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『資本主義と闘った男』我々がまだ知らない本当の宇沢弘文とは

堀内 勉2019年6月16日
資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界

作者:佐々木 実
出版社:講談社
発売日:2019-03-29
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私たちはまだ本当の宇沢弘文のことを何も知らない・・・これが本書を読了しての思いである。そして、宇沢とは何者で、どこから来て、どこへ行こうとしていたのか、その全てを詳らかにしてくれるのが本書である。これをきっかけに宇沢の功績の再評価が行われるに違いないと確信させる、経済学の歴史に残る名著である。

「ノーベル経済学賞に最も近かった日本人」であり、「社会的共通資本」(Social Common Capital)の重要性を訴えた思想家である「宇沢弘文」という巨人の全貌を理解するのは至難の業である。その裾野は限りなく広く、その頂きは限りなく高く、私たちを容易には近づけてくれない。

そうした意味で、宇沢は自身が語っているように、ひとりぼっちの孤独な思想家であり社会活動家だった。多くの天才たちが同時代の人々に理解されてこなかったように。そして、その孤高の天才の86年に及ぶ生涯を、大部な640頁の評伝にまとめ上げた著者には、心から敬意を表したい。

数理経済学者として米国で大活躍し、若くしてシカゴ大学の教授にまで上り詰めたにもかかわらず、宇沢はなぜわざわざ助教授として東京大学に戻り、自動車や水俣病といった公害問題や原子力発電問題などに取り組む思想家・活動家へと転じていったのか。本書は、ノーベル経済学賞を受賞したケネス・アロー、ロバート・ソロー、ジョージ・アカロフ、ジョセフ・スティグリッツといった面々を始め、多くの人物へのインタビューをもとにその経緯を明らかにしている。

今の経済社会とその背後にある経済学が抱える閉塞感の根本にあるのは、カール・マルクスの時代から変わらない人間疎外の問題である。これは資本主義対共産主義の闘いに終止符が打たれた今でも変わっていない。むしろ、宇沢がそのどちらにも組みしなかったように、社会の大きな歯車が人間をすり潰していく様は、どちらも同じなのである。

なぜ社会の中心に人間が置かれずに、人間が市場経済という鋳型にはめ込まれなければならないのか。資本主義というシステムの中に、人々が本来の人間性を取り戻して平和に暮らせる仕組みを埋め込むことはできないのか。今、人間が資本主義に試されている。それが、宇沢が抱いていた問題意識であり、強い危機感だった。

「ノーベル経済学賞に最も近かった」というと、ノーベル賞が到達すべき最終ゴールであるかのようなイメージで捉えられがちだが、宇沢は近代経済学が抱えるこうした限界を乗り越えようとしていたのであり、その視線はノーベル経済学賞のはるか向こうを見ていたのである。

学者としての名誉を求めるために、あえて人間の本性を無視して、無理に人間を経済理論の枠組みに当てはめることに血道をあげるのか、或いは人間を活かすための経済学やそれを包含する社会のあり方を真摯に追究するのか、そこに経済学者としての大きな分水嶺がある。

宇沢が唱える社会的共通資本とは、「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」であり、大気、水道、教育、医療など決して市場原理に委ねてはならないもののことである。

市場経済=市場という新古典派経済学や新自由主義が想定する図式に対し、社会的共通資本は市場経済=市場+非市場という図式であり、ここでは市場は非市場の内部にあるとも、また宇沢が言うように「社会的共通資本のネットワーク」という土台の上で市場経済が営まれるとも表現することができる。

こうした社会的共通資本の理論によって宇沢が守ろうとしていたのは、「人間の尊厳」であった。そして、これは、世界の持続可能な発展のために、2015年から国連が提唱しているSDGs(Sustainable Development Goals 持続可能な開発目標)にも通底する重要な概念なのである。

宇沢の社会的共通資本の経済学の根底には、リベラリズム(liberalism)の理念が流れている。但し、宇沢が日本にはリベラリズムに直接対応する言葉がないと言っていたように、これをそのまま日本語訳すると自由主義(liberalism)になってしまう。しかしながら、今で言う自由主義とは、経済的には市場原理に重きを置くネオリベラリズム(neoliberalism)、思想的には個人の自由を追求するリバタリアニズム(libertarianism)のことであり、これは本来のリベラリズムとは全くの別物である。

米国の思想家ジョン・デューイが言うように、「人間は神から与えられた受動的な存在ではなく、一人一人がその置かれた環境に対処して、人間としての本性を発展させようとする知性をもった主体的実体」であるとして、「政治的権力、経済的富、宗教的権威に屈することなく、一人一人が、人間的尊厳を失うことなく、それぞれがもっている先天的、後天的な資質を充分に生かし、夢とアスピレーションとが実現できるような社会」を実現しようというのがリベラリズムである。

これに対して、英国の経済地理学者デヴィッド・ハーヴェイによれば、新自由主義とは「強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する」とする政治・経済理論であり、思想的には、市場での交換を「それ自体が倫理であり、人々のすべての行動を導く能力をもち、これまで抱かれていたすべての倫理的信念に置きかわる」と考えるものである。そして、この新自由主義に理論的な根拠を提供したのが、ミルトン・フリードマンら新古典派の経済学者なのである。

自由主義は市場経済の成立を支えた思想だったが、世界恐慌に見舞われた1930年代、ファシズム、全体主義、共産主義が台頭してくる中で、人間の関係性や社会を無視して個人の自由にだけ重きを置く自由主義は、それらに対抗できる思想的枠組を構築できなかった。そして、その後に登場した政府の役割を重視するケインズ経済学も、こうした自由主義の危機への対応策だったのである。

これに対して、宇沢にとっての重要なテーマは、いかにして経済学に社会的な観点を導入できるかであった。そして、その答えとして導き出されたのが社会的共通資本の理論である。そこでは、資本主義経済が個人の自由だけでは解決しえない問題をひき起こすという前提のもと、社会に内在する問題点を解消するための理想的な制度的条件を探求したソースティン・ヴェブレンの制度派経済学のように、どのように制度的に対応すべきかという視点が加えられている。

只、1980年代の英国のサッチャー政権、米国のレーガン政権以降、新自由主義的な経済学が世界を席巻する中で、宇沢は孤軍奮闘を続けたものの、残念ながらその思想を受け継ぐ者は、ついに日本の経済学界には現れなかった。別の言い方をすれば、日本には新たな時代を切り開く、真の意味での理論経済学者がほとんど育たなかったということになる。

しかしながら、国連のSDGsの記述でも触れたように、2008年のリーマンショックを経て、世界が持続可能な社会の実現に向けて大きく舵を切ろうとしている中で、これから宇沢が再評価されることになるのは間違いないだろう。それほど、今、時代は宇沢を求めているのである。

本書は、以前、HONZで紹介した『宇沢弘文 傑作論文全ファイル』と合わせて読んでもらえれば、なお一層理解が深まると思う。経済の専門家に限らず、一般の方々にも是非とも手に取ってもらいたい一冊である。

宇沢弘文 傑作論文全ファイル

作者:宇沢 弘文
出版社:東洋経済新報社
発売日:2016-10-28
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