「解説」から読む本

『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々』

解説 by 渡辺 靖

集英社学芸編集部2017年8月26日

2016年の米大統領選挙を契機に、日本でも米国の「白人労働者」の存在が注目されるようになった。彼らこそは、当初、異端の泡末候補だった不動産王ドナルド・トランプの大躍進を支えた原動力であり、同氏のコアな支持層と目されたからである。

「白人労働者」は米国では「プア・ホワイト(貧しい白人)」「ホワイト・トラッシュ(白人のゴミ)、「レッドネック(野外労働者)」「ヒルビリー(田舎者)」といった蔑称と共に語られることも少なくない。日本からの駐在員や留学生、観光客にとっては接点の乏しい米国人と言って良いだろう。

そして、実は、それは米国のエリート層にとっても同じだ。格差社会が拡大するなか、大企業、先端企業、メディア、大学、シンクタンクなどで働く高学歴・高収入の米国人にとって、同僚や友人として彼らと交わる機会はほとんどない。それゆえ、中西部のラストベルト(錆びれた工業地帯)を中心に、それまで政治に対して冷笑的だった白人労働者が大挙して投票所に足を運び、民主党優勢の下馬評を覆したことはエリート層にとって大きな衝撃だった。

私は投票日の一週間前に、共和党陣営で世論調査を担当している知人に選挙動向を尋ねたが、「もう大統領選は諦めたよ。議会の上下両院で多数派が維持できれば御の字さ」と達観していた。精度の高い党内の独自データに触れているプロ中のプロでさえ、その勢いは読みきれなかった。

エリート層の多くはトランプの勝利をポピュリズム=大衆迎合主義の象徴として憂慮し、批判した。選挙期間中のトランプの過激な言動、現実味や整合性に欠ける日和見主義的な政策ーーしかも日々二転三転するーーを見聞し続けたことを思えば、それも無理はない。

ところが、トランプのコアな支持者にとっては、政治的に公正中立であるという建前(ポリティカル・コレクトネス)に縛られることなく、ときに共和党の幹部や主流派と激しく対立しながら、自分たちの本音を代弁してくれる同氏の度胸と大胆不敵さこそは、まさに「救世主」の到来に他ならなかった。それゆえ、メディアがトランプを叩けば叩くほど、コアな支持者の間でトランプの株は上がった。

彼らにとって、トランプの勝利はポピュリズム=反権威主義・反エリート主義の象徴だった。トランプはしばしば彼らのことを「忘れられた人びと(forgotten people)」と呼ぶが、ワシントン(=既成政治)に失望していた有権者を再び政治回路の中に引き戻した点は、ある意味、米国の民主主義が健全に機能していることの証左とも言える。

米国史において、ポピュリズムには大衆迎合主義と反権威・反エリート主義という二つの側面がある。トランプの熱心な批判者(エリート層)と支持者(白人労働者)では、トランプ個人に対する着目点も、ポピュリズムの解釈も大きくズレており、今日に至るまですれ違いを続けている。

そして、両者のすれ違いは選挙戦のみに留まらない。

もはや米国を見つめる眼差しそのものに深い断絶が存在するのである。その点を本書は14の章を通して詳らかにしてゆく。著者は紛れもなく「超」が付くほどのエリートだが、決して上から目線で白人労働者を断罪することはしない。第14章221ページで述べているように、それは倫理的に正しくないし、かつ断絶を深めるような語りは米社会の民主的統合という観点から望ましくないという自身の判断からだ。批判よりも理解、対立よりも歩み寄りを重んじる著者のパブリック・インテレクチュアルとしての姿勢に、私自身、強く共感する。

もっとも、米国の白人労働者層に対する知的関心は今に始まったことではない。古くから米国の南部やアパラチア山脈周辺などの農村部に暮らす保守的な白人貧困層に関するルポや研究は数多く存在する。

私は日本の学部を卒業後、1990年に米国の大学院に留学したが、当時、履修した米社会に関するゼミでは「格差拡大」「ミドルクラス<中流階級>の没落」「米国の分断」がすでに大きな関心テーマの一つだった。そして、「白人」や「中流」というカテゴリーそのものがさして意味を持たなくなっており、学界でもその妥当性に疑問符が付され始めて いた。

実は、私自身、博士論文のテーマがこの点に関するものだった。 東部マサチューセッツ州ボストンを舞台に、かつて「ボストンのバラモン」ーーバラモンがインドのカースト制度の頂点に位置する階級であることに由来するーーとも形容されたアメリカ最古で随一の名門家族の末裔たちと、彼らとは対照的な人生を送ってきたアイルランド系の移民労働者の末裔たちを対象に、約三年間に亘って行ったフィールドワーク(参与観察)を重ねた。

アイルランド系のインフォーマント(調査対象者)の多くは、90年代半ばに、ある全米有力誌が「アメリカのホワイト・アンダークラス(白人最下層)の都」と称した地区を含む地域ーー日本でもヒットした映画『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(1997年)や『ミスティック・リバー』(2003年)の舞台にもなった地域ーーに暮らしていた。

その成果は拙著『アフター・アメリカボストニアンの軌跡と<文化の政治学>』(慶應義塾大学出版会、2004年)に詳しいが、アイルランド系のインフォーマントーーすなわち白人労働者ーーに関しては、最初の接触時からかなり警戒されていた。というのも、私がハーバード大学の大学院生だったからだ。彼らにとって、「ハーバード」は、上から目線で自分たちを「差別主義者」「偏屈者」「後進的」とレッテル貼りし、地域コミュニティに余計な介入をし続けてきた「エリート」や「リベラル」の悪しき代名詞だった。いわば、著者が述べる「エリート」や「リベラル」に対する白人労働者の不信感を、私は身を以て感じたわけである。

その半面、白人労働者が自分たちよりも「下」の人びとーー要するに、政府の福祉政策 に依存しているような生活困窮者(その多くはマイノリティ)ーー に抱く蔑視の感情というものも肌身に感じた。つまり、私のインフォーマントは自分たちの「上」と「下」の双方に否定的で、その狭間にあって自らの家族や仕事、地域、宗教を尊び、決して豊かではなくとも、誇り高く生きているという自負があった。この点、なぜ白人労働者が貧困層に反感を抱き、かつ(実は自ら恩恵を受けているにもかかわらず)政府の支援策に懐疑的なのかといった一連の著者の説明はとても良く腑に落ちる。

さらにもう一点だけ指摘しておくと、私が大学院を卒業した1997年頃から、私のインフォーマントの暮らす地域では10代の自殺、自殺未遂、違法薬物の過剰摂取が相次いだ。10人の若者が首吊り自殺をし、男子を中心に自殺未遂が200件あったとも言われている。首吊りという手法がーー 特に10代の手法としてはーー珍しいことに着目した地元出身の著述家は「首吊り自殺なんて誰がしますか? 牢屋に入っている者のすることですよ」とコメントしていた(International Herald Tribune, August 18, 1997)。「牢屋」とは、絶望の中で囚われの身となり、貧困の中で隔絶され、アルコールと違法薬物(特にヘロイン)から逃れられないという意味だ。

本書では、「白人労働者」に対する負のイメージを強化しかねないとして著者は薬物問題を意図的に割愛しているが、彼らがなぜ仕事のある場所に引っ越さないのか、大学に行こうと努力しないのかといった問いを通して、彼らの世界を取り巻く閉塞感を活写してい る。

もっとも、私が調査したのは今から20年前。ひと昔前の話だ。白人労働者を取り巻く状況はより切迫したものになっている。

白人人口は減少の一途にあり、大学入試から就職などではマイノリティへの優遇策が続く。マイノリティがトランプ大統領の人形を叩いても何も言われないが、白人がバラク・ オバマ大統領の人形を叩くと「差別主義者」と批判される。

2016年の大統領選では「オルト・ライト(もう一つの右翼)」と称され、ネット空間を中心とした白人至上主義的な運動が注目された。従来の白人至上主義が(白人主体の)米社会から(黒人やユダヤ教徒など)異分子を排除しようとしたのに対し、今日の白人至上主義は「自分たち白人こそ社会の犠牲者である」との被害者意識に立って、アイデンティティや尊厳の復権を訴えている点が特徴的だ。

加えて、米国ではミドルクラスが縮小し続けている。かつてフランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルが指摘したように、ミドルクラスこそは米国の民主主義を支えた活力の源泉である。一般的に、ミドルクラスが縮小すると、社会全体の余裕がなくなることから、国内的には排外主義的傾向、対外的には孤立主義(自国第一主義)的傾向がそれぞれ強まるとされる。選挙期間中からのトランプの一連の言動はこうした風潮と合致するものであり、トランプ大統領は今日の米国において生まれるべくして生まれた存在だとさえ言える。

人口構成のみならず、経済的にも周縁に追いやられ、「忘れられた人びと」となりつつある白人労働者にとって、トランプこそが「救世主」と映った構造的要因がここにある。

最後に、私が一番感銘を受けたのは、 こうした社会の断絶状況を前に、「エリート」や「リベラル」ーーより米国の政治的文脈に照らし合わせて言えば「民主党」ーーが如何にして白人労働者の信頼と支持を回復することができるかを論じた最後の二つの章である。そこでは再生戦略が具体的に記されているが、米国史の負の遺産(人種差別など)に対する責任を白人エリートが白人労働者に転嫁してきたとする指摘などは、まさに(白人エリートに属する)著者自身の自己切開の営為でもあり、著者の知的誠実さを強く感じる。

もちろん、米国と日本では社会状況は大きく異なる。安易に比較はできないし、著者の提言がそのまま当てはまるとも思わない。しかし、ミドルクラスが縮小し、閉塞感が増し、社会のセグメント化が進むなか、エリートやリベラル、さらには政治が一体どうあるべきかという著者の根源的な問題意識は、日本にとっても確実に重みを増しているように思えてならない。知的誠実さに裏打ちされた解の模索が必要な時期がこの国にも来ている。

渡辺 靖(慶應義塾大学SFC教授)