ヒトラーと、その右腕ゲッベルス宣伝相が作り出した大衆的熱狂の先には、戦争と破壊、そして未曾有の大量殺戮が待ち受けていた。偏狭な自民族中心主義と極端な反ユダヤ主義、人種差別主義(レイシズム)が第二次世界大戦と結びついて、ヨーロッパを「暗黒の大陸」へと変えたのだ。戦後、世界は解放された各地の強制収容所に累々と積み上げられた犠牲者の屍に絶句し、「二度と繰り返してはならない」と誓ったのである。
それから73年が経過した今、ドイツ、オーストリアを始め世界各地でポピュリズム、排外主義の動きが不穏な高まりを見せている。人権と民主主義を軽んじる政治的指導者が名乗りをあげるなか、あらためてヒトラーの時代を考えることには大きな意味があるだろう。ヒトラーは大衆民主主義の中で台頭し、その弱点を衝いて独裁者となった。庶民の出で、少なくとも30歳までとくに何者でもなかったヒトラーに、言いようのない空恐ろしさを感じるのは、その卑近さのせいかもしれない。私たちとさほど違わない人間が国民大衆を従え、ドイツを、そして世界を破滅の淵へ追いやったのである。
本書は、ヒトラーの時代を知る最後の生き証人、2017年に106歳で亡くなったドイツ人女性ブルンヒルデ・ポムゼルの物語である。ポムゼルは、本書刊行と同時に公開された稀代のドキュメンタリー映画「ゲッベルスと私」の制作にあたり30時間に及ぶインタビューに臨んだ。その記録を編集し、ドイツの著名なジャーナリスト、トーレ・ハンゼンが長文の解説を付して出版したのが、本書の原著Ein Deutsches Leben. Was uns die Geschichte von Goebbels’ Sekretärin für die Gegenwart lehrt, Europa Verlag 2017(『あるドイツ人の一生――ゲッベルスの秘書の語りは現代に何を教えているか』)である。
ポムゼルは、ゲッベルス宣伝相の秘書を務め、ナチ党員でもあったことから、戦後は散々非難されたのであろう。ポムゼルの語りはすべて言い訳のように読める。納得の行くところもあるが、首をかしげる箇所もある。だがその語りに真摯に向き合うことで、あの忌まわしい独裁がいかなる人びとによって支えられていたのか、私たちは推し量ることができるだろう。
ポムゼルの独白を読んで、アドルフ・アイヒマン(1906~1962)のことを思い浮かべた人も少なくないのではないだろうか。アイヒマンはヒムラー配下の親衛隊中佐で、戦時中は国家公安本部第四局B4課長として、ユダヤ人移送計画の立案と執行に深く関わった人物だ。戦後、亡命先のブエノスアイレスでイスラエルの情報機関モサドに捕らえられ、イェルサレムの裁判所で裁かれて絞首刑に処せられた。
公判で、被告アイヒマンはナチ・ドイツによるユダヤ人の絶滅を「人類史上、最も重大な犯罪のひとつ」と認め、自らを「人道的な観点からみれば有罪だ」としながらも、「忠誠の誓いに縛られ」ており、「命令に従って義務を果たす」より他なかった。「心の底では責任があるとは感じていない」と述べた。
そのアイヒマンに「凡庸な悪」という表現を与えたのは、哲学者のハンナ・アーレント(1906~1975)である。悪魔のような恐ろしい人間、剥き出しの反ユダヤ主義者ではなく、ただ命令と法に従って上位に服従したというこの男の姿に、アーレントは誰もが「アイヒマン」になりうると考えた。だが公判での印象に反して、アイヒマンは首尾一貫した冷徹な反ユダヤ主義者であったことが近年の研究で明らかになっている。アイヒマンはヒトラー同様、当初から突撃隊が用いたような直接的暴力によってではなく、法律に則って粛々と「ユダヤ人問題の最終解決」、つまり「ユダヤ人なきドイツ」、ひいては「ユダヤ人なきヨーロッパ」を実現しようとした親衛隊の意思を体現していた。その意味でアイヒマンは、「凡庸」でも「陳腐」でもなく、「アーリア人種至上主義」の立場からヨーロッパの民族秩序を一変しようとしたナチ体制にとって、不可欠の存在であった。
一方、ポムゼルは、世の中の動き、政治にまったく関心のない、むしろ身の回りの事柄にばかり意識が向かう、ごく普通の市民だった。プロイセン的な躾の厳しい家庭で育ち、頭はよかったが、長女として負わされた重荷は相当なものだった。知人のつてで憧れの国営放送局への就職が決まり、そこに10年ほど勤めた後、宣伝省大臣官房への異動を命じられた。つましい庶民の出であることを考えれば、シンデレラガールのような出世だ。
宣伝省は、ヒトラー政権の誕生から二か月余りたった1933年3月、直前に起きたベルリンの国会議事堂炎上事件で世情が騒然とする中、授権法(全権委任法)案の国会での議決を目前にして新設された。同時期の国会選挙で悲願のナチ党単独過半数を果たせなかったヒトラーは、国営放送局の人事に介入し、政権に批判的なジャーナリスト、メディア関係者を追放してこの官庁をつくった。
宣伝省が設置されて、政府宣伝のあり方は一変した。
「宣伝の秘訣は、いかにも宣伝らしくではなく、相手にそうと気づかれないうちに宣伝にどっぷりと浸らせてしまうことだ」――宣伝相就任直後の演説(1933年3月25日)でそう述べたゲッベルスは、ヒトラーが掲げる「民族共同体」の理想を実現すべく、ナチ党が野党時代に培った宣伝技術を、国費を投じてさらに発展させて、国民大衆の精神的動員を主導した。何より重視したのがラジオと映画だが、新聞・出版メディアも駆使して幅広い政府宣伝を展開した。
夥しい映画がゲッベルスの下で制作され、何千万もの人が映画館でそれを観た。娯楽映画が多数を占めたが、反ユダヤ主義を煽る「ユダヤ人ジュース」や、不治の患者に対する安楽死政策を正当化する「私は告発する」など、ゲッベルス肝煎りの宣伝映画には、弱者に対して憐憫の情を抱くことを戒め、「価値なき者」の抹殺を肯定する規範意識、ジェノサイド・メンタリティを育む作品が少なくなかった。ナチ体制下の国家的メガ犯罪に向けて国民の心理的・精神的障壁を取り除くことに寄与したのが、ゲッベルスの宣伝省だったと言えるだろう。
そのような宣伝省にポムゼルは仕えた。アイヒマンのように政策立案にタッチする立場ではなく、上司の口述筆記を主な業務としたポムゼルは、巨大な行政機構を支える歯車の一つに過ぎなかった。
ポムゼルの語りは正直だ。思い違いや主観的に過ぎる話が多々あるにせよ、意図的な虚構はないだろう。大臣官房秘書の給料はよく、同僚にはよい人が多かった。すべてが快適で、居心地がよかった。職業婦人として中央官庁で働くことで自分が少しだけエリートになった気分だった、とも述べている。そして何よりも誇らしく思えたのは、上司の命令、与えられた職務を忠実に遂行し、見てはいけないものは見ない、してはいけないことはしない。その点で上司の信頼を得ていたことである。
ポムゼルの語りには、ナチ時代を生きたドイツ人の多数派が見聞きし、感じたことがストレートに表現されている。強制収容所を、「政府に逆らった人や殴り合いの喧嘩をした人たちを矯正する」ための施設だと思っていたり、ユダヤ人の女友だちエヴァは「強制収容所にいる方が身は安全なのではないか」と考えたり、東方へ移送されたユダヤ人は、ドイツ人が移住して空になった農園などで働けると信じていたりした。
ポムゼルは、ヒトラーについて他愛のないジョークを言っただけで逮捕され、処刑された人がいたと述べている。しかし不法国家に仕えているという自覚はなかった。ひょっとして犯罪者の下で働いているのではないかという疑念も抱かなかった。
映画「ゲッベルスと私」には、ポムゼルの語りと語りの間にゲッベルスの意味深長な言葉とともに、当時の資料映像が数多く挟み込まれている。そこにはポムゼルの独白と真っ向から対立する世界が映し出される。それは、職務に忠実なポムゼルが見ようとも、知ろうともしなかったヒトラー時代の過酷な現実に他ならない。
アーレントは、アイヒマンの「無思想性」を指摘している。自分の頭で考え、思索し、反省する営みを停止させたことが「アイヒマン」を生んだというのである。だが、それはむしろ「ガラスのドーム」の中にいたというポムゼルにこそあてはまるのではないだろうか。ポムゼルは多くを知らなかったし、多くを知りたいとも思わなかった。不用意に知って、良心の呵責に苛まれることを避けようとした。多少の矛盾やおかしなことがあっても、それらを突き詰めて厄介な事態に巻き込まれたくないという思い、一種の防衛機制が働いていたのだろう。そこに思考の停止状態が生じる契機があった。
ヒトラーの時代がまたどこかで、かつてとまったく同じように繰り返されることはないだろう。だが民主主義体制の下でも、主権者である国民が、ポムゼルのように世の中の動きに無頓着で、権力の動きに目を向けず、自分の仕事や出世、身の回りのことばかりに気をとられていれば、為政者は易々と恣意的な政治、自分本位の政治を行うだろう。それに批判的精神を失ったメディアが追随すれば、民主主義はチェックとバランスの機能を失い、果てしなく劣化していく。これは、他でもない現在の日本で起きていることである。
ところで、ポムゼルがヒトラーの時代の記憶をすべて語っているとは思えない。本書には、映画撮影後、亡くなる二か月前にポムゼルがスタッフに語った、ユダヤ人の恋人との別れについての記述がある。カメラを前にしては話せなかったのだろう。それは、ポムゼルというひとりのドイツ人女性の人生を理解するためにはどうしても知らなければならない、余りに切ないエピソードである。
東京大学大学院教授 石田勇治