おすすめ本レビュー

『遠い声をさがして』なぜ羽菜ちゃんは亡くなったのか

首藤 淳哉2022年10月1日
作者: 石井 美保
出版社: 岩波書店
発売日: 2022/6/14
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子供が巻き込まれた悲しい事故のニュースを目にするたびに胸が痛む。幼稚園バスに置き去りにされた子供たちはどれほど心細い思いをしただろう。そんなことを想像するだけで辛い気持ちになる。

いつものように送り出した我が子が、亡骸となって戻って来る。

あってはならないことだが、時にそうした悲劇が起きてしまう。

一冊の本を紹介したい。2012年、京都市内の小学校のプールで1年生の女児が溺死する事故が起きた。学校側の対応はずさんで、女児の両親は第三者委員会による検証を求めた。要望は聞き入れられ、学校管理下のプール死亡事故では全国で初めて第三者委員会が設置された。ところが検証結果は遺族の疑問に答えるものではなく、その後、多くの支援者の手を借りた自主検証へと発展していく。

著者は娘が同じクラスだった縁で、思いがけず女児の両親の〈同行者〉となる。本書は、文化人類学者でもある著者が、遺族とともに事故の真相究明に奔走した10年間の記録である。著者は同じ親として心を痛めながら遺族に寄り添い、一方で冷静に事態の推移を見つめ記録した。その結果、当事者と観察者の視点を併せ持った比類のないノンフィクションが生まれた。

亡くなった女の子の名前は、浅田羽菜ちゃんという。

羽菜ちゃんは2006年2月27日、京都市内の病院で産声をあげた。両親にとって羽菜ちゃんは「奇跡の子」だった。羽菜ちゃんを授かる前、二人は5年にも及ぶ不妊治療を経験していた。だがうまく結果が出ず、治療をやめる決断をした。その後、しばらくして羽菜ちゃんを授かったのだ。二人にとって羽菜ちゃんはまさに天からの贈りものだった。

2012年4月、羽菜ちゃんは自宅から歩いて数分の場所にある小学校に入学した。

事故が起きたのは7月30日である。この日は午後1時から2時まで、低学年児童のプール学習が予定されていた。羽菜ちゃんは学童保育所でお弁当を食べた後、小学校に向かい、3名の教員の指導のもとで、水に潜る練習や鬼ごっこなどの活動に参加した。

事故は午後1時45分から50分頃、自由遊泳の時間に起きた。

自由遊泳の前に設けられた5分間の休憩の間に、3人の教員は、16枚の大型フロート(ビート板)をプールの中に投げ入れている。どれも数人の子どもを乗せられるほどの大きさだ。

自由遊泳の開始後、女性教員は、羽菜ちゃんから「あそぼ」と声をかけられた。そこで一緒にプールに入り、羽菜ちゃんを抱き上げては水の中に入れるという遊びを何度か繰り返した。その後、他の子どもたちから誘われ、鬼ごっこを始めた。そして、追いかけたり、追いかけられたりしながら、プールの中を北に向かって進んでいったとき、水中にうつぶせになって浮かんでいる羽菜ちゃんの姿を発見した……。

後に明らかになるのだが、羽菜ちゃんをプールサイドに引き上げた後の学校側の対応は、目を覆いたくなるほどのひどさである。全員がパニック状態に陥り、救助の体をなしていない。適切な救命措置を行なっていれば羽菜ちゃんは助かったのではないかという疑問が拭きれない。

事故後の学校側の対応も遺族への配慮に著しく欠けている。例えば、保護者説明会で、締めくくりにマイクの前に立った教頭は、晴れやかとも言える声のトーンで、今日をスタートに今後は子供たちに楽しいと思ってもらえるような学校にしていきたい、という趣旨のことを述べた。

事故からまだ日が浅い段階での、しかも遺族の目の前での発言である。この発言からわかるのは、学校が向いているのは大多数の児童の保護者の方であり、亡くなった羽菜ちゃんや遺族ではないということだ。おそらく教頭に遺族を傷つけてやろうなどという意図はないだろう。要するに想像力を完全に欠いているのだ。こうした「鈍感な善人」とも呼ぶべき人物が本書には数多く登場する。

鈍感な善人たちは、ある力を代表している。それは、〈日常に戻ろうとする力〉だ。学校や教育委員会はことあるごとに「事故を教訓に」などと述べ、前に進もうとする。未来志向はいかにも良いことのように聞こえるが、そこでは、愛娘の死に打ちひしがれる両親の存在は切り捨てられている。

日航機墜落事故の遺族のグリーフ・ケアに携わった精神病理学者の野田正彰は、名著『喪の途上にて』の中で、「今日の不幸の特徴は、効率を求めて慌しい動きを止めない日常の傍らに、ふと、その人だけの不幸が停滞していることにある」と書いている。

羽菜ちゃんの両親の時間も、あの日で止まっていた。本書の中でもうひとつ強く働いているのは、〈その場にとどまろうとする力〉である。

一刻も早く日常に戻ろうとする学校や教育委員会に対して、両親はその場にとどまろうとする。なぜか。羽菜ちゃんの「最後の声」を聴こうとしていたからだ。羽菜ちゃんに何が起きたのか。最後の瞬間、羽菜ちゃんの目に映ったものは何だったのか。それを知ることが両親の切実な願いだった。

〈日常に戻ろうとする力〉と〈その場にとどまろうとする力〉。

このふたつの力のせめぎあいが本書では描かれる。〈日常に戻ろうとする力〉によって羽菜ちゃんの両親は何度も傷つけられる。

例えば第三者委員会は、羽菜ちゃんが対岸に向かって直線的にプールを移動する途中で少量の水を吸い込み溺死した可能性が高いとした。だが羽菜ちゃんをよく知る両親は疑問を抱く。人懐っこい羽菜ちゃんは、楽しそうに鬼ごっこを始めた女性教員を「後追い」したのではないか。加えて、大型フロートの下に潜り込み怖い思いをしたという児童の証言もあった。羽菜ちゃんは先生の後を追って不規則にプールを移動する過程で、大型フロートと接触してしまったのではないか……。

ところが第三者委員会は、「可能性を全部挙げていったら1万ページあっても足りない」などと両親の疑問にまともに向き合おうとせず、説明を終えてしまう。遺族が失望と苛立ちを募らせるのは当然だ。

こうした配慮に欠ける姿勢と対照的だったのが〈同行者〉たちである。本書を読みながら、ジャン=ジャック・ルソーが言った「ピティエ(憐れみの感情)」を思い出した。「ピティエ」とは、いわば他者への想像力だ。ルソーはこれを、社会を支える大切な感情と位置付けた。プールでの再現検証に協力した子供たちは、「羽菜ちゃんのため、羽菜ちゃんのお父さんとお母さんのため」という思いで検証に臨んだという。〈同行者〉にあって、鈍感な善人に欠けていたのは、この他者への想像力である。

人々の尽力によって事故から3年後に実現した自主検証の場に、両親は初めて立ち会った。第三者委員会が行なった検証に二人は参加しておらず、プールでの再現実験も目にしていない。目の前でありありと再現されたその時の光景を見ることは、とてもきつい体験だったという。

だが、ここで重要なのは、自主検証に参加したことによって両親の内面に生まれた変化である。実際に立ち会ったことで、「ああ、こうやったんやな」という感情がもたらされたという。それは辛さを上回る感情だった。母親はこの時のことを、「羽菜に近づけるような気がした」と振り返っている。

このくだりを読んだ時、自分の中でストンと腑に落ちる感覚があった。いじめなども含め学校で事故や事件が起きた時、必ずと言っていいほど、学校や教育委員会と、被害者や遺族との間で感情的な対立が起きる。なぜ対立が生まれてしまうのか。本書は私たちが見落としていた重要な視点を提示している。

羽菜ちゃんが通っていた小学校では、事故後に独自の安全マニュアルがつくられ、それに基づいた実地訓練も行われるようになった。これら一連のマニュアルとカリキュラムには、「HANAモデル」という名前がつけられた。

確かに事故は「教訓」とされ、「羽菜ちゃんの死を無駄にしない」という意志は受け継がれたのかもしれない。

だが、それでもなお、どうにも動かしがたい事実だけが残ってしまう。

「羽菜ちゃんが亡くなってしまった」という厳然たる事実である。

ひとりの人間の死によって、現実が変容する。

まわりにいた人々は、変容した現実に否応なく巻き込まれてしまう。

巻き込まれた者はどうすればいいのか。

それはとてつもなく重い問いかけである。

愛する人はもう戻らないという、厳しい現実とどう向き合えばいいのか。

悲しみにくれる遺族を前に、どうふるまえばいいのか。

答えはない。問いだけがただ、そこにある。

「なぜ羽菜ちゃんは死ななければならなかったのか」。

その疑問はこれからも決して消えることはないだろう。

本書には、遺族と〈同行者〉の無数の「なぜ」が木霊している。

その響きの向こうから、かすかに羽菜ちゃんの声が聴こえたような気がした。

あなたもぜひ、その小さな声に耳を澄ませてみてほしい。