おすすめ本レビュー

『Qを追う』〈名無し〉の集団の正体に迫る

首藤 淳哉2022年10月15日
作者: 藤原 学思
出版社: 朝日新聞出版
発売日: 2022/9/20
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「ディープステートが、メディアも、判事も掌握した。証拠がない、なんて言うのは、見ようとしていないからだ。いいか。ここにバドワイザーの缶がある。でも、目を手で覆ったら『見えない』。あるにもかかわらず、だ。証明を拒否しているにすぎない。本当は、証拠はあるんだ」

ダグラス・スイート(58歳)はこう答えた。著者のインタビューを読む限り彼は特段、過激な人物ではない。

スイートは、バージニア州・ヨークタウンの出身。地元の公立高を卒業後、肉体労働で日銭を稼ぎながら、離婚した妻との間にもうけた2人の娘を育ててきた。日々の糧を得るために懸命に働くスイートのような庶民がアメリカにはたくさんいる。だが、トランプ大統領の登場がスイートの運命を変えた。熱烈なトランプ信者となり、2020年の大統領選で不正が行われたというトランプの主張を信じた。そして、米連邦議会議事堂襲撃事件に加わり、逮捕された。

インタビューに出てくる「証拠」や「証明」といった単語は、Qアノンが好んで使う言葉である。Qとは、政府の機密情報にアクセスできる人物や集団を指す。そのQの言葉をよりどころとする信奉者たちが、Qアノンだ。

Qアノンによれば、トランプは、世界を裏で操る「ディープステート」(影の政府)から民衆を守る救世主なのだという。ディープステートの背後には、小児性愛者による集団がいて、大規模な児童売春や虐待組織を運営している。組織のメンバーは、民主党の大物政治家や金融界の大物、メディアの人間だという。

こうした荒唐無稽な主張が「陰謀論」のバリアントに過ぎないことくらい、すぐにでもわかりそうなものだが、この手の物語を信じる人は意外に多い。ある世論調査によれば、Qアノンの主な主張について、「完全に同意する」と答えた米国市民は5%、「ほぼ同意する」が11%を占めた。しかもこれは米国に限った話ではない。根拠のないデマは、いまや国境を越えて世界中に拡散している。この日本も例外ではない。

本書は、Qアノンの黒幕の正体に迫った一冊だ。

「あなたはQなのか」。著者はインタビュー相手に繰り返し尋ねる。陰謀論を生み出したのは誰なのか。その目的は何か。その問いの向こうに、Qアノンに関わる人々の姿が浮かび上がる。彼らは決してアノニマス(名無し)ではない。ネットの匿名性に身を隠す彼らには、顔と名前があった。そして、彼らが崇拝するQにも、顔があり、名前がある。

Qが初めて現れたのはいつか。

2017年10月28日午後3時44分、ネット上の英語圏最大規模の匿名掲示板「4chan(ちゃん)」に1件の投稿がなされた。ヒラリー・クリントンが近々逮捕されることになっており、暴動に備えて州兵の動員が予定されている。各国の当局もすでに動き始めている……。そんな荒唐無稽な内容だった。

投稿者は当初、名前を書き込む欄を空白にしていたが、初投稿から4日後、34件目の投稿で初めて「Qクリアランス・パトリオット」を名乗り、その翌日から投稿の末尾に「Q」とだけ記すようになった。「Qクリアランス」は実際にある用語で、米エネルギー省で最高機密に接する資格を意味する。Qは自称「政府の最高機密を知る愛国者」というわけだ。

Qの投稿は「Qドロップ」と呼ばれる。内容はどれも根拠不確かなものばかりだが、有志たちによって深読みされ、拡大解釈され、拡散されていった。Qアノンにとって、一連のドロップは福音のようなものになっている。

Qアノンの主張にはまってしまうことを、米国では「ラビットホール(うさぎの巣穴)に入り込んだ」と表現する。著者が取材した中には、ハーバード大卒でマンハッタンに住むエリート女性も含まれる。学歴や性別、年齢、支持政党に関係なく、陰謀論にはまる人ははまるのだ。

ラビットホールに落ちた人々は、この日本にもいる。米国とは地理的隔たりがあるせいか、彼らの関心は、米大統領選などよりも、新型コロナやウクライナなどに向かう傾向があるようだ。「新型コロナウイルスのパンデミックはディープステートによって計画されたもの」で、「ウクライナは米国の支援を受けて生物兵器を開発している」といった主張が定番だ。

著者は根気強くQの痕跡を辿っていく。その過程で、Qが生まれた背景や、Qの誕生に関わった(とみられる)人々の込み入った人間関係などが丁寧に解説される。

英語圏で「ちゃんカルチャー」と呼ばれる匿名掲示板文化が、陰謀論を育む“ゆりかご”になったこと。「ちゃんカルチャー」に大きな影響を与えた人物が2ちゃんねるを創設した「ひろゆき」こと西村博之であること。西村とワトキンス親子との関わり。西村による4ちゃんの買収。4ちゃんがヘイトの温床になっていくプロセス。のちにQの発信の場となる「8chan」(現・8kun)の登場……。Qの誕生に日本が深く関わっていた事実に驚く人は多いだろう。

Qの正体について、著者はひとつの仮説を提示している。

ある時を境に、Q(を名乗る人物)が入れ替わったのではないか、という仮説だ。そしてある人物について、現時点でQである可能性がもっとも高いと指摘する。著者はこの疑惑の人物と長時間ともに過ごし、インタビューを行なっている。その中で、この人物があることを「告白」する。この決定的とも思える場面については、ぜひ本書を読んで欲しい。本書には、写真を撮られることを極度に嫌うこの人物の貴重な近影もおさめられている。

それにしても、Qの言葉を熱心に読み解き、拡散する人々の動機はいったい何だろうか。ひとつのキーワードが浮かぶ。それは「影響力」だ。

Qと思しき人物は昔、こんなことを語っていたという。

「金ならある。力が欲しい」。

ここで言う力とは、「米国人の思考に実際に影響を与えることができる」力だ。

影響力へのこだわりは、日本のQアノンにも見てとれる。ワクチン接種会場に侵入し逮捕された男は、ユーチューブで人気者になることを目指していたという。「ユーチューバーコンサルタント」なる怪しげな肩書きを名乗る人物に「Qアノンの動画はバズる」と指南され、せっせとデモや集会の様子を投稿していた。

こうした影響力への渇望や憧れは、弱さの裏返しではないか。

Qを信じる人々に共通するのは、社会から孤立し、非常に影響を受けやすくなっていることだという。信奉者の多くは、社会から排除されていると感じている。自分たちだけの小さなバブルの中に入り込み、閉ざされた空間の中で、いつしか陰謀論がアイデンティティーになってしまった人々だ。

専門家によれば、その人の生活を支配している陰謀論的アイデンティティーを薄めるためには、それとはまったく関係のないアイデンティティーがカギになるという。友人や家族の一員として体験した、さまざまな出来事にまつわる感情的な記憶を思い出させることが大事だ。一見、迂遠なようだが、陰謀論に取りつかれた人を前にしたら、まず話し相手になることから始めてみるのが良いかもしれない。

2020年12月以来、Qの投稿は途絶えていたが、2022年6月24日、匿名掲示板8くんにひさしぶりに書き込みがあった。そこにはこう書かれていた。

《もう一度、ゲームを始めようか? Q》

この日はQの初投稿日から数えて1700日目にあたった。信奉者にとって「17」という数字は特別な意味を持つ。アルファベットの17番目が「Q」だからだ。投稿を受けて、日本のQアノンコミュニティーも歓喜に沸き立ったという。

本書を読んだ人は、こうした事実を前にしても、冷静でいられるだろう。なぜならQも、Qアノンも、決して名無しではないとわかっているからだ。彼らには顔も、名前もある。私たちと同じように、弱さを抱えた人間だ。

陰謀論はこの先もなくならないだろう。だが、陰謀論に対する免疫をつけることはできる。Qの正体に迫った本書は、世界に広がりつつある陰謀論的思考への有効なワクチンのひとつである。