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『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』歴史の進歩とは何か

堀内 勉2019年12月12日
この国の不寛容の果てに:相模原事件と私たちの時代

作者:雨宮 処凛
出版社:大月書店
発売日:2019-09-16
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本書は、2016年に「津久井やまゆり園」で障害者19人が殺害された相模原障害者施設殺傷事件*をきっかけに行われた、作家の雨宮処凛と以下の6人の識者との対談を一冊にまとめたものである。

①神戸金史(RKB毎日放送記者)
②熊谷晋一郎(東京大学先端科学技術センター准教授、小児科医)
③岩永直子(BuzzFeed Japan記者)
④杉田俊介(批評家、元障害者ヘルパー)
⑤森川すいめい(精神科医)
⑥向谷地生良(浦河べてるの家ソーシャルワーカー)

中でも、浦河べてるの家の向谷地生良との対談と、彼が北海道で実践している「当事者研究**」の部分は非常に印象深いものであった。

この殺傷事件の犯人の植松聖(当時26歳)は、かつてこの障害者施設で働いていた。そこでの経験から、障害者は生きていても仕方がないとの思いに至り、逼迫する国家財政を助けるため、そして世界経済の活性化のためにという思い込みで犯行に及んだ。

そして、本件の刑事裁判が進行中の現在に至るまで、未だ植松の口から被害者に対する謝罪の言葉は聞かれていない。

本書を一貫するキーワードは「優生思想」である。これは、身体的・精神的に秀でた能力を有する者の遺伝子を保護し、逆に能力的に劣っている者を排除して優秀な人類を遺そうという思想で、特にナチスがユダヤ人差別や障害者差別を正当化するのに使われた。

我が国でも、「優生上の見地から、不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命・健康を保護することを目的とする」旧優生保護法(1948~1996年)のもとで障害者の強制不妊手術が行われてきた。

この優生思想が今、亡霊のように蘇ってきており、その大きな転換点が、この殺傷事件だったのではないかというのが、本書が投げかける大きな問いである。

本書に何度となく出てくる、我々の心の「内なる優生思想」を克服しようとしてきたのが人類の歴史であり進歩だとすれば、「日本は少子高齢化で社会保障の財源がないんだから、ある程度〝命の選別〟をするのは仕方ない」などという「剝き出しの本音」がなぜ今になって表出しているのか。

実際、この事件後、インターネット上には「実際に手を下した植松は許されないが、そう考えるのも理解できなくはない」といった反応が少なからずあったという。

その後も、2018年に『新潮45』誌上で自民党の杉田水脈議員が、LGBTには生産性がないという論考を載せるなど、差別的な発言を確信犯で行う公人も後を絶たない。

このような現状は、「人間は平等だ」「命はかけがえのないものだ」といった単なる言葉だけではもはや抑えきれない、どす黒い闇を抱えているように思う。

こうした今の日本の状況を、著者の雨宮処凛は以下のように記述している。

「私は「失われた」と言われるこの20年を一言で表現するなら、「金に余裕がなくなると心にも余裕がなくなるという身も蓋もない事実を、みんなで証明し続けた20年」だと思っている。社会から寛容さは消え、ゼロトレランス(非寛容)が幅をきかせるなかで、「自己責任」という言葉はもはや、この国の国是のようになっている。貧困も自己責任。過労死や過労自殺も自己責任。病気になるのも自己責任。・・・軽くあつかわれているのは障害者の命だけではない。「健常者」だって過労死するまで働かされ、心を病むまでこき使われ、いらなくなったら使い捨てられる。・・・過酷なサバイバルに勝ち抜かないと、生き残れない。誰かを蹴落とし続けないとリアルに死ぬ。この20年くらい、そんな危機感に多くの人が追い立てられている。・・・障害があろうとなかろうと、いまの世の中には「このままの自分」でいることが「罪」とされるような空気が満ちている。常に上をめざすべきだとか、いまの自分に満足しているようじゃ向上心が足りないとか。そうしてみんな、「ありのままの自分」を好きになれずに苦しんでいる。」

確かに、日本社会の「貧すれば鈍す」は日々加速しているように感じる。

歴史の進歩とは何なのか。一体我々は何のために生きているのか。この世は所詮「勝てば官軍」のサバイバルゲームなのか。

この問題を考える上で重要な示唆を与えてくれるのが、哲学者である市井三郎の『歴史の進歩とはなにか』の以下の文章である。

「人間歴史の「進歩」とは何であったのだろうか。まさに西欧近代は、人間歴史の「進歩」が必然である、という強い信仰を生んだのである。十八世紀いらい、その信仰を根拠づけようとする著述は、数多く書かれてきたではないか。にもかかわらず、進歩の理念それじたいが、まさに懐疑にさらされているのが現代の 特徴なのだ。・・・”不条理な”苦痛──つまり各人が、自分の責任を問われる必要のないことから負わされる苦痛──を減らさねばならない、という価値理念は、西洋近代の果てに西洋思想がゆきついた実存的”不条理性”の概念を、一面でより明らかにしたつもりである。・・・とまれ歴史は、理念の変革によってだけ動くものではない。だから人類の未来史が、わたしのいう理念を実現する方向へ、かならず”進歩”するなどといっているのではない。パラドックスをよりよく超克した理念に眼覚めて、人間が新しい歴史創造への努力をするとすれば、ようやく人類の歴史は、”進歩”へ近づく可能性をつかむだろう。」

つまり、歴史の進歩とは、自らの責任を問われる必要のないことで負わされる「不条理な苦痛」を減らすこと、例えば生まれながらの貧困、ある国や人種に生まれたというだけで差別されるといった圧倒的な不条理を制度的に克服し、人々を言われのない苦しみから解放すること、そしてそうした不断の努力を続けることなのではないか。

我々が歴史を学ばなければならない意味も、またそこにあるのだと思う。

*相模原障害者施設殺傷事件は、2016年 7月26日未明、神奈川県相模原市緑区千木良にある神奈川県立の障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で発生した、刃物による殺傷事件。同日中に19人の死亡が確認され、26人が重軽傷を負っている。

被疑者の植松聖は同施設の元職員で、2012年12月から2016年2月まで勤務していた。2016年2月半ばに衆議院議長公邸を訪れ、大島理森議長に宛てた犯行予告とも取れる内容の手紙を職員に手渡しており、供述によれば、2月に首相宛の手紙を自由民主党本部にも持参している。被疑者は高校時代から障害者に対する差別発言を繰り返しており、取り調べの中で、「突然のお別れをさせるようになってしまって遺族の方には心から謝罪したい」と遺族への謝罪の言葉を口にしたが、一方で被害者への謝罪は行っておらず、障害者のことを「税金の無駄」とするなど、強い偏見を見せている。

神奈川県警察は、被害者の名前について、「施設にはさまざまな障害を抱えた方が入所しており、被害者の家族が公表しないでほしいとの思いを持っている」として、公表しない方針を明らかにしている。また、被害者の家族の一人は公表しない理由を、「日本では、全ての命はその存在だけで価値があるという考え方が特異であり、優生思想が根強いため」と説明している。

** 当事者研究は、北海道浦河町にあるべてるの家と浦河赤十字病院精神科ではじまった、主に精神障害当事者やその家族を対象としたアセスメントとリハビリテーションのプログラムであり、その構造はSST、認知行動療法、心理教育、ストレス脆弱性モデル、ストレングスモデル、ナラティブアプローチ、スキゾフレニクスアノニマスなどを基礎としていると批評されている。一方で、その主体はあくまで「当事者」であり、「研究」に軸があるため、専門家や医療者による支援アプローチとは一線を画しているともされている。主に、北海道医療大学教授の向谷地生良が、研究・実践している。浦河では、べてるの家やひがし町診療所(精神科)のデイケアなどで行われている。(Wikipediaより抜粋)