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『まどわされない思考 非論理的な社会を批判的思考で生き抜くために』陰謀論や疑似科学のあやしげな論理を見抜く

西野 智紀2020年6月29日
まどわされない思考 非論理的な社会を批判的思考で生き抜くために The Irrational Ape

作者:デヴィッド・ロバート・グライムス
出版社:KADOKAWA
発売日:2020-03-28
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著者の紹介から始めたい。デヴィッド・ロバート・グライムスは1985年アイルランド生まれの物理学者・ガン研究者で、BBCとアイルランド放送協会でコメンテーターとして活躍する傍ら、ガーディアン紙やアイリッシュ・タイムズ等で記事を執筆する科学ジャーナリストでもある。世論を正しい方向に導いた功績として2014年にジョン・マドックス賞を受賞した経歴も持つ、まさしく気鋭の科学者である。

彼が戦ってきたのは主に疑似科学、反科学、陰謀論だ。マドックス賞の受賞理由も、反HPVワクチン、気候変動否定論、反原子力といった運動の誤りを科学的かつ精力的に指摘したためである。本書は、著者が目撃してきた非合理的な考えにハマらないための論理的な思考法を、世界中のありとあらゆる実例とともに示した一冊だ。6部構成で22章、450ページとなかなかのボリュームで、筆鋒も鋭く、この問題に対する彼の熱量が十二分に伝わってくる。

そんなわけで本書が言及する事象は膨大なため、ここでは思考ミスの根本的原因である「論理の誤謬」の紹介にとどめる。

手始めに陰謀論。世の中には様々な陰謀論があるが、そのほとんどに「後件肯定」という形式的誤謬が用いられる。下に例示しよう。

前提1 陰謀工作があった場合、公式声明は我々の見解を否定するだろう。
前提2 公式声明は我々の主張を誤りだと証明した。
結論   したがって、隠蔽工作があった。

ぱっと見、筋が通っているように感じるが、前提2は前提1の後件「公式声明は我々の見解を否定するだろう」を肯定していても、前件「陰謀工作があった場合」を導くことはできず、無効な論証となる。だが、表面的には正しいような印象をつくれるため非常に多用される。

こうした陰謀論の典型例として、9.11アメリカ同時多発テロがある。煙が収まる前から囁かれだした流言は、インターネットを中心に大流行し、「公式の説明は信用できない」ことを共通事項として発展、トゥルーサー運動と呼ばれるようになった。ツインタワー崩壊は政府による計画的な爆破だ、もしくはモサドの仕業だ、真実は隠蔽されている、云々。数多くの機関や専門家がどんなに彼らの主張を否定してもこの運動は衰えを見せず、現在でもアメリカ人の15%が内部の者による工作だと考えているという。

著者は福祉関係や社会奉仕の現場で何度も陰謀論とぶつかってきた。製薬会社は癌の治療法を知りながら隠している。気候変動は科学者のでっち上げだ。ワクチン接種は政府の策略である……。「あれは工作だから」と繰り返せば自分の信念は守られるから、うんざりするくらい使われる。

ちなみに、著者はシンプルな数学モデルを用いて、陰謀論者が言うような大規模な集団詐欺が可能か調査したが、仮に陰謀が図られたとしても、それを長期間隠し続けるのは関係者の数からして限りなくゼロに近いという結論だった。誹謗中傷に屈せずデマを正し続ける科学者たちには本当に頭が下がる思いがする。

また、頻繁に見られる誤謬として、「選言肯定の誤謬」がある。「君が間違っているか私が間違っている。 → 君は間違っている。 → したがって、私が正しい。」この例では、両者とも完全に間違っている場合があるため論が成り立たないし、実際に相手の主張が矛盾していたとしても、自動的に自分の立場が正しいと証明されたことにはならない。これが過激化すると、他人の道徳的欠陥や人格を攻撃すれば自分の立場が神聖化できると思い込みやすくなる。政治の世界ではイデオロギーの左右関係なく常套手段である。

エビデンスより自分のイデオロギーを優先しているとますます誤謬にすがるようになっていく。たとえば雑多にあるデータから自分に都合の良いものだけを選んであとは無視する「チェリーピッキング」。複雑に絡み合った現実や人生の不規則性への理解を面倒くさがって単純な物語に落とし込もうとする「単一原因の誤謬」。この単純化がエスカレートすると、自分に与する者は味方、そうでない者はすべて敵という「誤った二分法」に陥り、扇動的政治家や運動家、疑似科学のカモになってしまう。

こうした論理ミスを避けていくのが最善……なわけだが、人間の脳はどれだけ優れた能力を有していたとしても、完璧な機械ではない。すでに自分自身が大きな誤りを犯しているかもしれない。大量の情報にアクセスできる現代社会で常に分析的思考でいるのも体力が要る。疑ってかかるのが大事とはいえ、無闇やたらに懐疑論を振りかざすのも正しい態度とは言えない。こうした点へのアンサーとして、著者はこう述べる。

思考が人そのものではない。思考は間違うことがある。新しい情報に応じて考えを変えるのは恥ずべきことではない。それどころか、称賛に値する態度だ。エビデンスが求めているのに、考え方を変えようとしないことこそが恥なのである。また、証拠が見つからないときに慌てて意見を述べる圧力を感じる必要もない。急いでつくられた見解は間違っていることが多く、しかも修正されにくい。結論を急がない態度は恥でも臆病でもない。不確かなままでいるのは落ち着かないことではあるが、じっと我慢しよう。

ただ、本書もいくらか批判的思考で読めなくはない。一例を挙げると、著者はインターネットならびにSNSが確証バイアスとエコーチャンバーを深刻化させているとしてしきりに警鐘を鳴らしているが、では従来のメディア全盛時にそうした混迷がなかったかといえばそんなことはないだろう。たしかに、年を追うごとに先鋭化した意見やあやしげな論理を見かけることは増えた。が、エコーチャンバー化した集団がどのように破綻したロジックにしがみついているか、一般人でも見分けられる材料が与えられているだけでもSNSは価値があるのではないか、と思うのだ。

ともあれ、今は全世界がコロナ禍に見舞われている最中である。ニュースサイトやSNSでは連日のように不安を覚える言葉が並び、終息の日も未だ見えない。陰謀論やデマが蔓延るには格好の舞台だ。これらにまどわされず過ごしたいと考えるのであれば、本書は必ずやなにがしかの指針と防衛策をもたらしてくれるだろう。他人の思考を変えるのはほぼ不可能――しかし、おのれを省みて判断力を磨くことはできる。

そして、この災禍を著者はどんなふうに見ているか、いずれ読んでみたいものである。