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『経済学者、待機児童ゼロに挑む』難攻不落の社会問題への挑戦

首藤 淳哉2018年4月4日
経済学者、待機児童ゼロに挑む

作者:鈴木 亘
出版社:新潮社
発売日:2018-03-23
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夫婦というのは、年数を重ねる中でそれなりに関係が変化していくものだが、我が家の場合、いまもお互い変わらずに抱いている感情がある。ときめき? まさか。いまや恋は遠い日の花火である。いまも夫婦で変わらずに思っていること。それは、ぼくらは「戦友」であるということだ。

夫婦にとっての戦いとは、子育てである。具体的に言えば、2人の子どもが小学校にあがるまでの延べ10年間に及ぶ保育園生活だ。あの怒涛の日々の記憶はいまとなっては切れ切れだが、なぜか保育園がらみのことだけは鮮明におぼえている。大雪の日に、自宅から遠く離れた保育園まで我が子を抱えて歩いたこと。朝、病児保育の施設を懸命に探す妻の姿。迎えの時間をとっくに過ぎてしまい、駅から保育園まで息を切らせながら猛ダッシュしたこと。あの頃は、毎日が必死だった。

それでも保育園が決まっていればまだいい。大変なのは受け入れ先がない場合だ。我が家も選考に漏れて途方に暮れたことがあるし、保育所を転々としたこともある。何があっても対応できるようにと妻はフルタイムの仕事をあきらめ、パートタイムの仕事に就かざるを得なかった。

『経済学者、待機児童ゼロに挑む』鈴木亘(新潮社)も、切実な体験談から始まる。夫婦そろって研究者の鈴木家の子どもは3人。5歳ずつ離れているため、16年もの長きにわたる保育生活を送ったという。しかも全員が少なくとも1回は待機児童を経験しているというから、ご夫妻の苦労は察するに余りある。

本書はみずからも待機児童問題に苦しめられたことがある経済学者が、行政の最前線でこの問題と格闘した経験を記した当事者ノンフィクションだ。問題解決のヒントが多数示されている上に、小池都政の興味深い内側も明かされている。読んで面白く、実践的なアイデアもあふれた一冊だ。

待機児童はなぜ生まれるか。厚生労働省のまとめによれば、待機児童の数は、2017年4月1日時点で、全国に2万6081人。そのほとんどは0歳児から2歳児で、首都圏に集中している。ただ、行政が統計上、把握している「待機児童数」は、実は限定的な概念で(たとえば入園をあきらめ、親が仕事を辞めて家で子どもの面倒をみているケースなどは含まれない)、実際はもっと数が多いと言われている。

だが不思議なことに、こと保育に関しては、需要が増加しても、簡単に保育園が増えるとはならない。その要因として、これまで保育士の不足や女性の社会進出、都市部への人口集中などがあげられてきたが、鈴木氏は本書でひとつずつ反証をあげてこれらを論破していく。そして需要と供給のメカニズムが機能しない現行の保育制度こそが、待機児童問題の根本的な原因であると看破するのである。

「児童福祉」という言葉があるように、日本の保育制度は長い間、社会福祉の中に位置づけられてきた。そのため市場メカニズムが機能しないようになっているのだ。一例をあげると、保育の大部分を占める認可保育において、保育園の経営者は、保育料を自由に決めることができない。その権限が与えられていないのである。

「認可保育料が安いのはそのおかげじゃないか!」という反論が聞こえてきそうだ。これに対し鈴木氏は、むしろその認可保育料が安すぎることこそが問題なのだと指摘する。市場メカニズムではなく、政治や行政が価格を決めるとどうなるか。「保育料を政治的に安くしすぎてしまう」という事態が生じてしまうのである。

認可保育は世帯の所得水準によって保育料が変わるが、平均的な保育料(月額)は2万円強。これに対して、たとえば無認可保育園である東京都認証保育所の平均保育料は6.5万円である。安い認可保育所に申し込みが殺到する理由がここにある。

ところが、「安くていいよね」の認可保育には、実は多額の公費が注ぎ込まれているのだ。鈴木氏はこれを社会主義国になぞらえる。一般企業のように必死の経営努力を行う必要がなくなってしまえば、旧社会主義国の国営企業のように、高コスト体質に陥る。税金投入額をお上が決めるとなれば、経営努力よりも、予算獲得のための政治活動が重視されるようになってしまう。そしていったん手にした特権は誰もが手放したくない。既得権構造はこうして生まれるのだ。本書は現行の保育制度が抱える問題点がわかりやすくまとめられていて、これから「保活」を始めるという人にも、有益な情報をもたらしてくれるだろう。

鈴木氏はこの3月まで東京都の特別顧問として待機児童問題に取り組んできた。社会保障や社会福祉が専門で、大阪市で「あいりん地区」の改革に取り組んだ経験を持つ鈴木氏にスペシャリストとして白羽の矢が立ったのだ。小池都政については評価が分かれるところもあるだろうが、少なくとも待機児童問題に関しては成果をあげていると言っていい。本書にはその改革の裏側で何が起きていたかが詳しく記されていて、こちらも読みどころのひとつになっている。特に行政と問題解決に取り組む際のコツが書かれているところは、これから行政に働きかけて何かを変えたいと考えている人々の参考になるだろう。

本書では実践的なアイデアも多数示されている。ひとつだけ紹介しよう。たとえば生産緑地の活用だ。現行の生産緑地法の制度がはじまった1992年に生産緑地の指定を受けた農地は、30年後の2022年に制度の期限を迎えるという。生産緑地指定が解除されると税制面などでの優遇措置がなくなるため、地主たちが一斉に土地を売りに出す事が予想される。これを「生産緑地の2022年問題」と呼ぶそうだ(不勉強で知らなかった)。

そこで、保育園に土地を貸し、生産緑地内に建てることを条件に、さらに30年の優遇措置を認めるというのが著者のアイデアである。そういえば日本でいちばん待機児童数が多い世田谷区は、生産緑地も多い。畑の中にある保育園。なんだか素敵ではないか。

大切なのは、子育てをしている人たちにとって多くの選択肢があることだ。そしてそのための環境をどう整備していくかである。

本書の冒頭、待機児童を抱えて追い詰められた鈴木夫妻が、一時保育やベビーホテルを検討する場面が出てくる。あまり環境が良いとはいえないある施設を見学した後、鈴木氏が「預けてみようか?」と言うと、奥さんが目に涙をいっぱいためて「絶対にイヤ!」と訴える。この場面には胸を衝かれた。どちらの気持ちも痛いほどわかるからだ。鈴木夫妻と同じように、幼い我が子を抱え、切羽詰まった状況に置かれている人が、いまこの時もたくさんいるはずだ。

だがどうかみんな顔をあげてほしい。本書に明らかなように、この問題を解決するための処方箋はもうわかっている。いまや問われるべきは「何を行えばいいか」ではなく、「どう実行すべきか」なのだ。誰もが笑って子育てを振り返ることができる日がそう遠くない未来に来ることを願って。あきらめてはいけない。打つ手はまだ、残されている。

経済学者 日本の最貧困地域に挑む

作者:鈴木 亘
出版社:東洋経済新報社
発売日:2016-10-07
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