おすすめ本レビュー

自分であるということ 『成駿伝 孤独の◎は永遠に──』

吉村 博光2017年5月9日
成駿伝 孤独の◎は永遠に―

作者:監修・「成駿伝」製作委員会
出版社:ベストセラーズ
発売日:2017-04-18
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狩りの素人が山に入っても、獲物の存在に、なかなか気づかないそうだ。その一方で、猟師は山を見ただけで獲物がどこにいるかわかるという。私は小学校の頃から競馬をみてきたが、JRAにお金を預けっぱなしである。しかし、出馬表を見ただけで獲物がわかる予想家はいるものだ。本書は、昨年の夏に他界した、清水成駿という大物予想家の人物像に迫った本だ。

ダービーなどのG1レース前日、コンビニの入り口には出馬表を掲載した新聞がズラリと並ぶ。日本中でお馴染みの光景だ。そのなかで一際高く積まれているのが、東スポである。その1面は日本で最も読まれる競馬予想と言って差し支えないだろう。長年にわたり、そこに記事を書いてきたのが、本日の主役・清水成駿その人だ。競馬好きならまず、知らぬものはいない。

そのコラムは、競馬予想の枠を超えた芸術だった。私は、少年ジャンプの発売を待つ子供のように、週末にそれを読むのを楽しみにしていた。競馬予想には、血統やタイム、展開…様々なファクターがある。しかし、どのファクターが結果に直結するかは、走ってみないとわからない。「どの武器を使うか、まずそれを見極めよ」この本を通じて、私はそう諭された気がした。なぜそう感じたのかを、詳しく書きたい。

多くの予想家は、特定の理論を看板にする。血統を拠り所にする予想家は、どのレースもそこから入ろうとする。今日は展開、明日はタイムというように、拠り所を変える人はさほど多くない。清水成駿は、変幻自在にそれを使い分けるのだ。そして、導き出した結論を教養(歴史、文学など)で味付けをして、エンターテイメントとして私たちの前に提示する。

例えば、2007年ダービーのウォッカ◎。キャリアが長いものほど想像できなかった、64年ぶりの牝馬ダービー制覇。彼は、牡馬と牝馬の力関係の分析で見事的中させた。コラムの枕にはドストエフスキーと2人の女性の逸話。その日、私は父の病床にあり、東スポが購入できなかった。ここで、読めてよかった。個人的には、これだけで大満足である。

さて、大物予想家には伝説の予想がつきものだ。1998年ダービーの14番人気ボールドエンペラー◎。そのレースは、スペシャルウィークをはじめとした人気馬が3強を形成。伏兵が入り込む余地はない、と思われていた。しかし彼は、前走の皐月賞で余力を残して負けた追込馬を見逃さなかったのである。結果、大万馬券を的中。読者を仰天させた。

本書は、親交があった予想家やジョッキーらへのインタビューで構成されている。彼らの口から、このような「伝説の予想」がポンポン飛び出してくる。海外から有力馬が集まるジャパンカップは、力の比較がしにくい予想家泣かせのレースだが、彼はここで何度も穴馬券を的中させてきた。

孫引きになるため原文を引用できないのが残念だが、第11回のジャパンカップでは、通常は予想のファクターとして考えられないものを採用した。世界の名馬が集まる舞台だけに外交を意識した、「持ち回り」説である。これまでに参加国すべてが勝ったため、今回は、第1回で勝ち馬を出したアメリカに戻るというのだ。

なんと、これで穴馬券を本線的中。紙面で驚かせ、レースで驚かせた。もちろん馬の力の裏付けがあっての予想だとは思うが、表面的には誰も思いつかなかったファクターを使った伝説の予想となった。これについて、大スポの上田氏は次のように語っている。

これが成駿の魅力だよ。競馬の基本は押さえながら、そこから話を広げて、あうんの呼吸で清濁合わせ飲んで、自分の感性を取り込んだ予想を出す。他の予想家にはマネができない。ドラマティックでドラスティック。衝撃的な予想だった。

予想家としての実力と、読み手を楽しませるエンターテイナーとしての実力。山口瞳や寺山修司。かつて、競馬を活字で表現した作家はいた。清水成駿は、その逆をいった。競馬サークルの現場から出て、競馬予想と歴史や文学をつなげることで新しいエンターテイメントのジャンルを切り拓いたのである。東スポの酒井氏の指摘が、興味深い。

あの人は、「清水成駿とは何者か」ということを自問していて、ある意味、自分を高みに据えるというか、自らを追い込むようなところがあったんです。そうすると、必然的に逃げ道がなくなるじゃないですか。そこから清水節というか独特の予想が生まれる。

きっと彼は、「自分であるということ」を突き詰めた予想家なのだろう。様々な情報や理論をストックした「自分」というフィルターを通して出た結論を、自らの言葉で伝える表現者だった。特定の「理論」を通して結論を出し、思考過程を文章にするだけの予想家とは、根本的に違う。

例えば、最近は、データに基づいた発注を行っていれば、事足りると考える人が多い。しかし、もっともっと多様な根拠をベースにした、自分なりの「これだ!」という発注を行わなくて、未来が拓けるか。「自分であるということ」の実感が持てるか。

データが根拠の一つであっても構わない。でも、他のファクターを忘れず、自らが全力で考える必要があるのだ。今年は天気のめぐりが7年前の夏に似ているからこれが流行るに違いない、ということでも良いのだ。それは、データだけで思考を停めず、その先を考えた答えなのである。

でもそれを、誰が信じてくれるだろう。「自分である」ためには、周囲の人を説得する言葉が必要だ。人類が共有している教養で味付けをして表現しようとする、サービス精神が必だったのだ。ただ、そこまでやることは、身を削ることでもあったはずだ。

68年の人生は、太く短く生きた結果だろう。そこで生み出された競馬予想という名の芸術に、私は魅了された。本書を読んで、その理由がハッキリとわかった。今後、私の競馬予想は変わるだろう。当たるかどうかは別として、間違いなく楽しみは大きくなる。そのキッカケとして、一冊の本への投資など安いものだ。はずれ馬券の山に比べれば。