おすすめ本レビュー

『結論は出さなくていい』番組プロデューサーが語る、「脱構築」の指南書

堀内 勉2017年12月25日
結論は出さなくていい (光文社新書)

作者:丸山俊一
出版社:光文社
発売日:2017-12-14
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本書『結論は出さなくていい』を一言で言い表すなら、現代を支配する浅薄でしかも強固な固定観念を打ち破るための、知的誠実さによって貫かれた、「脱構築」の指南書である。

ここで言う「脱構築」とは、著者曰く、「自らの拠って立つところを自覚し、その足場を相対化し続けること」であり、もう少し分かりやすく言えば、本書は、資本主義社会を前提とする一元的な価値観によって自縄自縛になっている我々現代人が、どうすれば再び自分自身を取り戻し、真の意味での自由を手に入れることができるのか、その答えを追い求めた一人の敏腕プロデューサーの人生の軌跡である。

本書の中で、著者は次のように語っている。

『僕はひとつの思想などと犬死はしない。だが、思想を変える自由を奪われることには死んでも抵抗する』。おそらくは哲学者ニーチェの言葉と記憶するが、言い得て妙だ。結論を出すという不自由さから逃れた時、人は自由になれるのだ。思考の運動に身を委ねていけるのだ。

それでは、我々を支配する一元的な価値観とは何か?その最たるものが、著者がプロデュースしたNHK番組『欲望の資本主義』で取り上げた成長神話である。同番組を書籍化したものについては、以前、HONZでも取り上げたので、詳しくはそちらを読んで頂きたい。

毎年億単位のお金を稼ぎ出す人たちですら、「成長しなければならない」という強迫観念から逃れるのは難しい。そして、この「やめられない」「止まらない」資本主義を根底で支えるのは、巷間言われるところの「人間の限りない欲望」なのだろうか。資本主義はこの欲望を原動力に、駆動し続けているのだろうか?

『欲望の資本主義』でナビゲーターを務めた大阪大学准教授の安田洋祐氏が、上位1パーセントの大富豪たちが果てしなく稼ぎ続ける理由について、彼らのインセンティブになっているのは、贅沢をしたいという「欲望」ではなく、ある種の「承認欲求」であり、つまりランキング社会だからこそ、開示される資産総額は自らの力の誇示になると言っている。

しかし、著者はそれだけではないだろうと言う。つまり、現代は「どこにも勝者がいない時代」であり、あらゆる人々が商品であるかのように市場の評価を受ける。そしてそれは、「使える」「役に立つ」という極めて一元的な価値尺度に収斂している。

現代社会では、「あの人はもう終わったね」の一言で片づけられる恐怖に、多くの人が縛られている。全てを商品とみなす社会・・・これでは、資本主義のレースから降りられない。企業の株価も同じで、一旦上場して、ひとたび数字やランキングに巻き込まれてしまえば、より上位を目指し続けねばならず、それは次第に強迫観念になっていく。

金融の世界に身を置いていた時、私はいつも自分が下りのエスカレーターを登り続けているような錯覚にとらわれていた。じっとしていると下がって行ってしまうから、回し車のネズミのように、常に走り続けていなければならない。少し立ち止まって冷静になって自分の立ち位置や、来し方行く末を考えてみようなどと思ったら、直ぐにエスカレーターは下がって行ってしまう。

このように、この資本主義というゲームから降りたいのに降りられないというジレンマに苦しむ人々が増えて続けているのではないか。これがひとつの大きな日本のジレンマなのである。
そして、著者は、こうした我々を縛り付ける既成概念や固定観念に対して、30年にわたってコツコツと孤高の戦いを挑み続けてきたのである。

当初、本書の書評をHONZに書こうかかなり悩んだ。多くの読者が、著者の言わんとしていることを理解できないのではないかと思ったからである。他方で、『ニッポンのジレンマ』『欲望の資本主義/民主主義/経済史』『ネコメンタリー 猫も、杓子も。』『英語でしゃべらナイト』『爆笑問題のニッポンの教養』など、数々のヒット番組を生み出し続けている名物プロデューサーの本が、一般読者に分からない訳はないという思いもあった。

個人的な話をすると、私が著者に初めて会ったのは、上述の安田洋祐氏の紹介で、『資本主義の教養学 公開講演会』での講演を依頼するためだったのだが、その時の印象を今でも忘れない。

正直に言ってかなりのショックを受けた。自分が抱いていた先入観と余りにも違う人物だったということと、もうひとつには、こういう生き方もあったんだという驚きである。多分、本人は気付いていないだろうが、それ位ショックが大きかった。

これが、会った瞬間にうんざりするようなステレオタイプのプロデューサーだったら、早々にミーティングを切り上げたのだろうと思うが、話を聞けば聞くほど、これは参ったなという感じで、自分ももう少し真面目に生きてくれば良かったと反省することしきりだった。しかも、自分にはそうした人生の可能性は見えなかったけれど、そこには本当は著者のような生き方があったのかと。

いずれにせよ、「茹でガエル世代」と言われる我々50歳代に、自分の人生の逃げ切りだけでなく、これほど社会のことを真面目に考えている人もいるんだなと分かっただけでも嬉しかった。

著者が言うには、学問には原初的な「問い」を考え続ける持続力が要請される。自然を相手にする自然科学に対して、人間や人間の所産を扱う人文系は、客観性や実効性の点でどうしても旗色が悪い。IT化が進み、何事においても、ビッグデータ、科学としてのエビデンス、証拠となるデータなどが真理を語る時代にあって、「使えない」とか「役に立たない」ということになる。

しかしながら、人間の思考、心、感情は、時代の大きな変化に追いつくような更新を果たしたと言えるだろうかというのが、著者が投げかける疑問である。19世紀にヨーロッパで産業革命が起こり、土木工学、機械工学、物理学、化学といった自然科学の知が主流になっていくと、「人文社会科学の知はどのような価値を持つのか?」が議論されるようになった。

これについて、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のマックス・ウェーバーは、自然科学的な合理性に対し、目的は自明ではないことを自覚し、その自明性の呪縛から解き放たれるには、根源的な「価値とは何か?」を問う文系的な知が必要だと考えた。

つまり、合理性には価値合理性と目的合理性の2つがあり、価値合理性とは、勤勉に働くこと自体が神への奉仕であり、お金を儲けるために働くのではないというピューリタン的な合理性である。ところが、お金が貯まり、それを再投資することで資本主義経済がさらに拡大していくという仕組みが一旦できあがると、当初の価値合理性は見失われ、目的に対する手段を追求し続ける目的合理性が社会を覆うようになったというのである。

そして、今一度、この価値合理性を問い直してみようというのが、著者の目指すところなのだと思う。それが、「結論は出さなくていい」ということの意味なのだろう。この歳になって、同じ思いを持った人物に巡り会えたことを、大変幸せに思う。

最後に、番宣という訳ではないが、来年正月3日にNHK BS1スペシャル『欲望の資本主義2018~闇の力が目覚める時~』が放送されることになった。正月が待ち遠しい。