「解説」から読む本

『遺伝子‐親密なる人類史』から考える人類の未来

仲野 徹2018年2月6日

遺伝子‐親密なる人類史‐ 上

作者:シッダールタ ムカジー 翻訳:田中 文
出版社:早川書房
発売日:2018-02-06
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遺伝子‐親密なる人類史‐ 下

作者:シッダールタ ムカジー 翻訳:田中 文
出版社:早川書房
発売日:2018-02-06
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『遺伝子-親密なる人類史-』、タイトルのとおり遺伝子についての本である。遺伝子といえばもちろん生命科学の分野なのであるが、この本の内容はそこに留まらない。遺伝子についての科学的な解説だけでなく、人間社会におけるその意義と重要性についても広く論じられている。この本を読むと、二一世紀は、誰もが遺伝子について考えねばならない時代である、と強く印象づけられる。

著者のシッダールタ・ムカジーはインド出身で、スタンフォードからオックスフォードを経てハーバードからコロンビアと一流大学を渡り歩き、誰もがうらやむようなキャリアを積んできた腫瘍内科の専門医だ。研究者としても、造血幹細胞や白血病についての論文を、ネイチャー誌をはじめ一流雑誌に発表している。そのムカジーにとって、この本は三冊目の本である。処女作は『がん-4000年の歴史-』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫、『病の皇帝「がん」に挑む-人類4000年の苦闘』から改題)で、「がんの伝記」をまるで壮大な大河小説のように描き、ピュリッツァー賞に輝いた。今回はテーマは違えど同じく伝記、「遺伝子の伝記」とでも呼ぶべき本だ。面白くないはずがない。

現在のチェコ、ブルノの司祭であったグレゴール・ヨハン・メンデルの物語から本書は始まる。ドイツ語で書かれたメンデルの論文『植物雑種に関する実験』(邦訳は『雑種植物の研究』〔岩槻邦男・須原準平訳、岩波文庫〕)が発表されたのは一八六六年だから、この大発見が完全に無視されていた最初の三〇年あまりを含めても、遺伝子の伝記はたかだか一世紀半の長さでしかない。しかし、その間に、遺伝子の概念は変遷し、物質基盤や制御機構が次々と明らかになり、自在に操ることすら可能になってきた。

『がん-4000年の歴史-』では、カーラという白血病患者の経過が、章の節目において狂言回しのような形で紹介されていく。『遺伝子-親密なる人類史-』でも似たようなスタイルがとられている。しかし、今回語られているのは患者の経過ではなく、ムカジーの頭から一日たりとも離れることはなかったという肉親たちの遺伝性疾患だ。そのヒストリーは、狂言回しどころか、この本の主役と言えるかもしれない。

父の兄、四人のうち二人がそれぞれ統合失調症と双極性障害を患っている。さらに、その二人とは別の兄の子であるムカジーのいとこも精神疾患を発症している。精神疾患は比較的遺伝性の高い病気である。このような家族歴は、ムカジーが精神疾患を発症する可能性が一般より数十倍も高いことを示している。

高齢化が進んだ日本では、国民の約半数はがんを発症する。多いとはいえ半分である。それに対して、ムカジーほど深刻ではないかもしれないが、遺伝子の影響はすべての人におよぶ。また、がんはある程度治療することが可能で、克服できる場合もある。しかし、誰ひとりとして自分が背負っている遺伝子の宿命から逃れることは不可能だ。

このような意味において、すなわち、自分自身のことを理解するために、我々は遺伝子のことを知っておかなければならない。さらに、学ぶべきことは、遺伝子の生物学的な側面だけに留まらず、その社会的側面にもおよぶ。というのも、後述するように、我々の「遺伝子に対する向き合い方」が、人間社会の未来に大きな影響を与えるに違いないのだから。

未来のことなど誰にもわからないではないか、と言われるかもしれない。確かにそうである。しかし、未来を推し量るには過去を知ることが重要である。遺伝子を巡っては、すでに過去に悲惨な歴史があったことを忘れてはならない。それは優生学だ。

生物学において真に重要な発見は二つだと言われている。ひとつはメンデルの遺伝の法則であり、もうひとつは、ほぼ同時代の人であったダーウィンによる進化論である。残念ながらダーウィンはメンデルの仕事を知ることはなかった。もし知っていたら、遺伝子の伝記は、その出だしからして、相当に違ったものになっていたはずなのだが。

それはさておき、メンデルの遺伝の法則とダーウィンの進化論が交差した時、進化における遺伝子の役割という考え方が浮上した。その考えは科学的に極めて妥当である。しかし、遺伝子の本態がわかっていない段階で、一気に人間の能力にまでそれをあてはめ、「優れた遺伝子」を選別しようとするのは行きすぎ以外の何物でもない。にもかかわらず、歴史はそのように進んでしまった。

その担い手となったのは、ダーウィンのいとこフランシス・ゴールトンであった。不完全な統計学的手法から、人間の才能は遺伝によって受け継がれるとの結論を導き出す。その誤った考えに基づき、「優れた遺伝子」を残していけば、よりよき未来が開けると確信したゴールトンは、優生学という言葉を作り、全力で展開していく。

何ら実体を伴わない「優れた遺伝子」なのだが、それを選り分けて残すという考えは、その単純さからか、多くの人に受け入れられ、驚くほどのスピードで欧米に広まっていった。さらにそれを受けて、病気を持っている、あるいは、能力的に劣っていると判断された人たちには子どもを作らせないという方法-断種-が、多くの国家において採用されるようになる。優生学はどんどん拡大解釈され、その最悪の結果として、ナチスによる「民族浄化」の遂行に至ってしまったのはご存じのとおりだ。

この例だけからでも、遺伝あるいは遺伝子というものの扱いを誤れば、とんでもない事態を招きかねないことがわかる。我々は、自分のためだけでなく、社会のためにも遺伝子のことを学ぶ必要があるというのは、こういった意味なのである。

多くの人々は、よかれと思って優生学を受け入れた。しかし、その実際は、地獄への道は善意で敷き詰められている、という格言を地で行くようなものだった。優生学の看板の下、遺伝子が社会的に「誤用」されていった間にも、生物学者たちは、ショウジョウバエを用いた研究などから、遺伝子の基本的な性質を次々と解明していった。

まったく別の流れとして、遺伝子の分子的実体はDNA(デオキシリボ核酸)であることが、米国のオズワルド・エイブリーらによって一九四四年に報告された。ただ、タンパク質が複雑な構造と機能を有するのに対して、DNAは単純な物質にすぎないと考えられていたため、DNAが遺伝物質であるという大発見は、多くの科学者たちになかなか信じてもらえなかったのではあるが。

DNAには四種類の塩基、アデニン(A)、シトシン(C)、グアニン(G)、チミン(T)が含まれていることは以前から知られていた。一九五三年、ワトソンとクリックにより、DNAは二重らせん構造をとり、らせんの内側でAとT、CとGが相補的な塩基対を作っていることが報告された。この構造はきわめて多くのことを示唆するものであった。

細胞が分裂する前に、遺伝情報は複製されなければならない。DNAに蓄えられている遺伝情報がいかにして正確無比に複製されるのかは大きな謎だったのだが、この相補的な構造からおおよそのことが推定できた。DNAの二本鎖がほどけて、片側の鎖を「鋳型」にして、AにはT、GにはCというように、ペアになる塩基を当てはめていけばいいはずということが示唆されたのだ。そして、実際にそのとおりであった。

このようなDNA複製をおこなう酵素-DNAポリメラーゼ-を発見したアーサー・コーンバーグはノーベル生理学・医学賞を受賞する。この本には紹介されていないが、そのDNA複製研究において、コーンバーグの弟子であった日本人科学者・岡崎令治が非常に大きな貢献をしたことは特筆に値する。

DNAが複製される時、DNAポリメラーゼの分子的な特性から、片側の鎖では合成がスムーズに進むが、反対側の鎖では進めないはずだ。にもかかわらず、二本の鎖が同時に合成されていく。その謎を解いたのが岡崎令治であった。説明すると長くなるので結論だけを言うと、そのスムーズに合成が進まない方の鎖では、短い不連続なDNA断片が作られ、その断片がつなぎ合わされることによって長いDNA鎖が合成されるのだ。

その断片は「岡崎フラグメント」と呼ばれ、どの教科書にも載っているほどの業績である。残念ながら、岡崎は慢性骨髄性白血病により44歳の若さで亡くなった。その原因は広島での被曝、すなわち原子爆弾の放射線による遺伝子変異、であろうとされている。極めて優れた研究者であった岡崎であるから、もし長生きしておられたら、後にどれだけ優れた研究成果をあげられたことだろう。

1940年代から60年代にかけて、遺伝子とはいかなるものかについて、ほとんどのことが解明された。最終的に機能するタンパク質へとDNAの遺伝情報がどのようにして流れて行くのか、遺伝情報の発現調節がどのようにしておこなわれていくのか、など多くのことが次々と明らかにされていったのだ。その次にやってきたのは遺伝子を利用する時代である。大腸菌を用いた遺伝子の操作法が開発され、インスリンや成長ホルモンといった有益な医薬品が生産されるようになっていった。

まことに結構なことばかりで、遺伝子の利用には負の側面などありえないのではないかと思われるかもしれない。しかし、現実はそう単純なものではない。量子力学や相対性理論が理解された後、その利用により、原子爆弾や原子力発電の時代がやってきた、というアナロジーで考えるとわかりやすいだろう。

遺伝子操作が可能であるとわかった時、もしかすると、その技術によって危険な病原体が作られ、人類にとんでもない災厄を引き起こしてしまうのではないかとの危惧が生じた。そのことを議論するためにアシロマ会議がひらかれ、研究のモラトリアム(一時停止)が決定された。こういったことが可能であったのは、原子力研究の歴史から科学の負の側面がよく認識され、科学者の良心がうまく機能したからこそである。次に述べるように、このような、遺伝子の利用における慎重さは、今後ますます重要になっていく。

生き物はすべからく遺伝子の影響から逃れることはできない。ヒトも例外ではない。遺伝子の影響を完全に理解するためには、ヒトの遺伝情報をすべて知る必要がある。バイオテクノロジーを用いて有用なタンパク質が作られるようになっていった頃、ヒトのゲノム(=全遺伝情報)を調べ上げようというプロジェクトが立ち上げられた。

米欧日の共同研究としてスタートしたプロジェクトだが、そこへ一人で挑みかかったのがベトナム戦争帰りの一匹狼クレイグ・ベンターだった。最終的には研究チームとベンターが少なくとも表面的には和解して、2000年にホワイトハウスでヒトゲノム解読が大々的に発表される。それに要した金額はおよそ3000億円とされている。以後、塩基配列決定の技術は恐るべきスピードで進歩し、いまや、一人のゲノムを解析するのは10万円以下である。世の中に、これほどのコストダウンが急速に生じたものなどあるまい。技術開発がいかに急速に進んだかがわかる。

ゲノム情報がどんどん蓄積していくと、いろいろなことがわかってくる。身長、運動能力、知能、あるいは精神疾患の発症など、遺伝性が認められるものはいくつもある。誤解のないように言っておくが、ある特定の多型や変異を持っていると背が高くなる、運動ができるようになる、知能が高くなる、精神疾患になる、というような遺伝子が存在している訳ではない。複数の遺伝子多型や変異の組み合わせが、そういったことに影響を与えるということなのだ。

現時点では、どの遺伝子のどのような多型や変異の総和が、これらのことに影響を与えるのかはわかっていない。しかし、理論的には、非常に多くの人間の表現型とゲノム情報をつきあわせて解析すれば、いずれわかるようになるはずだ。もちろん、そのための膨大な情報が正確に集められて、それを処理できる能力を持ったコンピューターがあれば、という条件付きではあるが。

もし、そのような時代になれば、ゲノムを読むことによって、個々人のポテンシャルをある程度推測することが可能になる。もちろんゲノムだけですべてが決定されるわけではなく、数多い環境要因-栄養や教育だけでなく、個人の努力など-も大きな影響を与えることはまちがいない。しかし、ゲノムの影響はそれに匹敵する、あるいは、それ以上に大きい。そこに、国家の強制による優生学ではなく、各個人が自ら望む優生学である新優生学-リベラル優生学と呼ばれることもある-が入り込む隙がある。

すでに新優生学は始まっている。重篤な遺伝子疾患をもった子が生まれる可能性のある場合におこなわれる着床前診断がそのひとつの例である。体外受精をおこなった胚をある程度まで発生させ、一部の細胞をとって遺伝子検査をおこなう。そして、異常がないことが確認できた胚を母親の子宮に戻す。同じ方法は、男女の産み分けに利用することもできる。

妊婦の血液を用いた「新型出生前診断」も開発されている。血漿(血液の非細胞成分)には、微量だが遊離のDNAが存在しており、妊婦では胎児由来のDNAもある程度混じっている。この性質を利用して、妊婦の血漿中の遊離DNAの塩基配列を網羅的に解析することにより、ダウン症候群など胎児の染色体異常を検査できるのだ。このスクリーニング結果が陽性で、さらに検査を進めて染色体異常の確定診断をうけた妊婦の九割以上が人工妊娠中絶をうけたとの報告もある。

「優れた遺伝子」というのが何を意味するのか、また、本当にそのような遺伝子がありえるのかどうかすらわからない。しかし、新しい診断法の延長上に、かつての優生学がそうであったように、「優れた遺伝子」を持つ子を選別して欲しがる親がでてくる可能性は十分にある。このような個人の欲望による新たな優生学を社会として容認してもいいのだろうか。あるいは、制度として禁止すべきだろうか。

ゲノム解析と並んで、ここ数年の間に驚異的な脚光を浴びているのは「ゲノム編集」である。クリスパー/キャス9(CRISPR/Cas9)という方法を用いることにより、ゲノムを自在に改変できるようになってきた。まだ改良の余地があるが、遠からず、極めて効率的に、任意にゲノムを編集できるようになると考えられている。このような方法を用いれば、ある遺伝子多型や変異を持った子どもを受動的に選別するだけでなく、より能動的に「優れた遺伝子」に改変する、すなわち、遺伝子を増強-エンハンスメント-することが可能になる。

我々は、さまざまな遺伝子多型や変異の組み合わせを持って生まれてくる。そして、その組み合わせが個人-あるいは個性と言ってもいい-を作りあげている。どのような組み合わせになるかは完全な偶然による、というのが、これまでの世の中だった。それに対して、新優生学が跋扈するということは、その偶然性から逸脱し、人為的な選別がおこなわれる、あるいは、エンハンスメントまでもがおこなわれることを意味する。さて、あなたは、このようなことが人類にとって望ましいことだと思われるだろうか、それとも、とんでもないことだと思われるだろうか。

偶然だからこそ、「生まれつきだからしかたがない」とあきらめることができる。遺伝子の選別やエンハンスメントがおこなわれるようになった世の中においても、はたしてそのようなあきらめがすんなりと成り立つだろうか。子どもは親に対して、どうしてもっと「優れた遺伝子」をもたらしてくれなかったのか、と迫ることはないだろうか。また、逆に、偶然ではなく、親から「恣意的におしつけられた」ゲノムを、子どもは無条件に受け入れることができるのだろうか。

『遺伝子-親密なる人類史-』は『がん-4000年の歴史-』に勝るとも劣らない面白さだ。言うまでもなく、どちらの本も単独で十二分に面白い。しかし、両方を読んでみると、さらに面白さが立体的に浮かび上がってくる。二冊の本のテーマ、がんと遺伝子について、少し対比して考えてみよう。

がんは、その患者を社会がどのように受け入れるか、あるいは、治療法をどのように提供するかなどといった側面があるとはいうものの、基本的には社会の問題というよりは個人の問題である。しかし、遺伝子は違う。遺伝子のプールには、膨大な種類の多型や変異、すなわち多様性が存在する。そして、その組み合わせによって個々の人間が作られている。そういった意味で、遺伝子は個人の所有物であると同時に、全体として人類が共有するリソース、すなわち、社会的な存在でもある。

『がん-4000年の歴史-』の解説を書いた時、がんと人類との闘いはまだ終わっていないという意味で「大いなる未完」というタイトルをつけた。しかし、その闘いの大筋は見えてきており、誰もが予想だにしていない方向へ進む可能性は非常に低い。がんについては、誰もができるだけ治療したい、治療すべきだと思う、といった方向性のコンセンサスが揺らぐことなど考えられないのである。

では、遺伝子あるいはゲノムについてはどうだろう。その選別や操作を受け入れるかどうか、すなわち、遺伝子エンハンスメントを含めた新優生学を容認する方向に進むかどうか。もし容認した場合、人類にどのような影響を与えるか、その将来がどうなるかは、予見することがきわめて困難である。そのような現状において、コンセンサスを得ることなど不可能だ。

すなわち、「遺伝子の未来」は「がんの未来」よりもはるかに不透明なのである。しかし、この遺伝子というものが引き起こすであろう不透明感は、なにも今に始まったことではない。この本には、いくつもの予言的な文章がおさめられている。

遺伝子という概念は自然界についてのわれわれの理解を変えるにちがいない

 この言葉は、一九〇〇年にメンデルの法則を再発見した三人のうちのひとり、ド・フリースによるものである。研究者として優れていただけではなく、将来を見通す目も持っていたようだ。しかし、現実はド・フリースの予言を超えた。先に述べたように、遺伝子は、我々の理解だけでなく、我々のあり方さえ変えかねない時代になってきている。

(いったん遺伝子を支配する力が利用されるようになったら)どんな信条も、価値観も、制度も確かなものではなくなる

遺伝学においても卓越した業績を残した生物学の鬼才J・B・S・ホールデンは1923年にこう論じている。あのマイケル・サンデルが『完全な人間を目指さなくてもよい理由-遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』(ナカニシヤ出版)で鋭く指摘しているように、つきつめて考えると、新優生学が広くおこなわれるようになれば、人間のあり方や考え方までもが根本的に変わってしまう危険性さえはらんでいることを認識すべきである。

ある力が発見されたなら、人間は必ずそれを手に入れようとする

その国にとって、あるいは人類全体にとって、そうした(遺伝子に対する)操作が最終的に善となるか悪となるかはまた別の問題である

ゴールトンの優生学が燎原の火のごとく広がっていく中、それに対して警告を発し続けた遺伝学者ウィリアム・ベイトソンはこう記している。一〇〇年も前、遺伝子の操作法はおろか、その実体すらわかっていなかった時代において発せられたこの達見には心底驚かされる。未来予想図が極めて不確実な遺伝子について、今こそ、この言葉をしっかりとかみしめるべきだ。このような問題提起がなされていたにもかかわらず、かつて優生学がたどってしまった歴史を振り返りながら。

大きな話題になったユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史──文明の構造と人類の幸福』(河出書房新社)の最後は「私たちが直面している真の疑問は、『私たちは何になりたいのか?』ではなく、『私たちは何を望みたいのか?』かもしれない」で結ばれている。そこにある、文明全体に投げかけられた「私たちは何になりたいのか?」と「私たちは何を望みたいのか?」という二つの疑問は、遺伝子やゲノムに対しても、まったくそのまま当てはめることができる。

最初にも書いたように、この本の際だった特徴は、単なる科学読み物でなく、遺伝子やゲノムに対する人文学的な内容や考察が広く取り上げられていることだ。科学に興味がないという人がいても、我々の未来に興味がない人などいないだろう。その未来、いや、近未来は、「遺伝子」をどう取り扱うか、どう操作するかによって大きく変わってしまう可能性が大きい。期せずして、その節目が現代なのである。

まさに時宜を得たこの本『遺伝子-親密なる人類史-』を手に取り、一人でも多くの人が、我々ひとりひとりの内なる存在であると同時に、人類全体にひらかれた「遺伝子」というものをしっかりと理解し、それを通して、はたして「私たちは何になりたいのか?」、そして、「私たちは何を望みたいのか?」について考えてもらいたい。その考えこそが我々の未来を決するのである。

『遺伝子-親愛なる人類史・下巻、解説』

 

がん‐4000年の歴史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF)

作者:シッダールタ ムカジー 翻訳:田中 文
出版社:早川書房
発売日:2016-06-23
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がん‐4000年の歴史‐ 下 (ハヤカワ文庫NF)

作者:シッダールタ ムカジー 翻訳:田中 文
出版社:早川書房
発売日:2016-06-23
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未読の方がおられるかもしれないので、念のためにこの本を。医学ノンフィクションの最高峰と言っても過言ではありません。これも解説は私でございまして、ここで読めます。