おすすめ本レビュー

これから先も、株式会社は必要か 『株式会社の世界史 「病理」と「戦争」の500年』

吉村 博光2020年12月9日
株式会社の世界史: 「病理」と「戦争」の500年

作者:克美, 平川
出版社:東洋経済新報社
発売日:2020-10-30
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“コロナ禍による大恐慌は「株式会社」の終焉を招くのか”本書のオビには、こんな惹句が躍っている。『ブルシットジョブ―クソどうでもいい仕事の理論』という本が話題になったり、自らの会社を自虐的に扱う態度が横行しているように、我々は「株式会社」の扱いに大いに困っているように見える。

この時期に「株式会社」について考察を深めておくことは非常に有意義だと感じ、私はこの本を手に取った。本書の半分は、「株式会社」登場前からの約500年間の歴史だ。その後もアダム・スミスやミルトン・フリードマンなどの言説を紹介している。つまり「株式会社」に関する歴史や教養、いわゆるリベラルアーツが詰まった一冊といえる。

我々は、当たり前のようにそこで働き、そこで生産された商品やサービスを享受しながら、しかしさほど株式会社について知らない。しかし、本書を一読すれば、株式会社に関する一定の見識を持つことができるようになっている。ただ、著者の出自からもわかるように、本書は決して学術的視点に偏った本ではない。読みやすい。

不二家やライブドアの事件など身近なエポックも取り入れているし、マックス・ウェーバーと宮本常一を対比するなど、多元的に光が当てられている。読む人によって心に響く箇所が違うだろう。鋭い考察を随所に含んだ本であるがゆえに、自らの頭で咀嚼しながら、時間をかけて読むのに適した本だ。

ちなみに私は、「もしも会社が無かったら」という考察で、溝口健二監督の映画『雨月物語』が出てきたのが心に響いた。『雨月物語』の原典は1776年に上田秋成が書いた小説である。その年はアメリカでアダム・スミスの『国富論』が出版された年であり、ヨーロッパでは株式会社を生んだ大航海時代での各国覇権争いの全盛期にあった。

『雨月物語』の源十郎は、草木の家に住み、陶器を焼き、街に売りに行くことで生計を立てていた。そういえば、莫大な興行収入を収めた映画『鬼滅の刃』の主人公も、原作の冒頭で炭を作り街に売りに行く。最近始まったNHKの朝ドラ『おちょやん』の父親も、鶏を育て街に売りに行くことで暮らしている。

ここで著者が、ほんの数世代を溯れば日本にはこんな生活があったこと、そして時代が変わってもこの物語に心動かされる精神性が日本人に残っていることを同時に驚いてみせている点が興味深かった。「株式会社」は生活を支配しているように見えるが、歴史は浅い。そして、今も日本人の心はそれに支配されていない部分が残されているというのだ。

話がやや横道に逸れるが、『鬼滅の刃』は産屋敷家の「お館様」のもとに集まった柱たちが、強権的な(株主のような)鬼舞辻無惨率いる鬼たちを倒す漫画だ。戦いの後に主人公の炭次郎が家に帰り、家族を振り返るシーンは実に感動的だ。これは私の個人的な解釈だが、「株式会社」を葬って「家」に回帰する物語なのではないか。

もしかしたら、この作品のメガヒットは冒頭にあるような問いを設定する、現代という時代背景とシンクロしているのかもしれない。人々は「株式会社」後の主役として、実は「家」というものを求めているとは言えないだろうか。1776年の『雨月物語』をきっかけに、私の妄想はそこまで広がった。

考えのレベルは置いといて、私がそんなことを考えることができたのは本書の示唆に富んだ考察を縁としたからである。読書の効用が、お仕着せの教義を与えられることではなく自分の頭で考えを巡らせる時間を持つことだとすれば、本書は実に贅沢で、実に有益な本であるということができる。

株式会社を、私たちはなにゆえ必要としてきたのか。本書のテーマは、大きく分けて二つある。一つは、株式会社がまさに生まれ出る瞬間の時代を生々しく浮かび上がらせること。もう一つは、近代を牽引してきた株式会社がこれから先も経済発展の原動力として中心的な役割を果たしていくことができるのか、という問いに答えを出すことだ。

東インド会社設立の1600年前後、南海バブルなどの最初のバブルが訪れた1700年前後、市民革命と産業革命の1800年前後、大衆消費社会と戦争の1900年前後、金融とグローバリズムの2000年前後。社会に大きな変化が訪れるたびに、株式会社は過熱した。しかし、著者は一貫して、そこには常に病を孕んでいたと主張している。

所有と経営の分離、有限責任制に端を発する爆発力と病。病は時に表面化し、社会問題を引き起こす。有益な商品やサービスを広める原動力として、株式会社はこれからも必要とされると思う。しかし、どうだろうか。多くの物の供給過剰が続くなか、株式会社が必要とされるそのような機会が減少するのはほぼ確実ではないだろうか。

持続可能社会の実現が、希求されるようになった。その時に必要となってくるのは常に株主から「成長か死か」を迫られる株式会社ではなく、志をもった個々がプロジェクト単位で離合を繰り返す組織なのかもしれない。本書のなかにも書かれていたが、株式会社は「人」なのに利益を最優先する。そんな嫌な奴は、もういらないのかもしれない。

ここであらためてオビに目をやると“グローバリズムの終焉は「戦争」をもたらすのか”とある。新たな市場を失えば、一時的なものではなく、文明史的なパラダイム変化としての「供給過剰」に陥ることになる。株式会社の暴走を恐れる空気はすでに世界に瀰漫しているように感じる。「戦争」を避けるためにも、できれば先手を打ちたいものである。