おすすめ本レビュー

『知の果てへの旅』 ヒトの知に限界はあるのか?

村上 浩2018年5月22日
知の果てへの旅 (新潮クレスト・ブックス)

作者:マーカス デュ・ソートイ 翻訳:冨永 星
出版社:新潮社
発売日:2018-04-26
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 科学はあらゆる謎を暴き続けている。数万年前の遺物から人類がネアンデルタール人と交配していることを突き止め、山手線ほどの大きさにもなる巨大な実験装置を駆使してヒッグス粒子という極微小な存在を確認し、簡単なオペレーションで体細胞を多能性幹細胞にリプログラミングする方法まで編み出した。

巨人の肩の上に積み上がっていく科学の進展スピードはいや増しており、いつかはどんな難問にも答えを与えてくれるかに感じられる。ところが、謎に答えを出す新たな発見は、多くの場合より深遠な謎をもたらす。この世のあらゆる物質が原子というそれ以上分割できない単位で構成されていることが分かったかと思えば、原子も実はさらに微小な単位に分割可能だと分かったように。

人類はいつかこの世の謎の全てを解き明かすのか、それともいつまでも知ることのできない究極の謎が存在するのか。本書は、過去の科学者たちがどのように未知を既知に変換してきたのかという歴史や、私たちが確かに知っている科学の最前線を紹介しながら、「知がどんなに発展しようと答えられずに終る問いが、果たして存在するのだろうか」という問いに挑んでいく。この本は、そんな知の果てへの旅路をまとめた一冊なのだ。

この問いへの挑戦は容易なものではない。現代の科学はあまりにも細分化し、それぞれの分野が深化しているため、既知の事柄を知ることさえ困難だからだ。この困難な旅路の案内役として、本書の著者であるマーカス・デュ・ソートイ以上の適任者はいない。

オックスフォード大学数学研究所教授であるデュ・ソートイは、『利己的な遺伝子』で知られるリチャード・ドーキンスから「一般への科学啓蒙のためのシモニー教授職」を引き継いだ。シモニー教授職は科学で具体的な成果を挙げた人物のためのものであり、一般の人々の科学理解向上のための活動を行うことが求められる。もちろん、シモニー教授だからと言って著者があらゆる科学分野に精通している訳ではない。デュ・ソートイは知の果てへ至る過程の苦労や戸惑いを隠そうとはしない。オックスフォードで教授を務めるほどの知性でも理解困難な領域が山ほどあるという事実は、最新の科学ニュースに目を白黒させるばかりの私たちを少し安心させてくれる。

知の果てに辿りつくためには、気をつけねばならないことがある。それは、人類のひらめきは、知りえなかったはずのものをある日突然に知りうるものに変える力を持つということだ。1835年にフランスの哲学者オーギュスト・コントは「われわれは金輪際、どんなやり方でも、恒星の化学組成や星の鉱物学的な構造を研究することはできない」と断言したが、今では多くの人が太陽が水素とヘリウムから成り、核融合によって莫大なエネルギーを生み出していることを知っている。著者は、科学の歴史を振り返りながら、技術的不完全さによる未知と原理的な未知の境界線を探っていく。

最初に取り上げられるのは、サイコロが出す目を完全に予測できるだろうかという問いである。この謎に迫るために、著者は先ずサイコロの謎に挑んだ科学者たちの挑戦を振り返る。17世紀半ばにサイコロに魅せられたパスカルとフェルマー等の数学者は確率の技法を確立した。確率の数学はそれ自体が金字塔的偉業ではあるものの、次に出るサイコロの目を教えてはくれない。偉大なるニュートンの運動方程式を用いれば完璧な予測が実現できるかというと、そうではい。ここから話題はポワンカレ、ローレンツのカオス理論やマンデルブロのフラクタルへと展開していく。じっくりと観察すれば、身近なサイコロにも知の最果てが潜んでいる。

サイコロを初めとする物質が何からできているのか、というのは人類が最も長い時間をかけて格闘してきた問いの1つである。古代ギリシャの人々は既に自然を原子論的に捉えた哲学を提案していたが、実験によって「物質がばらばらな原子でできている」ことを裏付け世界が滑らかではないことを示したのは、19世紀のイギリスの科学者ジョン・ドルトンであった。ところが困ったことに、19世紀末に物理学者のJ・J・トムソンが、水素原子の約2000分の1の質量しか持たない粒子を発見してしまった。これ以上は分割できないはずの原子よりも小さな粒子の存在は、いったい何を意味するのか。この世界の最小構成単位を巡る分割の旅路は、その後の中性子やクォークの発見へと繋がっていく。私たちは、最小の存在を知ることができるのか、それとも世界はどこまでも続くマトリョーシカのようになっているのだろうか。

本書では、最も多くの人の頭を混乱させる量子物理学、果てのない無限、意識のハードプロブレムや科学と宗教の関係性などについても深く議論されている。これらの幅広い問題と格闘するために有効な武器となるのが著者の専門とする数学だ。知の果てへの旅路を追えば追うほど、あらゆる場面で活躍する数学の強力さに驚かされる、その美しさにはっとさせられる。そして、著者の数学への愛がひしひしと感じられる。

この本を読み通すのは決して容易ではない。過去の科学者たちや著者のロジックを追うために、何度もページを行きつ戻りつすことになるだろう。しかし、その思考過程が困難なほど、脳みそでかいた汗の量だけ、理解できたときの喜びは大きくなる。素粒子を研究するハーバード大学教授メリッサ・フランクリンは、「ひと押しですべてを知ることができるボタン」があっても決してそのボタンを押さないという。フランクリンは著者との会話の中で以下のように述べる。

わたしたちが科学をやりたがるのは、多分に、概念を最初に思い付きたいからなの。それよりもっと面白いのが、四苦八苦すること。

本書は、間違いなくあなたに心地よい四苦八苦を与えてくれる。

神は妄想である―宗教との決別

作者:リチャード・ドーキンス 翻訳:垂水 雄二
出版社:早川書房
発売日:2007-05-25
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デュ・ソートイの前任者であるドーキンスによる何とも挑発的タイトルの一冊。宗教と闘い続けた影響もあって、デュ・ソートイには宗教に関する質問が多く浴びせられるという。『珍果てへの旅』ではデュ・ソートイが科学についての理解を深める中でいかに”改宗”していったかの過程も描かれている。

反脆弱性[上]――不確実な世界を生き延びる唯一の考え方

作者:ナシーム・ニコラス・タレブ 翻訳:千葉 敏生
出版社:ダイヤモンド社
発売日:2017-06-22
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知りえないが大きな影響をもたらす『ブラック・スワン』をどのように利用すべきか。反脆弱性を身につけるための一冊。レビューはこちら

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

作者:ダグラス・R. ホフスタッター 翻訳:野崎 昭弘
出版社:白揚社
発売日:2005-10-01
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ゲーデルの不完全性定理を軸とした一冊。相当な四苦八苦をもたらしてくれることは間違いない。