房2017年1月23日
あなたの人生の意味――先人に学ぶ「惜しまれる生き方」

作者:デイヴィッド・ブルックス 翻訳:夏目 大
出版社:早川書房
発売日:2017-01-24
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夏目漱石に「私の個人主義」という作品がある。これは小説ではなく、大正3年(1914年)11月25日、学習院で行なわれた講演の記録である。代表作というわけでもなく、日頃あまり脚光を浴びることもないが、私は日本人全員が読むべき作品と思っている。少なくとも中学か高校の国語の教科書には載せるべきだ。『こころ』よりは絶対に教科書にふさわしい。個人主義というとすぐ、「自分勝手」と同義 に解釈し、「現代は行き過ぎた個人主義の弊害が」などと言う人が多い。しかし、漱石の言葉を読めば、 個人主義は決して自分勝手ではないし、今も決して行き過ぎてなどいないことがよくわかる。

まず漱石は 「自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない」と言っている。個人主義とは、「自分という個人」の自由と権利が広く認められることではあるが、それは同時に誰もが、「他人という個人」の自由と権利も広く認めなくてはならない、ということだ。自分勝手よりもはるかに厳しく、難しい主義であることはこれだけでもわかるだろう。また、漱石は、個人が他人に認められた十分な自由を得て、その力を存分に適切に発揮すれば、すなわちそれが社会のためになるとも言っている。

本書『あなたの人生の意味』は、デイヴィッド・ブルックス著The Road to Character(2015)の全訳だ。ブルックスの前著The Social Animal(2011)も同じ早川書房から『あなたの人生の科学』(拙訳)として刊行されている。著者デイヴィッド・ブルックスは、《ニューヨーク・タイムズ》紙の人気コラムニストである。

前著はアメリカで45万部を突破するベストセラーとなったが、このThe Road to Character はそれを上回る、累計50万部もの売れ行きを見せた。かのビル・ゲイツ氏が「2015年に読んだ本ベスト6」のうちの筆頭に選んだことでも話題になったようだ。米アマゾンで書籍総合1位、 「ニューヨーク・タイムズ・ベストセラーリスト」ではノンフィクション部門で1位を獲得している。

では、これだけの高評価を受けた本書はいったいどのような本なのだろうか。200万ビューを超えるなど注目を集めたブルックス本人のTEDトークを見ると、本書の主たるテーマを知ることができる (「人生の集約は、履歴書と追悼文のどちらに?」2014年4月投稿)。

本書で著者が最も訴えたかったこと、それは「人間には本来、2つのプロフィールがあるが、現代はそのうちの一方だけが偏重されている」ということだ。2つのプロフィールとは、「履歴書に書かれるプロフィール」と「追悼文に書かれるプロフィール」だ。

前者は、外面的なプロフィールと言ってもいいだろう。どの学校を出て、どういう仕事をし、どのような能力があって、どの程度、成功しているか。後者はそれに対し、内面的なプロフィールだ。その人がどういう人だったか。優しくて思いやりがあったか。それとも自己中心的で冷たい人だったか。善人だったか、悪人だったか。

どちらのプロフィールが人として大事か、と問われれば、たいていの人は後者と答えるに違いない。にもかかわらず、現実には前者のプロフィールを充実させることにばかり気を取られている人が多い。それが現代の問題だと著者は言っている。

今は人が個人としていかに幸福になるか、そればかりを皆、考えている。しかも、その幸福とは、ほぼ 「富と名声を得る」とイコールになっている。能力を高め、競争に打ち勝って、財を成して有名になる。 ほとんどそれだけが生きる目的で、他のことはどうでもいいとは言わないが、あくまで副次的なものとして扱われる。「自分が人生に何を求めるか」をよく知り、求めるものを一つでも多く得ることが何より大切というわけだ。

しかしブルックスは、人は富と名声だけでなく、内面的な幸福に向かって生きるべきであると説く。富と名声も重要だが、それだけでは不十分だというのだ。そして「『自分が人生に何を求めるか』ではなく、『人生が自分に何を求めているか』が大事」と言っている。これは、ヴィクトール・E・フランクルの言ったことだ。自分がどのような役割をもって生まれてきたのか、それを考え、与えられた役割を全うすることこそが、真の幸福につながると彼は言っている。

社会は自分が生まれる前から存在し、死んだ後も存在し続ける。誰もがその社会のために何かを為すことを求められている。社会に求められている仕事のことを「天職」と呼ぶ。天職は一人ひとり違う。華々しいものばかりではないし、誰にも知られず終わるかもしれない。一生の間で完結せず、次世代にあとを託さねばならないこともある。だが、その天職を通じてしか、人間は真に幸福にはなれない、と著者は言う。

本書は一見、個人主義の否定にも見える。漱石の言葉を常に心に留めて生きてきた私自身もはじめはそう思い、少なからず反発もした。だが、本書をよくよく読めばまったくそうではないとわかる。社会のた めに仕事をせよ、とは言っているが、特定の共同体(たとえば国)の利益、私欲のために自分という個人 を犠牲にせよとは言っていない。その点はまったく漱石と同じであり、本書を読む人が特に注意しなくてはならない点だろう。

悪意の人に本書が利用されないことを私は強く望んでいる。著者の主な関心は社会の発展ではなく、あくまで「個人の幸福」にある。ただ、身勝手な「個人の利益の追求」を良しとはしないだけだ。利益だけでは測れない個人の真の幸福を見つけようとした。つまり、著者は「本当の個人主義とは何か」を説いたと言ってもいいと思う。

前著『あなたの人生の科学』と本書は一見、大きく違う本に思えるだろう。前著では科学研究の成果を 多数、紹介し、人間という生き物がいかに「社会的動物(social animal)か」を実証してみせた。ただ、 こちらでも前述のフランクルの言葉を引用していることなどから見ても、両者につながりがあることは明らかである。続篇、と言い切ってしまうと正確ではないかもしれない。ただ、前著のために様々な取材、 調査を進める中で、著者の中に本書に記したような思いがすでに芽生えていたのだと思う。私は、2冊は 是非とも併せて読んでほしいと思う。

個人が真に幸福になれる生き方とは、具体的にどういうものか。それをわかりやすくするため、本書では、ドワイト・アイゼンハワー、ジョージ・エリオット、アウグスティヌスなど、歴史上の人物10人を例としてあげている。いずれも歴史に名を残しているくらいなので当然、偉大な人物であり、外面的にも成功した人たちと言っていい。だがやはり全員に共通するのは「追悼文に書かれるべきプロフィールが素晴らしい人」ということである。

彼らは生まれつき人格的に優れていたわけではない。若い頃には、身勝手であったり、偏狭であったりして、周囲との間に軋轢を起こしてもいる。だが、努力によって人格を磨き、天職を全うして、真の意味での幸福な人生を送った。私は学生時代、英文学を学んだこともあり、当時の伝統的な社会からは反発を受けながらも愛のために誠実に生きたジョージ・エリオットや、不自由な身体と不遇な環境にも負けず、圧倒的な勤勉さによって社会に貢献する偉業を成し遂げたサミュエル・ジョンソンの話に心惹かれた。ジョンソンは、紹介されている数々の鋭い警句にも注目して欲しい。

デイヴィッド・ブルックスは共和党支持者であるにもかかわらず、ドナルド・トランプを強く批判していた。差別を助長し、国を内向きにしようとする政治姿勢に警戒心を露わにしていた。結果的にトランプが大統領に選出されたことは大きな衝撃だったようで、このままではアメリカという国が分断されてしまう、もはや国が一つにまとまることはできない、と選挙後のコラムで嘆いている。

同時に、ジャーナリストとして、トランプへの支持の強さを読み切れなかったことへの反省もあるようだ。よく言われる「エスタブリッシュメントの価値観」に縛られ、それとは違う価値観を持つ人たちが実は多数いて、無視できなくなっていることに気づけなかった。そのことを悔やんでいるようである。トランプがもし、自分の主張しているとおりに政治を行なえば、ブルックスの求める「個人の真の幸福」などは遠いものになってしまう。社会を「自分たち」と「彼ら」に分けて、ただ「自分たち」の利益を追求する、という態度が本書の主張とまったく相容れないことは明らかだろう。足元を大きく揺さぶられるような衝撃的な出来事を経て、反省を踏まえて、今後、著者がどういう活動をしていくのか注視したいと思っている。

「ポジティブ・シンキング」が主流の世の中で、子供の頃から「本当の自分探し」「まずは自分を愛せ」 といった言葉に親しんできた現代の私たちにとって、本書はすぐに受け入れ難いことも書いてある本である。だが、確実に読む人の視野を広げ、ものの見方を大きく変える本だと思う。それだけの強い力を持っている。この本で人生を変えられた、という人が一人でも多く現れれば、訳者にとってそれに勝る喜びはない。

2016年12月 夏目 大