言語はいつ生まれたのか。
この問いに何万何千年前のある瞬間──というわかりやすい答えがあるわけではない。そのうえ、音声記録など残っているはずもないから、遺跡や痕跡からその地点を確定させることも難しい。いまだに、人類史のどのタイミングで言語が生まれたのか、そこではどのような言語を使ったのか、様々な説があり、確かにこうだ! といえることはあまり多くはない。
ただ、人体の構造や残された痕跡から、ある程度の推測をすることができる。本書は、特殊な言語を持つ少数部族である「ピダハン」への研究を行った成果をまとめた『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(みすず書房)で日本でも名が(一部で)知られるようになった、ダニエル・L・エヴェレットによる、「人間がいかに言語を発明したのか」、そして、一度発明された言語がどのように変化していったのか、その進化史を明らかにしていく物語である。
『ピダハン』でみせたように、難解な内容を自身の調査体験をはじめとした様々なエピソードトークで軽快に伝えてくれる。そんな著者の言語の起源についての見解は、100万年以上前から存在していたホモ・エレクトゥスにある。言語はそこで完璧な状態で生まれたわけではなく、約6万世代にわたって、ホモ属の人体構造上と文化の変遷に伴ってその形を変えてきたとする。
そういう意味で、本書のヒーローはホモ・エレクトゥスだ。この直立する人類は、地球にそれまで誕生した生物の中で最も知的な存在だったし、言語と文化の先駆者にして、人類による大移動と冒険の草分けでもあった。
ホモ・エレクトゥスが我々と同じように喋っていたかどうかと言うと、それは定かではない。単語のみを発していたかもしれないし、ある程度文法のようなものを備えていた可能性もあるが、発声器官や神経生理の限界からみるに、その可能性は高くなさそうである。ただ、シンボル(象徴)を扱う能力は確かに存在していたし、それらはジェスチャーやイントネーションと相まって、原初的な「言語」になっていたはずだ、とエヴェレットは指摘する。
おもしろいのが、エヴェレットはこうした言語を、比喩的な意味ではなく、人類が「発明した」と表現することである。『つまり人類のコミュニティは、何もないところから、シンボル、文法、言語を創造したのである。』これは、言語はチョムスキーのいうような人間という生き物に備わっている生得的なものではなく、人間が創造した文化に立脚し、歴史の中で形を変えながら発展してきたものであることを強調していて、本書には随所でチョムスキーへの反論・否定がみられる。『各種エビデンスは、人類が「突然の跳躍」によって独自の言語的特徴を得たわけではかったこと、現代人類に先行する種(ホモ属、あるいはそれ以前のアウストラロピテクス属に分類されるもの)がゆっくりと着実に発展して言語を手に入れたことを示している。』
最初期に言語を扱ったと著者がみなしているホモ・エレクトゥスは、初めて恒常的に直立したヒト属であり、ネアンデルタール人とサピエンス両方の祖先であるとされている。
エレクトゥスは190万年前にはおそらく言語を発明する途上にあったと本書ではされているが、最初に書いたようにその根拠は明確なものではない。装飾や石器などの高度な道具を使っていて、動物にはまれな継続的なつがい形成に適応していたなど、エレクトゥスに「文化」が存在していた形跡があることからの推測になる。今の言語には、段階的な変化を重ねて至ったと考えられており、考古学的な証拠に照らすと、最初はインデックス(指標記号)、次にアイコン(類像記号)、それからシンボル(象徴記号)へ、という流れが受け入れられているようだ。
エレクトゥスが持っていたとされる「文化」は、単純に道具を使った狩りの仕方を教える、といった技術継承のことをさすわけでなく、「人や創造物に価値、知識構造、社会的役割を付与するもの」で、つまり「シンボル(象徴)」を使いこなす能力を持っていたことをさしている。なので、エレクトゥスが言語を持っていたという主張につながるわけだ。
これまでに得られている証拠は、ホモ・エレクトゥスが言語を有したという主張を強固に支持する。文化の証拠──価値、知識構造、社会組織があり、(ホモ・サピエンスと比べればゆっくりではあるが)道具使用と道具の改良があり、目に見える範囲を超えた、想像できる陸地や海への探検があり、さらに、装飾や道具の形でのシンボルがある。ホモ・エレクトゥスの認知革命を説明できるのは言語だけだ。
本書の凄さは、こうした歴史・人類学的な観点からの言語だけでなく、手話やジェスチャー、脳科学と神経科学に、発声器官からの考察、さらには言語が影響を受ける「文化」や「社会」と言葉の対応関係についてまで、言語に関わる多面的な視点からその進化史を浮かび上がらせているところだ。そうしたすべてが相互発展的に言語を変化させてきたとして、文法が最初にあり、言語は人間に生得的なものであるとするチョムスキー的な考えに対する批判に向かっている。
たとえば、脳科学で言えば、人間の脳が言語用に配線されている説が科学による裏付けは存在しないという話や、脳の特定部位に傷害をおうことで失語症などの言語に関連した機能が失われることがあるが、これもより高次の部分が損傷したことによって結果的に言語に影響が出ているだけで、一対一で脳と言語に対応関係があるわけではないなどなど。あまりにも頻繁にチョムスキーに対する批判が繰り返されるので「わかった、それはもうわかったから」とウンザリさせられるところもあるのだが、文法を軽視しているわけでもなく(全然別問題だ)、一章かけて文法がいかにして生まれて、発展してきたのかもまとめてみせる。
400ページ超えの大著だが、その分広範な見地から我々が扱う言語がいつ生まれ、どのようにして今のような形に変遷してきたのか、その見取り図を提供してくれる。なかなかここまでの本は出るもんじゃないので、言語について興味がある人や『ピダハン』がおもしろかったひとには、ぜひ手にとってもらいたい。