おすすめ本レビュー

枕、本題、オチの奥深さ 『ビジネスエリートがなぜか身につけている 教養としての落語』

吉村 博光2020年3月9日
ビジネスエリートがなぜか身につけている 教養としての落語

作者:立川談慶
出版社:サンマーク出版
発売日:2020-01-07
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オギャーと産まれ、人は学校や家庭や世の中などから色々なことを学んでいきます。若いってことは美しいもので「君たちはどう生きるか」なんてことを懸命に考えながら、成長していきます。それはまるで、地球に就職しているような時期です。

やがて企業に就職すると、視野は一気に狭くなり、経済的な価値が頭の中心を占めるようになります。そんな時期を長らく過ごして定年退職すると、ほんの少しのあいだ地球に再就職し地域貢献などをして、最終的には文字通り土に還っていくわけです。

でも最近はすっかり定年後の期間が長くなり、新しい生き方を模索するようになりました。これがいま流行の「LIFE SHIFT」です。しかしながら、生い先はさほど長くないわけですから、経済的な成功を求めるという生き方はしっくりきません。宵越しの銭がある、という安心感さえあれば良いのです。

そろそろ、本題に入りましょう。この本は、一流大学を出て大手企業に就職、その後落語家になった著者が書いた落語の入門書です。この本を読むまで私と落語のつきあいは、時々人に誘われて寄席にいき、その場で笑って「はい、それまでよ」というものでした。

外国の方と接する機会も多かったので、「教養として知っておこう」と時には関連書を読んだこともありました。そんな断片的な知識が、本書を読んで見事に整理されました。そして、猛烈に興味が湧いてきたのです。例えばまず、落語の世界観に惹かれました。本書の冒頭から引用します。

落語には“どうしようもない人”ばかりが登場します。(中略)スキあらばタダ酒にありつこうとしたり。片思いや横恋慕に悩んでばかりいたり。お金もないのに見栄っ張りだったり……。言うなれば「成功していない人」「ダメな人」「イケてない人」のオンパレードなのです。  ~本書「はじめに」より

著者の師匠である立川談志は「落語とは人間の業の肯定だ」と言っていたそうです。部下に注意するのに自分はペンを持ったまま眠り込む上司、子供の無駄遣いを叱りつつ自分はギャンブルに現を抜かす父親……人間が“どうしようもない”業をかかえているのは、間違いないことでしょう。

肩の荷を軽くする笑いの背景にこのような世界観があるのがわかると、私はもっと落語を聴きたくなりました。正義を振りかざして誰かを袋叩きにする現代の風潮に、疲れを感じているからかもしれません。この世界観に続いて、落語の基本構成について、本書から引用します。

まず「枕」でお客さんの緊張を解いて、「本題」である「噺」をじっくり聞かせ、物語の結末である「オチ」で感動させたり、笑わせたりする。落語とは、このような一連の「型」で成り立っているのである。  ~本書第2章「噺の構造と落語家の出世」より

落語の流れは「枕」「本題」「オチ」の順。このレビューもこの構成に倣って書きました。それ自体は自己満足に過ぎませんが、人間の業(煩悩=タダ酒)を笑い飛ばして厳しい状況を乗り切ろう、という落語の精神を少し学ぶことができたように思います。

「枕」は、時代背景を説明しつつお客さんの反応を探ったり、オチへの伏線をはったりするもの。そこで、落語家の実力がわかるそうです。また、オチには、考えオチ、逆さオチ、ぶっつけオチ、間抜けオチなどいくつもの種類があるそうです。芸の奥深さを感じました。

そんな説明を読みながら見直すと、本書の書名が落語そのもののように思えてきました。「みんなバカだなぁ」と笑うのが落語なのに、「なぜか」賢いはずのビジネスエリートにとって必要な教養となっているというのです。オチがついているような気がしませんか。

そして実際に、ビジネス書として売れ行きが伸び版を重ねている、というから面白いものです。いずれ、経済人や政治家の皆様が落語の精神をとり入れたら、江戸時代のようなサステナブルな世の中になるかもしれないなどと、思わず夢想してしまいました。

さて、私が最初に感じた落語の壁が「古典落語」と「新作落語」の違いでした。「芝浜」や「時そば」などオチがわかっている古典落語を様々な落語家が演じる、というスタイルそのものも理解できませんでした。それについて、本書に大変わかりやすい説明がありました。

音楽にたとえるなら、現代で演じられている新作落語は「オリジナルソング」古典落語は「カバー曲」といえるでしょう。ただし、現代の日本で、「落語」と表現する際、たいていは「古典落語」のことを指します。  ~本書第1章「これだけ知っていれば間違いない落語の「いろは」」より

本書では、教養として知っておきたい5つの「古典落語」について、詳しく紹介されています。話の筋だけでなく、どこに面白さがあるのか、名人がどう演じたかなどについても触れられているため、読み応えがあります。読後、ノドに刺さった魚の骨がとれたような感じがしました。

落語の楽しさを伝えるためにも、5つのうち1つだけでもここで紹介したいと思いましたが、限られた文字数でお伝えするのには無理がありました。でも本書の巻末にはYoutubeで見られる落語の名演が複数紹介されていますので、気持ちよく落語沼に落ちたい方は是非そちらをご覧ください。

いよいよ、このレビューも終わりにさしかかってまいりました。それにしても、この春、定年を迎えられる方々は、まことに残念でございます。宴会の自粛によって、本来なら開催されていたはずの送別会が次々と中止になったと思われるからです。

バブル崩壊後に社会に出た我々アラフィフ世代は「10年早く産まれたかったなぁ」などと入社当時にはボヤいていたものです。いつ産まれるかなんて誰も選べないんですけどね。でも、もしかしたら先輩方も今頃は、タダ酒が飲めない恨みをこんな言葉で晴らしているのかもしれません。

「こんなことなら、あと1年早く産まれときゃ良かった」