海賊が跋扈するため、ソマリア沖ではマグロ漁ができなくなっていた。そこで漁をすれば一網打尽、一攫千金だ。しかし、そのためにはロジスティクスも安全も確保しなければならない。巨額の資金による、飛行場付き、傭兵が警護する完全武装の漁業基地建設が始まった。
全米で多くの医師や薬剤師がオンライン薬局での処方薬販売にかかわっていた。違法ぎりぎりの取引に気づいた麻薬捜査官による捜査が始まった。巧妙に操作されたインターネットサイトの裏側で、たったひとつの会社、RX社が巨額の取引を仕切っていた。
腐乱死体を乗せた難破ヨットがトンガの環礁で見つかった。当局が捜査したところ、その船室の壁には末端価格は9000万ドル以上にもなるコカインの塊が隠されていた。
フィリピンのゴミ捨て場で毛布にぐるぐる巻きにされた遺体が見つかった。不動産業者の女性、キャサリン・リー、43歳。死因は目の下に打ち込まれた二発の22口径の弾丸。恐怖心を煽りながらの殺害と断定された。
これらの事件すべては何も脈絡がなさそうに見える。しかし、すべてが天才プログラマーによって指示された出来事なのだ。いくつもの名を持つその男の本名はポール・コールダー・ル・ルー。この人物がいかにして数多くの犯罪に手を染め、一代で暗黒産業を作り上げることができたのか。そして、ル・ルーはいまどうしているのか。ひとりの記者が4年以上にわたって追い続けた。その全記録である。
1972年、南アフリカに生まれたル・ルーは、両親に捨てられ養父母に育てられる。誰が見てもかわいかったル・ルーは、長身でハンサムな少年に成長した。しかし、16歳の時、ポルノ販売で逮捕された。しかし、反省することなく、抜け道を見つけて何が悪いのか、自分は何を売るかなど気にしない、と考えるようになる。ワルモノの目覚めだ。
ル・ルーは、地元の大学のプログラミングコースを受講し、イギリスで仕事を得る。E4Mという暗号化プログラムを作成し、オープンソースプログラムとして公開する。そして、天才プログラマーとしての名声を得る。ちなみに、あのスノーデンが使ったことで有名なトゥルークリプトというプログラムはE4Mを元にしたものである。
2000年代の半ばには、後に違法と断定される、処方薬をネットで販売するRX社を中心としたネットビジネスで年間数千万ドルの利益をあげるようになっていた。それを元手に、バーチャル世界の犯罪者からリアルワールド、といっても暗黒社会だが、の支配者への道を歩み始める。おそらく、もっと金を手っ取り早く稼ぐために。
扱うようになった「商品」の違法性や危険度は、処方薬のネット販売とは比べものにならない。しかし、はるかに金になるものばかりだ。東南アジアでは北朝鮮で作られた純度の高いメタンフェタミンを売りさばき、南米では大規模なコカイン取引をおこなう。ライフルといった武器や爆薬の原料になる硝酸アンモニウムなどの商売相手は、ならず者国家や軍閥、テロリストなど、金がある者なら誰彼なく売りさばく。
こういった通常商品(?)だけではない。巡航ミサイル・トマホークと同じ性能を有するミサイル誘導システムを開発してイランに売りつけようと、20人以上の技術員を雇い入れたこともある。その事業欲はとどまるところを知らず、信頼する部下に勧められたプロジェクトには一千万ドルの資金をポンと出すありさまだった。
そんな事業のひとつが、ソマリアでのマグロ漁業である。失敗に終わったとはいえ、これはまだ理解できる。ある時など、セーシェルの政府を転覆させて国を乗っ取ろうとしたことがあるというのだから、荒唐無稽すぎて訳がわからない。
めったに「会社」の「従業員」たちにも姿を見せないル・ルー。その「ビジネス」の全容は本人以外にはまったくわからなかった。もちろん、その資産はすごい。身が危うくなった時、大慌てで香港のアジトに隠されていた金の延べ棒を換金したことがある。その時、9200万ドルもの送金がおこなわれた。すべての闇資産を合わせればいったいいくらあったのだろう。
ところが、着るものといえばTシャツにビーチサンダル。女には派手に金を使うが、私生活はケチ。ある時、ホテルのランドリーサービスが高いといってその金を出し渋った。シャツ1枚に2ドルを「馬鹿みたいな値段」と怒るル・ルー。偽造されたコンゴの外交官パスポートの写真がこれだ。結構まともに見えるような気がするが、ホントに訳がわからない。
「従業員」には傭兵もいた。いざとなればソマリアに「短期間であれば、72時間以内に500人を派遣することができる」と豪語していたほどだ。中には簡単に人殺しをする者もいた。そんな傭兵を使って、裏切った者、より正確には自分を裏切ったと思いこんだ者だ、を平気で傷つけ、殺そうとした。
そのようにして命を狙われた元側近のクローセンがル・ルーに復讐を決意する。そして、クローセンをおとりにしたル・ルー逮捕プロジェクトが始動した。エサはもちろん麻薬だ。慎重きわまるル・ルーをいかにして出し抜くのか。なるほど、本場の麻薬おとり捜査というのはここまで綿密に仕組まれているのか。手に汗握るサスペンスだ。
そこで話は終わる。という訳ではない。逮捕されたル・ルーはどのような行動をとったのか。裁判で何を証言したのか。そして、これからどうなるのか。それは読んでのお楽しみだ。
作者のラトリフはの綿密な取材対象には、簡単に人を殺すような奴もいた。文字通り命がけだ。なんといってもル・ルーの正体は闇の中だった。ジグソーパズルのような、と言いたいところだが、どう考えてももっと複雑なパズル、ピースがどこに隠されているかすらわからないようなジグソーパズルを着実に解いていったその腕前には舌を巻く。
ル・ルーの犯罪が発覚するきっかけになったのは、麻薬捜査官たちがオンライン薬局の不自然さに気づいたからだ。ラトリフによると、気づくのもう少しが遅れていたら、闇社会に紛れ込んでしまったル・ルーの姿を捉えることができなくなっていた可能性があるという。おとり捜査だけでなく、米国の麻薬犯に対する戦略は信じられないくらいすごい。
フィクションでこんな話を書かれても、あまりに荒唐無稽で誰も信じないだろう。しかし、まごうことなき真実なのである。ル・ルーを題材にしたドラマが、『アベンジャーズ』のルッソ兄弟によってドラマ化されるという。どれだけ面白い作品になるだろう。待ちきれない人は、『The making of a criminal mastermind, The Big Boss: A 21st Century Criminal, Part 1 』と『The fall of a criminal mastermind, The Big Boss: A 21st Century Criminal, Part 2』がオススメだ。ここでは邪悪なル・ルーの姿を拝むことができる。
この本、ル・ルーの犯罪、麻薬捜査、そして、すぐれたノンフィクション取材、三つそれぞれの観点からだけでも十分に楽しむことができる。それが三位一体で啓示されるのだ。いやはや、こんなすごいノンフィクションがありえるとは。これを超弩級ノンフィクションと呼ばずして何をそう呼ぶのか。素晴らしいノンフィクションをありがとう。命懸けで本書をまとめあげたラトリフにお礼を言いたい。
写真は早川書房から提供いただきました。
ソマリアが出てきたら、この本を紹介しない訳にはいきますまい。拙レビューはこちらです。
ル・ルーのアジトから大急ぎで持ち出された金塊が運ばれた先は、あの香港の魔窟・重慶大厦(チョンキンマンション)でありました。チョンキンマンションのボスとル・ルーは住む世界が違いすぎる感じがするけど、レビューした本と関係する場所が出てくると微妙にうれしい。栗下直也のレビューはこちら。
ついでと言えば何ですが、名前を出したので、これも。「なるほどこういう人がこういう動機で行動したのか、偉いやん。」というのが、ワンセンテンス読書感想文。