「解説」から読む本

『情報と秩序 原子から経済までを動かす根本原理を求めて』

訳者あとがき

早川書房2017年4月20日
情報と秩序:原子から経済までを動かす根本原理を求めて

作者:セザー・ ヒダルゴ 翻訳:千葉 敏生
出版社:早川書房
発売日:2017-04-20
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世界でもっとも経済が洗練されている国は日本──それが本書Why Information Growsの著者セザー・ヒダルゴらの開発した「経済複雑性」という独自の指標から導き出された結論だ。  

日本が経済大国と呼ばれるようになって久しい。近年になって世界第2の経済大国(GDPベース)の地位を中国に明け渡し、ひとりあたりGDPではすでに他の先進国に大きく水を開けられている日本だが、著者らが開発した「経済複雑性指標」では2000年以降、日本が16年連続で世界第1位を維持しつづけている(詳しくは経済複雑性観測所〔The Observatory of Economic Complexity〕 のサイトを参照)。

この経済複雑性指標とはいったい何物なのか? 経済の複雑さについて説明するとき、ヒダルゴ氏がよく引き合いに出す例が2種類のアップルだ。ひとつはアップル製品という意味のアップルで、いまひとつは自然界に存在するほうのアップルである(その意味ではアップルでもパイナップルでもいいのだが)。

この2種類のアップルの違いは、前者だけが人間の想像の産物であるという点だ。著者は人間の想像を形にしたモノのことを「想像の結晶」と呼んでいる。ヒダルゴ流の解釈に従えば、(複雑な)経済活動とは想像を結晶に変えることであり、想像を結晶に変える能力が高ければ高いほどその経済は複雑で洗練されていることになる。

先ほどの2種類のアップルでいえば、アップル製品は人間の想像を結晶化したものであり、果物のアップルは自然界に元から存在するものなので、たとえ輸出額自体が同じであっても、果物のアップルを輸出している国よりもアップル製品を輸出している国のほうが経済は高度だといえる。

この経済の複雑さの度合いを数値化したものが経済複雑性指標である。本書によれば、多様でなおかつ稀少な品目を輸出している国ほど、経済複雑性指標の値は高くなる。しかし、この定義だけでは、ウラン鉱石のようなただ自然界に稀少なだけの製品と、生産に高度な知識やノウハウが必要なために稀少である精密機器のような製品とを区別することができない。

無論、経済がより高度なのは後者の国のほうだ。そこでヒダルゴ氏は、その製品が輸出品目の多様な国で生産されているかどうかも計算に組み込んでいる。要するに、精密機器を生産できるような国は、間違いなく衣料品のような普遍性の高い製品も生産できるので、輸出品目は多様となり、経済複雑性指標の値は高く評価されるという理屈だろう。そして、この想像を結晶化する能力の違いが、国家間の経済格差を生み出すのだと著者は考える。貿易収支を想像力収支(つまり、想像力の輸出量から輸入量を差し引いたもの)で考える著者のアイデアには目から鱗が落ちた。

そう考えると、とりわけ天然資源に乏しく、複雑な製品の輸出に大きく頼っている日本が経済複雑性指標で1位を保ちつづけているのは合点がいく。本書を読んでいて印象深かったのは、「世界には富という点では豊かなのに経済が未発達な国がたくさんある」という著者の文章だ。過日、『ブラック・スワン』の著者ナシーム・ニコラス・タレブのある著書でも似たような記述を目にした。タレブは、国の石油収入で大学を建て、外国から一流教授を引き抜き、若者を学校に通わせれば石油を知識に変えられると思い込んでいる国を見ると心配になるとの主旨のことを述べている。この発言はヒダルゴ氏の経済複雑性の考え方にも通じるところがあるように思う。天然資源はやがて尽きる。だが、人間の想像は尽きない。

しかしウラを返せば、日本のような天然資源の(今のところ)乏しい国々が生き残るためには、想像の結晶を買ってくれる他国との関係性や円滑な取引が不可欠だともいえるだろう。皮肉なことに、たとえ想像を結晶化する能力に優れていたとしても、その結晶を買ってくれる相手がいなければ経済は発展しえない。世界が脱グローバリズム、保護主義へと向かうひとつの潮流が見えつつあるなかで、各国の経済はこれからどういう方向へと進んでいくのか──そんなことまで想像させてくれるのもまた本書なのかもしれない。

そして、経済複雑性指標の特長は、経済の現状を可視化することだけにとどまらない。各国の未来の経済成長を予測するツールとしても使えるのだ。ヒダルゴ曰く、経済複雑性指標の値と比べて相対的にGDPの低い国は、長期的に見て経済複雑性指標の値が同じ国と同水準のGDPへと収束していくはずだという。詳しくは第10章で解説されているが、平たくいえば、経済が十分に複雑なのに、まだGDPがそれに追いついていない国は、将来的にあるべきGDP水準へと近づいていくということだろう。実際、ヒダルゴの統計モデルは、従来の経済指標よりも正確に未来のGDP成長を予測していたとされる。

このように、どうしても経済の話(本書の後半)に目が行ってしまうのだが、本書の枠組みは経済だけに収まらない。経済の成長を情報の成長という斬新な視点でとらえ、原子から人、人々、企業、そして経済へと物理的秩序が成長していく壮大なプロセスを、情報というたった一本の撚り糸を使って紡ぎ上げているのが本書だ。無秩序へと向かって一方的に行進を続けるこの宇宙のなかにあって、なぜ地球上だけは、情報が蓄積し、秩序が生まれ、そして高度な経済にいたるまで発展することができたのか? 本書はそのひとつの答えを提案している。名づけるなら力の統一理論ならぬ情報成長の統一理論だ。

原子から経済までを統一的に説明しているためか、原書のレビューでは話の方向性が少し見えづらいという感想もあるようだが(事実、著者自身も謝辞で土壇場の章の入れ替えや多数の文章の削除など悪戦苦闘ぶりを明かしている)、それもまた著者の豊かな発想の裏返しなのかもしれない。

さて、そんな斬新な考えを思いついたセザー・ヒダルゴ氏とはいったいどんな人物なのか? ごく簡単にご紹介しておきたい。彼は米ノートルダム大学にて、ネットワーク研究の第一人者で『新ネットワーク思考』の著者として知る人ぞ知るアルバート゠ラズロ・バラバシに師事し、物理学の博士号を取得。以来、ネットワークを用いた経済発展プロセスの研究を続けてきた。

現在では、MITメディアラボで唯一のヒスパニック系の教員(准教授)として、「集団的学習(Collective Learning)」グループを率いるとともに、大量のデータを視覚化するツール群を開発している。その成果のひとつであるヒダルゴらの「経済複雑性指標」は一躍脚光を浴びており、彼は2012年のイギリス版《ワイアード》誌で「経済、ネットワーク、データ科学を用いて経済成長の理解に貢献している若手研究者」として、「世界を変える50人」にも推薦された。

と聞くと、さぞがし理性的で冷静沈着な人物を想像するかもしれないが、動画で見る彼は文字どおりラテン系の情熱にあふれている。大げさな身ぶり手ぶりを交えつつ、息つく間もなくスタッカートで単語を連発する彼の話しぶりは、まさしくマシンガントークという言葉がぴったりと当てはまる。そんな彼自身は、「僕には何の才能もないし、これといって自慢できる趣味もないんだ」と、いたって謙虚だ(以下、HUBweekのインタビュー記事より)。

他人からもらった人生最高のアドバイスは、 大学院を探していたときに指導教授から言われた「大学ではなく人で選びなさい」というもので、バラバシと出会えたのもこのアドバイスの賜物だったという(ちなみに、人生最悪のアドバイスは「ヒゲを剃ったほうがいい」だそうだ。新しい恋人と出会うたびに言われたそうだが、実際に剃ってみせると、相手はやっと前言を引っこめるらしい)。

今いちばんほしいものは「時間」。ぎゅうぎゅう詰めの予定の合間を縫い、本書に登場する娘アイリスの送り迎えをする毎日だ。「時は金なりと言うけど、どこに金を持っていけば時間を少しばかり売ってもらえるんだろうね」

2017年3月 千葉 敏生