年末、HONZメンバーの栗下直也から急なメッセージが飛んできた。
「新しい本を書きまして… ちなみに、酒の話は一切出てきません」
え、栗下さんから酒をとったら…(以下略)という気持ちに若干なりつつ、届いた包みを開けてみると出てきたタイトルが『得する、徳。』。
意外すぎるテーマに驚いた一方で、ちょっと啓発本っぽいタイトルに、天邪鬼な私は、少しあとずさってしまったのが実際のところ。でも、開いてみて、納得した。そうだ、栗下さん、経済記者だった。(HONZの飲みの場でしかご一緒したことがないので、忘れがち…。)
仕事柄、大企業から中小企業まで、様々な経営者を取材してきた栗下さん。中には、対話の重要性を口では説きながら、社員に不当に怒鳴り散らす人や、「子曰く…」をオフィスのあちこちに飾りながら、初対面で「おまえ」呼ばわりしてくる人もいたり、ロシアンパブに連れて行きながら、「やっぱり世の中の役に立たないとね、徳だよ、徳」と力説してくる人もいたという。
「徳って何?徳を積めば成功できるの?どうやったら徳を積めるの?」
そんな、栗下さん自身が感じてきたモヤモヤの思考の旅路を、一緒にたどれるのが本書だ。…といっても、栗下さんが取材してきた「不思議な経営者たち談」が書かれているわけではない。(それをやったら名誉毀損で訴訟とかになりそう…。)誰もが「人徳者」として納得しそうな著名人たちのエピソードと、近代の様々な研究結果などを交えながら、「徳」についてあれやこれやと考えていく一冊だ。
そもそも「徳のある人」と言われてどんな人が思い浮かぶだろう?「社会のため」に献身している人?自分より他人を優先する人…?いずれにしても、どこか自分を犠牲にしてでも「他」のために行動するような人が思い浮かぶかもしれない。
だが、スタンフォード大学経営大学院のフランク・フリン教授の研究によると、ある企業のエンジニア同士の関係性を検証したところ、もっとも生産性が低いエンジニアは自己犠牲の精神が強い人たちだったという。「人望が厚い人」となって出世するか、「お人好し」として利用されるかは紙一重かもしれない。
利他と滅私は、近いようで異なる。ではその違いとは何なのか?
「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」という名言を遺した二宮尊徳。真っ先に思い浮かぶのは、薪を背負って本を読んでいる像であろう。苦学をして一家を再興させただけでなく、約600の村を独自の農村改良策で再建した二宮。だが、「一汁一菜と木綿着物さえあえればいい。それ以上の財産をもつことは精神を披露させる」と言い切り、多くの報酬は望まなかったという。
むしろ彼は、「人間にとって最大の報酬は心がウキウキするかであり、それは仕事そのものを通じて得られる喜びだ」と考えていた。農村を再興させるという一見「利他的」な仕事を、創造できる喜びや達成感を得られる「利己的」なものだと思っていたようだ。
実際、心理学者や進化生物学者の研究でも、義務感や責務からではなくて、自主的な選択や達成感に基づいていれば、人に力を貸すことで、逆に活力を得られることが多い、とも指摘されている。
私は仕事で社会問題(環境問題や戦争紛争など)をテーマにした映画やイベントに関わることが多いのだが、その「応援」をしてくれる人たちも、この指摘が当てはまるように感じることは少なくない。情報拡散やイベント参加などの協力をすることで、その社会問題に対してわずかなりとも自分ができるアクションを起こしていると思えることに、きっと自分なりの満足感を得ているのではないかと思うのだ。
逆に、利他的に見せているものの裏にある利己性について、もっと考えたほうがいいのでは?と思う場面もある。例えば、近年「SDGs」が取りざたされ、「当社は何番目のこれに当てはまるこんな活動をしています…」と標榜している企業も多い。しかし、過去からやっている取り組みの見せ方を変えただけという企業も多かったり、中身の意識がともなわないパフォーマンスだという批判も少なくない。
寄付行為などもそうだろう。助け合う気持ちや行動はとても大事である一方で、「〇〇のために何かをやった」と満足してしまうと、それ以降の思考や行動が停止してしまう。利他的な行為をした時にこそ、「これは自分のため!利己的なこと!!」と自分に言い聞かせることも、ときには大切なのではないだろうか。
…おっと、栗下さんの本に触発されて、持論に流れてしまった…。本書に話を戻そう。
さて、二宮尊徳のように、利他的なことさえも利己的と考える精神こそ、「徳が高く」、もっとハードルが高いと感じた人もいるかもしれない。
では、江戸時代前期の商人・淀屋常安はどうだろう?「利他的に振る舞うことで出世を遂げた人物」として、あの出口治明さんからも言及されている常安。彼の有名な行動のひとつが、徳川家康と豊臣秀吉とが戦をすることになった時、家康の本陣を全部無料で建てると提案した、という話だ。それだけではない。常安は加えて、「合戦が終わったら、遺体処理もさせて欲しい」と頼んだのだ。かつては豊臣側についていた常安を、家康も最初は訝しんだものの、あまりの好条件の提案に承諾。そして合戦後。常安は遺体から鎧や刀剣などの武具・馬具を回収して転売し、莫大な富を得たという。
さて、これは「徳の高い」行為だろうか?もしかしたら首をかしげる人もいるかもしれない。常安は、完全にボランティア精神で、寄付や嫌がられる仕事を買って出たわけではなく、ある程度、その後のリターンを計算していたはずだ。だが、得をする確証はないなかで、「損をすること」を自ら選択し、みんなが嫌がることを引き受けたことは、利他的とも言えないだろうか?
少しずつ、利己と利他、そして「徳」というものが、曖昧になってきたのではないだろうか?だが、本書はさらにあなたの頭と心を乱してくるに違いない。
近年、増加しているように感じる、「他者への思いやり<自己責任論」なコミュニケーションや、「ずるい」と妬む感情から他者の利益を奪うような行為、そして、スコアやポイントによって外発的に動機付けされる「徳」についてなども、本書はどんどん切り込んでいく。
読み終えるときには「徳」に明確な定義や正解などないことを、きっと痛感しているだろう。ただ、それについてあれやこれやと、ひとりひとりが考え続け、深めていくことでこそ、「徳」というものは磨かれるのではないかと思う。
酔いどれ栗下さんが綴る「上から目線」ではない「徳」だからこそ、天邪鬼な人でも、きっと素直な気持ちで読み進められるはずだ。