おすすめ本レビュー

『剱岳—線の記』古代日本のファーストクライマーを探せ!

首藤 淳哉2020年10月5日
剱岳 線の記 平安時代の初登頂ミステリーに挑む

作者:髙橋 大輔
出版社:朝日新聞出版
発売日:2020-08-07
  • Amazon
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • HonyzClub

新田次郎の『劒岳〈点の記〉』は、日露戦争直後の1907(明治40)年、前人未到とされ、また決して登ってはいけない山と恐れられていた北アルプスの剱岳(標高2999m)の登頂に挑んだ測量官を描いた山岳小説の傑作である。

物語は、設立間もない日本山岳会との初登頂争いの形をとりながら進んで行く。
実際はこの登攀争いはフィクションらしいのだが、剱岳が当時、未踏峰とされていたのは事実だ。そして、日本陸軍参謀本部陸地測量部の柴崎芳太郎率いる測量隊が命がけの登頂に臨み、見事成功した。

ところが、彼らはそこで信じがたいものを目撃した。
山頂で彼らは、古代(奈良〜平安時代)の仏具を発見したのだ。
置かれていたのは、錫杖頭と鉄剣だった。錫杖頭とは、杖の頭部につける金属製の仏具である。振ると円環が触れ合って音が出る。山中で修行する山伏が携行しているものだ。柴崎隊よりもはるか昔に、剱岳の山頂にたどり着いていた者がいたのだ!

当時、柴崎隊はあらゆる登攀ルートを検討した上で、最終的に剱岳東部の長次郎谷雪渓に金かんじきをつけて登るという方法を選んだ。古代の日本に金かんじきなどない。しかも剱岳はロッククライミングの道具がないと登れない難所が無数にあるという。古代の登頂者は当然、空身で登ったはずだ。でも、いったいどうやって?

本書は、この剱岳をめぐる最大の謎、「ファーストクライマーは誰か」に挑むノンフィクションである。この謎解きがすこぶる面白い。

著者は「物語を旅する」をテーマに、世界各地を旅してきた探検家だ。
世界で初めて『ロビンソン漂流記』のモデルとされる漂流者アレクサンダー・セルカークの住居跡を発見したり、浦島太郎の龍宮城を探したり、日本版ロビンソン・クルーソーともいえる江戸時代の漂流民の足跡を追ったり、著者の冒険はロマンにあふれ、ワクワクさせられるものばかりだ。

今回もロマンではこれまでの探検に引けを取らない。なにしろ「古代のファーストクライマーの謎を追う」というのだから。だが、本当にそんなことが可能なのだろうか?ちなみに、『劒岳〈点の記〉』では、測量隊のあいだで、立山信仰の発生と時を同じくして剱岳も奈良時代に開山されたのではないか、といった推理が交わされる。

古来、人々は山を崇め、恐れてきた。本書によれば、ヨーロッパや南米では、人間が寄りつき難いほど高い山は不吉な場所とされてきた。一方、ヒマラヤの高峰は神聖なものとみなされる。ネパールのマチャプチャレ(標高6993m)は神域とされ、現代においても未踏峰だという。

日本でも、山は古くから信仰の対象とされてきた。たとえば山岳信仰で知られる出羽三山は、三つの山がそれぞれ現世(羽黒山)・前世(月山)・来世(湯殿山)を表すとされ、出羽三山への巡礼は「生まれかわりの旅」とされる。僕の故郷の大分にも、福岡県をまたいで英彦山という修験道で有名な霊山がある。

「剱岳のファーストクライマーは誰か」という謎を解明するにあたり、著者がまず注目したのも立山信仰だった。古くから地元に伝わる立山開山縁起によれば、701(大宝元)年に佐伯有頼という人物が立山を開山したという。開山とは、未踏峰の山に登り、そこで神仏を迎え聖地化することである。個人の修行や一宗派の宗教行為にとどまらず、時にそれは国家鎮護のための祭事として行われたという。剱岳のファーストクライマーも立山開山と関係しているのだろうか。

話はここから俄然、面白くなっていく。
そもそも立山連峰に「たてやま」という名の山は存在しない。一般に立山登山として親しまれているのは、立山三山(雄山、大汝山、富士ノ折立)の雄山である。この立山三山と毛勝三山(猫又山、釜谷山、毛勝山)の間に屹立するのが剱岳だ。剱岳は、古くから地獄とみなされ、登ってはいけない禁足の地とされてきた。立山信仰と結びつけるには、剱岳の存在はなんだか異質なのである。

また、剱岳に登るルートにしても、著者が最初に検討したポピュラーなルートは、空身で登るにはあまりに危険だということがわかった。登頂ルートは、古代の人間でもいちばん容易なものを選んだに違いない。開山が国家の祭事であるならば、なおさら死人が出るような危険な行為は避けたはずだ。

しかも、立山三山に連なる尾根伝いからは、9世紀から10世紀前半のものとみられる須恵器の破片が発見されているが、剱岳からは見つかっていない。発見されたのは錫杖頭と鉄剣である。やはり剱岳からは他の山とは違うにおいがする……。

謎解きの興を削ぐので詳しい過程は省くが、著者は立山信仰を調べていくなかで、別の山岳信仰の存在に気づく。そして現代では失われた古代の信仰の道を発見するのだ。このプロセスが実にスリリングで面白い。手がかりになるのは、古くから地域に残る伝承や地名である。

著者は、伝説や地名、言い伝えを一級資料として扱う。声なき民衆の声が反映され、消し去られた歴史の残像が宿るからだという。「キクワウチ」、「ガキガンドウ」、「ハゲマンザイ」といった古い地名が、著者を失われた古道の発見へと導いていく。

興味深いのは、この探索の旅を通じて、著者自身が変わっていくことだ。
近代アルピニズムが誕生して以降、私たちは山をほとんど登山の対象としかとらえてこなかったが、剱岳の謎に挑むうちに、著者のなかに山を信仰した古代の人々の感覚が甦ってくるのである。失われた信仰の道を求めて山中に分け入る時、意外にも真相に近づいているという高揚感は感じられない。かわりに著者の心は厳かな気配で満たされていくかのようだ。

ところが奇岩群はすぐに姿を消し、先に大きな平場が見えてきた。静けさが満ち、そこがただならぬ場所であると感じさせた。正面の坂を登ると岩窟があり、近くに巨大な岩が屹立していた。巨大な石柱と中央に亀裂が入った岩だ。それらが男根、女陰とみなされていたことは想像に難くない。また近くには岩室もある。
それら産土神らのまぐわいにより神仏を始め、年ごとに幾千、数万の新たな生命が、産み出される。まさにここが神秘の聖域だ。
わたしは思わず山の土地神に黙礼した。神が寄りつく磐座はそれ自体が石神でもある。
「圧巻だね」
わたしは感情のまま言葉を発し、それを言祝ぎに変える。

ここで描かれているのは、「プリミティブな宗教心」とでもいうべきものが生まれる瞬間ではないか。それは、深い森の中に佇んだり広々とした海を前にした時などに私たちの心に生じる感情と、そう遠くないところにあるような気がする。

著者の探索は、いつしかファーストクライマーの正体や古道の存在を超えた地点にまで進んで行く。4年にわたる探検の果てに著者がたどり着いたのは、心の古層を掘り起こされるような奥深い山の神秘に触れる体験だった。

「なぜエベレストに登るのか」と問われた登山家のジョージ・マロリーは、「そこにエベレストがあるからだ」と答えたが、本書を読んだ人は、きっとこう答えたくなるだろう。「そこに、神様がいるからだ」と。