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『筑紫哲也「NEWS23」とその時代』かつてジャーナリズムが元気だった時代があった

首藤 淳哉2021年11月29日
筑紫哲也『NEWS23』とその時代

作者:金平 茂紀
出版社:講談社
発売日:2021-11-04
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本を読み終えて顔を上げた瞬間、いまどこにいるのかわからないような感覚に襲われた。一瞬とはいえ、自分を見失ったような気がしたのはなぜだろう。いましがた読み終えたばかりの本に書かれていたのは、ついこの間の出来事である。にもかかわらず、この本に描かれた時代といまとはまるで違う世界のようだ。

そうか、とようやく思い至る。文字通り世界が変わったのかもしれない。私たちが暮らす国はすっかり変わってしまったのだ。何によって?何かを得ることで変わったのだろうか。いや、違う。失うことによって変わったのだ。本書は、私たちが失ってしまったものについて書かれた一冊である。

かつて『筑紫哲也NEWS23』という番組があった。1989年10月2日から2008年3月28日まで、TBS系列で平日の23時から放送されていたニュース番組だ。キャスターは、朝日新聞社で編集委員や『朝日ジャーナル』編集長などを務めた筑紫哲也氏である。

この番組はいろいろな点で画期的だった。まず個人名を冠した初めてのニュース番組だったこと。もうひとつは、筑紫氏が「編集権」を持つキャスターであったことだ。テレビ局という組織ジャーナリズムの番組でありながら、筑紫哲也氏個人の見識に負うところが大きかった。それまでそんな番組はなかった。この他にも、アメリカの現職大統領をゲストに迎え、タウンホールミーティング(政治家と市民との対話集会)を実現させたり、井上陽水氏に主題歌を依頼したり、この番組の「初めて」を数え上げればキリがない。『筑紫哲也NEWS23』は間違いなくひとつの時代を築きあげた番組だった。

著者は番組制作者として10年以上にわたり筑紫氏と深く関わった。だから並々ならぬ思い入れがある。なぜあのような画期的なニュース番組が成立し得たのか。なぜその後ジャーナリズムは変質してしまったのか。「『NEWS23』のDNA」は今も受け継がれているのか。著者はそれらの問いを突き詰めていく。本書は筑紫氏個人の評伝ではないし、ましてや著者の回想録でもない。当時番組に関わった多数の関係者に取材し、『筑紫哲也NEWS23』がかつて存在した「その時代」を描いたノンフィクションである。

まだ学生だったが、番組は開始当初からよく観ていた。特に2部構成の第2部が面白かった。「時の人」が生出演したり、硬軟とりまぜた特集があったり、「なんでもあり」のバラエティに富んだ内容だった。ニュース番組でありながら文化の香りがしたし、「遊び」があった。そこに惹かれたのだと思う。

本書で初めて知ったが、この2部構成は、編成上の都合でやむを得ずだったらしい。しかも間にどうしても3分間のミニ枠を設定しなければならず、苦肉の策で考え出したのが後に名物コーナーとなる「異論・反論・オブジェクション!」だったという。街の声を次々に拾い上げていく演出はいまでは珍しくないが、当時は斬新だった。

斬新といえば、記念すべき初回のオープニングも素晴らしい。暗いスタジオの中央に筑紫氏が立ち、「照明をあげてください!」との掛け声で明転すると、スタッフ全員が筑紫氏とともに立ち並んでいて「さあ、はじめましょう!」でスタートするというカッコいい演出だったのだが、発案者は筑紫氏本人だったという。こうした柔らかい発想はどこから生まれてきたのだろう。

筑紫氏は文化全般に通じていた。『朝日ジャーナル』編集長時代に手がけた「若者たちの神々」というインタビュー企画(1984年〜1985年)では、アカデミズム、文学、演劇、映画、漫画、音楽、ファッションと幅広い分野からゲストを選んでいる。ここで取り上げられた若き表現者たちの多くが現在も第一線で活躍していることからも、筑紫氏の「見る目の確かさ」がうかがえる。

キャスター時代も、筑紫氏はコンサートや芝居に頻繁に足を運んだ。生放送前なのにギリギリまで席を立たず、周囲をハラハラさせた。こうした日々の観劇などからも筑紫氏は時代の空気を感得していたのだろう。筑紫氏はまた、ニュースは文化の一部であるという考えも持っていた。記者クラブのような狭いコミュニティに首まで浸かった人間からはこういう発想は出てこない。『筑紫哲也NEWS23』が他番組と一線を画していたのは、「日々のニュースも人間の営みのひとつ」という視点があったからかもしれない。

いつからかニュースは、単なる「情報」とみなされるようになった。だが、「情報」などという言葉では表現できないようなニュース報道がかつての『筑紫哲也NEWS23』にはあった。いま振り返っても凄い特集だったと著者があげるのが、1994年に放送された「激走!出稼ぎ列車50時間」である。中国の地方から大都市へ出稼ぎ労働者を運ぶ「盲流列車」と呼ばれる列車に取材班が同乗したルポだ。次々に乗り込んでくる乗客で車内は立錐の余地もない。トイレにも行けず乗客は垂れ流し状態。カメラのレンズは人いきれで曇り、危険だと判断した鉄道公安警察が乗客を暴力的に排除していく。VTRの終わりには「発狂・意識不明25人」というスーパーが入る……。

このような映像を目撃することは、視聴者にとって強烈な「体験」となる。ただ事実を伝えるだけではない、観る者の足元をも揺るがすようなニュース報道がかつてはあったのだ。

筑紫氏は2008年11月7日に亡くなった。ある人物の死が時代の変わり目を象徴することがあるが、筑紫氏が亡くなって以降、この国のジャーナリズムは凋落の一途を辿っているようにみえる。本書の後半で著者は、番組を支えたかつての仲間たちに、「『NEWS23』のDNAは何だと思うか」と問いかける。ジャーナリズムの現状に対する著者の焦りや迷いがひしひしと伝わってくる。

なぜジャーナリズムは力を失ってしまったのか。その理由はひとつではないだろう。本書にも明確な答えが記されているわけではない。ただ、遺された筑紫氏の言葉からみえてくるものもある。

例えば筑紫氏は、党派性で人を区別するのは嫌いだと語っていたという。右も左も関係なく誰とでも懐深くつきあった。著者は筑紫氏を「触媒」にたとえる。田中角栄逮捕のきっかけをつくった立花隆氏は、娘の田中真紀子氏からみればいわば仇敵だが、筑紫氏はこのどちらとも親交があった。

SNSをみれば、党派性で人を区別するのが当たり前のふるまいになっている。メディアも疑問を抱くことなくその流れに乗っかっている。時には積極的に対立を煽ることすらある。社会の「分断」をつなぎとめる役割を意識的に果たしているジャーナリストがいまどれだけいるだろうか。

今年はついに立花隆氏も逝ってしまった。不思議なめぐりあわせというべきか、訃報が伝えられた6月23日は、筑紫氏の誕生日でもあった。ふたりは同志的な関係にあり、『筑紫哲也NEWS23』にも立花氏はたびたび登場した。

『NEWS23』での立花氏の死の報じられ方に著者がショックを受ける場面が印象的だ。頻繁に出演していた関係でTBSには他局にない素材が山のようにある。てっきり特集サイズで報じられるものと著者は思い込んでいたが、いつまでたっても報じられない。結局、主要な6項目のニュースが終わり、「その他」ニュースをまとめて扱うコーナーの4項目めで初めて短いニュースとして流れた。わずか80秒の扱いだった。

現在の『NEWS23』に筑紫氏の時代のような個性はない。平日の夜はニュース番組をはしごするのが習慣だが、ニュースの並びはどこも判で押したように同じである。それも無理からぬことかもしれない。視聴者がみえなくなったテレビの現場ではマーケティングが幅をきかせるようになり、「コア・ターゲット」を絞り込み、その顧客層に受けるように番組が編成されるようになったからだ。視聴者はいまや顧客なのだ。

本書に記された無数のエピソードは、時代と本気で切り結んだニュース番組がかつてあったことを教えてくれる。もはや「その時代」は遠い昔のようだ。ジャーナリズムがふたたび元気を取り戻す日は来るだろうか。亡き筑紫氏に宛てた手紙として書かれた最終章で、ジャーナリストが絶滅危惧種であることを認めつつ、著者は自分に言い聞かせるように、まだ希望を失っていないと述べる。

著者の胸にいまもこだまするのは、1985年、御巣鷹山に激突した日航ジャンボ機の機長たちの叫びである。彼らは最後の最後までコックピットで任務をまっとうしようとした。この時、修羅場で記録されていたのは次のような声だった。
「頭をあげろ!」「頭をあげろ!」