おすすめ本レビュー

『文にあたる』校正の仕事は人生に似ている

首藤 淳哉2022年10月22日
作者: 牟田 都子
出版社: 亜紀書房
発売日: 2022/8/10
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本を読んでいて、誤植をみつけてしまうことがある。

粗を探しながら読んでいるわけではないのに、自然と目にとまってしまう。みつけるのは衍字(えんじ、文章の間に入った余計な文字)が多い。「思いった」とか「会社にには」みたいな誤りだ。DTPが当たり前になって、この手の間違いが増えた気がする。みつけるたびに、がっかりする。

がっかりするのは、子ども時代の刷り込みのせいかもしれない。両親が本好きで、本棚にずらりと並ぶ本を見上げながら育った。幼い頃から本が読める人に憧れた。なぜなら、「本が読める人=大人」だと思っていたからだ。本はすごい。本を書く人はえらい。本に書いてあることは正しい。本を読む人はかっこいい!本には良いイメージしかなかった。

もちろん、すれっからしの今は、そんなこと微塵も思わない。読む価値のない本もあるし、ろくでもない奴だって本を書く。間違ったことを書いてある本でもベストセラーになってしまう。なにより、本好きだからといってモテるわけではない。

ただ、無邪気な憧れがなくなった今でも、「本は手間をかけてつくられたもの」というイメージだけは残っている。

なにしろ一冊の本にはたくさんの人が関わっている。著者、編集、校正、装丁、印刷、製本、営業、取次、流通、書店。思いつくだけでもこれだけの人を介する。多くの人の思いが込められた本は、ファスト系のお手軽な商品とは対極にある。だから、誤植などあるわけがない。そんな思いがあるせいで、誤りをみつけるとがっかりしてしまうのかもしれない。

でも現実は違う。本は売れず、出版社はとにかく新刊を出し続けなければならない。悠長に手間をかけている暇などない。編集者はノルマに追われ、疲れ切っている。原稿を細かくチェックする余裕などない。ならば校正の出番となるところだが、予算や人員などの都合で校正者を入れないケースも多いと聞く。結果、ミスがそのまま残るというわけだ。

そんな出版界の現状には寂しさをおぼえるが、よそ様のことばかり批判するのはフェアではない。疲弊し、仕事の質が落ちているのは、自分が働く業界だって同じだ。誤植を発見した時になんともいえない残念な気持ちになるのは、自分の仕事ぶりを目の前に突きつけられたように感じるからかもしれない。

本書は、フリーの人気校正者として知られる著者の初めての著作である。書物や校正の仕事への思いのたけがつづられた50本のエッセーがおさめられている。普段、本はどんどん読み進むほうだが、この本は、毎晩寝る前に少しずつ、味わうように読んだ。そこかしこに大切なことが書かれていて、読み飛ばしてはいけないと思ったからだ。文章のはしばしから著者の誠実さが伝わってくる一冊である。

校正(校閲)の仕事では、誤字や脱字、衍字などの誤植を見つけることを「拾う」、見逃してしまうことを「落とす」という。本を一冊校正するには2週間ほどかかる。その間、一通のゲラを何度も読む。素読み(文字や言葉を見る)、調べもの(固有名詞や数字、事実関係の確認)、通し読みと、著者の場合、少なくとも3度は読むという。初校、再校と何人かのチームでこれを繰り返すこともある。

これだけでも大変な仕事だが、本書には「え?そんなことまで!?」と驚くような話も出てくる。

あるノンフィクション作品に、オホーツク海で「トドやアシカに出くわしたことがある」という漁師の証言が書かれていた。ところが出版後、SNSで「ニホンアシカは絶滅したからアザラシの誤認かな」と指摘があった。著者はこの本を担当したわけではないが、指摘を目にした時、胃を冷たい手でぎゅっとつかまれたような気がしたという。

調べてみると、日本近海でのニホンアシカの最後の目撃情報は、1950年前後だということがわかった。自分がゲラを読む立場だったとしても間違いに気づかなかっただろうと著者はいう。「校正者はしょせん一夜漬けの素人」に過ぎないと自戒しながら、「専門家に敵うはずがないという怖さ」を噛みしめる。

わずか10行足らずの文章を校正するのに4日もかかったり、一冊の本を校正するのに百冊を超える資料が必要だったり、校正は実に手間のかかる仕事だ。手間を惜しまぬ仕事ぶりには、「職人」という言葉が思い浮かぶが、著者は、校正者を職人と呼ぶことにためらいをおぼえるという。職人の技術というのは、年数を重ねるごとに熟練し同じ水準を保てるが、校正はどんなに経験を積んでも間違いを見落とすことがあるからだ。

校正は間違いがないのが当たり前とされる仕事である。「百点満点で採点するとしたら合格ラインは百点以上。つまり最低でも百点ということ」と著者はいう。だが同時に、「つねに百点満点の校正ができるかといえばむずかしい」とも述べる。「絶対に落とさない人は絶対にいない」からだ。

初心者でもベテランでも落とすときには落とす。意外にも、見出しやタイトルなど大きな箇所ほど見落とすことがあるという。目立つ箇所ほど「他の人もチェックしているに違いない」と思い込んでしまうからだ。かといって、絶対に落とすまいと血眼で読んでいても落とすことがあるという。鼻歌まじりに斜め読みしていても、拾えるときには拾えてしまうというから不思議である。一所懸命ならば必ず良い仕事ができるとは限らないのがなんとも難しいところだ。

校正とは、思い込みや先入観をいかに排除するかという仕事なのかもしれない。厄介なのは、こうしたバイアスは人間に本来そなわった性質だということだ。だからミスは必ず起きる。でも、失敗しても「次こそは」と前を向くしかない。校正の仕事は、どこか人生に似ている。

著者は校正を正式に学んだことがないという。校正の仕事をはじめたときは30歳になっていた。駆け出しは、付物(つきもの)と呼ばれる本のカバーや帯、目次や奥付など、本文以外のものを担当させられる。著者の場合、書籍をまるまる一冊任せてもらえるまで6、7年かかった。仕事の覚えが早いとはいえないうえに、せっかちでそそっかしい性格のため、校正の仕事に向いていると思ったことは一度もないという。

それでも著者は、校正者になるべくしてなった人ではないかと思う。

ねじめ正一の傑作小説『荒地の恋』のモデルにもなった詩人の北村太郎は、朝日新聞の校閲部に長く勤めた。北村は生前、「校正に向いていると思っている人こそ向いていない」と語っていたという。

プロとは、失敗の怖さを知る人である。また、自分が必ず間違うこともわかっている人である。だから著者は、虚心坦懐にゲラと向き合う。「校正者にとっては百冊のうちの一冊でも、読者にとっては人生で唯一の一冊になるかもしれない」からだ。そんな思いが著者を支えている。こんな人が本づくりの現場を支えているのかと、読みながら胸が熱くなった。

本好きのひとりとしては、この本と出合った経緯にも触れておきたい。

本書は吉祥寺のブックファーストで購入した。駅ビルの中にある、けっして大きいとはいえない書店だが、おそらく本好きの店員がいるのだろう、この店の文芸書の棚の一角には、いつも気の利いた本が並んでいる(たとえば以前ここで購入したのは、鎌倉の小さな出版社「港の人」から出ている『ぼくの鎌倉散歩』だった)。本書を手に取ったとき、この棚のおすすめなら間違いない、と思ったのをおぼえている。

考えてみれば、僕が偶然手に取ったのは、本づくりの仕事に誇りをもつ人が書き、本が大好きな人が棚に並べた本だった。こんな幸せなつながりがあるだろうか。だから僕もこの本のことを誰かに伝えたい。

本が好きな人はぜひ読んでみてください。これは素晴らしい本です。