おすすめ本レビュー

『海峡に立つ 泥と血の我が半生』生臭い社会を駆け抜けた「フィクサー」の半生

鰐部 祥平2019年11月9日
海峡に立つ:泥と血の我が半生

作者:許 永中
出版社:小学館
発売日:2019-08-28
  • Amazon
  • Amazon Kindle
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • HonyzClub

戦後最大の経済事件といわれる「イトマン事件」で逮捕された許永中が自身の半生を綴った自伝である。

許永中が語る戦後からバブル期までの日本は、現代のような漂白された潔癖な社会ではなく、政、財、官と裏社会が分かちがたく深く結びついた社会である。良しあしは別にして、混沌としながらもエネルギーに満ち溢れ、どこか生臭いにおいのする社会が、つい数十年前までこの国に存在していたのだ。

許永中は大阪市の一角に生まれる。被差別部落と在日朝鮮人部落が混在する町であったという。

父は寡黙で、漢方薬の調剤を生業とする「先生」であり、漢籍を愛読する知識人であった。

父は年に数回、癇癪(かんしゃく)を起こし手がつけられなくなることがある。これは許永中の父に限らず在日朝鮮人の男たちの多くがそうであったようだ。当時は在日朝鮮人への差別があからさまで、貧しさと差別の中で、やるかたない憤怒が蓄積していたのであろう。

そんな境遇で育った許永中だが地頭がよく、学校の成績は優秀であった。しかし、手のつけられない「ごんたくれ(わんぱく)」で、喧嘩に明け暮れる不良少年へと成長していく。大学に進学するも、ここでも喧嘩続きで、次第にヤクザ社会との接点を持っていく。

本書はさまざまな読み方ができる。例えば、ヤクザ社会の歴史書として。許永中が関わったヤクザたちの一部を見るだけでも、彼がヤクザの歴史の生き証人であることがわかる。

「殺しの軍団」と恐れられた柳川組の柳川次郎や幹部たち。明治時代から現代まで続く酒梅組。「経済ヤクザ」のはしりといわれ、後に射殺されることになる生島久次など、そうそうたる顔ぶれだ。

許永中は大学中退後、不良少年たちを集めて、パチプロ集団の頭目になっていたが、時に本職のヤクザを相手に一歩も引かない喧嘩をして名を上げる。その結果、高見組の高見兄弟や生島と友好を結んでいくことになる。

また、戦後の財界、政界の裏面の記録でもある。許永中が師事した人物の1人で「戦後最大級のフィクサー」と呼ばれた大谷貴義の邸宅での体験などには、眩暈を覚える。大谷邸には毎日大勢の政治家、実業家、マスコミ、芸能人、各種団体の長、ヤクザの幹部などが要望を携えて訪れるのだが、来訪した政治家には必ず「お車代」が手渡された。例外なく100万円以上、人によっては300万円、500万円、1000万円が渡されるときもあったという。大谷には初対面のときから腐臭を感じさせる何かがあったと許永中は語る。

問題の「イトマン事件」については、自分はまったくの無実である、という主張を展開する。彼がこの事件でどのような主張をし、それをどう思うかは読者諸氏に譲りたい。

許永中は現在、韓国を拠点としている。生涯の恩人である東邦生命保険元社長の太田清蔵の「日韓のブリッジビルダーになれ」という言葉を胸に、日韓の懸け橋になるべく活動しているのだという。「あと10年は走れる」と語っているので、遠からずその名を再び耳にする日も来るのかもしれない。

※『週刊東洋経済』2019年11月9日号