「解説」から読む本

『ホーキング、ブラックホールを語る BBCリース講義』

監修者あとがき by 佐藤 勝彦 

早川書房2017年6月25日
ホーキング、ブラックホールを語る:BBCリース講義

作者:スティーヴン・W・ ホーキング 翻訳:塩原 通緒
出版社:早川書房
発売日:2017-06-22
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この本は2016年に放送された歴史あるBBCシリーズレクチャーでホーキングが二回にわたって話した講義録である。BBC科学ニュースの編集者であるD・シュックマンが講義の要所、要所に読者の目線での解説を付しており、本来、むつかしい内容を親しみを持って読めるようにしている。

ホーキングは言うまでもなく、車いすに乗った天才として、存命の物理学者としては世界でもっとも高名なかたである。同時に宇宙物理学の面白さを広く伝えることのできる、稀有の才能を持った科学者でもある。科学者が国際会議を開くとき、合わせて特別に市民向けの講演会を開くことが多い。私が東京で開催した国際会議にも何度かお呼びしたが、必ず市民向けの講演会をお願いした。ちょっと皮肉も混ぜ合わせた英国風ジョークに聴衆者はほほえみ、講演を楽しんでいただいた。

この本でも、ブラックホールの無毛定理を説明するのにちょっとエッチなユーモラスな絵を用いたり、本来むつかしい内容を楽しみながら読める工夫がされている。

この本は、短くはあるけれど彼の傑出したブラックホールの研究成果やその物理学を深く学ぶことのできる本であり、主題は「ブラックホールのインフォメーション・パラドックス」と言われている問題である。

物理学者は、この宇宙で起こるすべての出来事、森羅万象は厳密に因果率に従って生じ、宇宙は時間的に進化していると信じている。ある時刻の物質や時空の情報がわかれば物理法則に従って未来も必ず予言できる。もっとも、現代物理学の量子論では厳密には確率的な予言しかできないが、しかしその確率は前の状態さえわかっているなら物理法則で予言できるのである。正確に言えば、ある時刻の量子状態がわかっていればのちの時刻の量子状態は量子論に従って決まるのである。

しかし、何でも吸い込むが二度と出てこられないというブラックホールがあると情報は消えてしまう。ブラックホールは、質量、角運動量そして電荷という三つの物理量しか持たない。この「ブラックホールは三本の毛のみを持つ」という定理はこの分野では「無毛定理」と呼ばれている。吸い込まれた物質は、この三つの物理量以外にも、多くの情報を持っているが、それらはすべて消えてしまうことになる。これでは因果の連鎖で宇宙は進化するという従来の物理学の信念がすることになる。もっとも、これは量子論の原理的な問題で実際のマクロな世界ではいくらでも情報の喪失は起こっており、こう言われてもピンとこないというかたのほうが多いのではないかと思われる。しかし、この問題は理論物理学者にとっては深刻な問題なのである。

つい最近、2016年、ホーキングはケンブリッジ大学の同僚、ペリーとハーバード大学のストロミンジャーと論文を書き、インフォメーション・パラドックスを解決する大きな一歩を踏み出したように思われる。それは、ブラックホールは三本の毛だけではなく無数の「柔らかい毛」を持っているのではないかという仮説である。71ページに示されているものがこの論文の要旨である。

私自身も十分理解できたとは言えないが、遠方で普通の平坦な空間に近づくような空間(ブラックホールの遠方の空間もそうである)ではスーパートランスレーション(超並進対称性)という時空の対称性が現れる。この対称性のおかげでブラックホールは無数の情報を担うことのできる、柔らかい毛(エネルギーゼロの量子状態)を持っているという主張である。ブラックホールに吸い込まれた物質のあらゆる情報は、この柔らかい毛として蓄えられるのであり、実は情報の喪失はないというのである。

ホーキングは1974年、彼の最大業績であるブラックホールの蒸発理論を出したが、今回の仮説もブラックホールの量子論によるものである。ブラックホールが蒸発してしまうなら、跡形もなく平坦な空間に戻るが、この仮説では無数の柔らかい毛も蒸発により宇宙空間に放出される。柔らかい毛に蓄えられていた情報は、たとえば遠方の二つの時計の時間差が生じさせるなどして、遠方の時空に記憶されることになる。

従って宇宙で情報の喪失はなくインフォメーション・パラドックスは解かれたことになる。たいへん壮大なシナリオではあるが、どのようなメカニズムで吸い込んだ物質の情報が柔らかい毛に書き込まれるのか、そもそも柔らかい毛は実在するのか、今後、さらに研究を深める必要があろう。

ホーキングは「ブラックホールの蒸発理論」や今回の「ブラックホールの柔毛仮説」以外にも「時間順序保護仮説」や「宇宙創生の無境界仮説」などを提唱している。前者は過去に戻るようなタイムマシンは量子論が許さないという理論である。一般相対性理論だけに基づく理論ではタイムマシンができてしまうが、これでは過去に戻って自分の親をめてしまったらどうなるのかという親殺しのパラドックスが生じてしまう。この仮説も宇宙が因果の連鎖で整合性があるように進化するために提唱した仮説である。後者は、従来のビッグバン理論では宇宙は物理学の破綻する特異点から始まることになるが、量子論的に考えれば特異点という時空の境界なしで宇宙は生まれるはずだという仮説である。

科学の研究において、理論的研究は最終的には観測や実験によって証明されなければ価値はない。また科学哲学の分野で高名なカール・ポッパーが言うように、優れた理論は、原理的に反証可能性を含むものでなければならない。つまり理論が誤りであることを実験や観測で示す手段を含むものでなければならない。ブラックホールの蒸発理論については、加速器実験でブラックホールが作られ蒸発が観測されれば実証されることになる理論であり、本人も「私のノーベル賞は消えていないかもしれません!」と本書で自ら語っているように証明される可能性は残されている。しかし、他の仮説はいずれも、当面は実験的にも観測的にも実証は困難だし、反証可能性の条件も満たしているとはいいがたい。しかし、物理学の論理を尽くし、その結果として生まれた理論は、知の結晶であり、今後の研究の発展にとっては貴重なものである。

ホーキングは、「私は1942年の1月8日、ガリレオのなくなったちょうど300年後のその日に生まれました。もっとも、私の推定ではその日にはだいたい20万人の赤ん坊が生まれているはずですが」としばしばジョークを言うように、今年75歳となった。しかし、今回の「ブラックホールの柔毛仮説」の提唱に現れているように研究に対する意欲は衰えることはない。この7月には75歳記念の国際会議「重力とブラックホール」がケンブリッジで開かれる。私も出席するが、彼の研究のその後の進展と講演を楽しみにしている。

2017年4月 佐藤 勝彦