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『天路の旅人』「希有な旅人」の壮大な旅を描く大作

首藤 淳哉2022年11月24日
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「沢木耕太郎が旅の本を出すらしい」

そんな噂を聞いたのは、そろそろ梅雨も明けようかという頃だった。

書棚からあわてて『深夜特急』を引っぱり出してきて読み始めた。「沢木耕太郎」と「旅」。ふたつのキーワードを耳にして、「沢木耕太郎が自身の集大成となる旅の本を出す」と早合点してしまい、ならば原点ともいえる『深夜特急』を読み直さねばなるまい、と考えたのだ。

すると文芸誌「新潮」8月号に本書の前半部分が掲載された。意表をつかれた。予想していたものとまるで違っていたからだ。そして本書を通読した今、つくづく反省している。「集大成」などまったくもって失礼なことを考えてしまった。彼はいまもバリバリの現役で、ノンフィクションの最前線にいる。沢木耕太郎の旅は、まだ終わっていない。

本書は、西川一三(かずみ)という人物の足跡を辿り直したものだ。といっても、その名は一般にはほとんど知られていない。西川は、第二次大戦末期に敵国だった中国の奥深くまで潜入した「密偵」だった。

25歳のとき、日本ではラマ教といわれていたチベット仏教の巡礼僧になりすまし、日本の勢力圏だった内蒙古から、当時の中華人民共和国が支配していた寧夏省を突破し、中国大陸の奥深く、広大な青海省へと足を踏み入れた。

西川の潜行は第二次大戦が終結しても終わらなかった。チベットからインド亜大陸にまで足を延ばし、1950年にインドで逮捕され日本に送還されるまで、蒙古人「ロブサン・サンボー」として、足掛け8年に及ぶ旅を続けたのだ。

その旅の一部始終は、帰国後自ら執筆した『秘境西域八年の潜行』という大部の書物に記されている。文庫本で全3冊、総ページ数2千ページ近くになる記録である。

それだけの旅を続けた人物となれば、戦後もさぞ波乱に富んだ人生を送ったのではないかと思われるかもしれない。ところが帰国した後、西川は盛岡に居を定め、化粧品店の主としてひっそりと暮らした。かつてひとりで中国からインドまでの大冒険を敢行した人物とは思えない後半生を送ったのである。

著者はテレビのドキュメンタリー番組で西川が取り上げられたのをみて興味を持ち、その後、地元紙でたまたま西川のことが記事になっているのを見て、そこに記されていた店の名前を記憶にとどめていた。ある日、著者は思い立って店に電話をかけ、応対した西川に「会いたい」と告げる。いまから25年前のことだった。

この人を書いてみたい、と強く思った著者は、それから月一回、週末に盛岡に通い、話を聞くようになった。ところがいくら話を聞いても、『秘境西域八年の潜行』を超えるようなエピソードが出てこない。どのように西川を書けばいいのか、わからなくなった著者は、しばらくインタビューを中断させてほしいと申し出る。初めて会った時から1年がたっていた。

そこから忙しく過ごすうちに、なんと十年余が過ぎてしまう。そして長い旅から帰ってきたある日、著者は西川が89歳で亡くなっていたことを知った。

心から描きたいと思っていた人物が、無沙汰をしているうちに亡くなってしまう。書き手からすれば痛恨事である。これでもう西川から話を聞くことは出来ない。諦めよう、と著者は思った。

ところが、ここから事態は思わぬ展開をみせる。西川の遺族や担当編集者と会い、思いがけず『秘境西域八年の潜行』の膨大な生原稿を託されることになったのだ。

以来、二千ページの文庫本と、三千二百枚もの生原稿を突き合わせる作業が始まった。著者が西川と交わした対話を記録した50時間近いテープも助けになった。この作業によって、西川の旅が立体的にみえてくるようになった。そこには、何もわからない旅の初心者が、「徐々に経験し、徐々に理解し、徐々に逞しくなり、真の旅人になっていくプロセス」があった。著者は、その旅をあるがままに書くことが、結局、西川という「希有な旅人」について述べる唯一の方法ではないかと思い至る。こうして、著者は西川の長い旅を辿り直すことにした。

山口県出身の西川は、中学を出た後、満鉄に就職するが、5年後の1941年(昭和16年)に退職し、内蒙古に設立された興亜義塾に入学する。興亜義塾は蒙古善隣協会によって創設された学校である。善隣協会は蒙古との友好をはかるために日本で設立された財団法人で、蒙古善隣協会が設立した西北研究所には、今西錦司や石田英一郎、梅棹忠夫といった錚々たる才能が集まったことで知られる。

興亜義塾の門を叩いたのは、子供の頃から中国大陸の奥地への憧れがあったからだ。ゴビ砂漠や青海湖といった地名に、西川はロマンを抱いていた。ところが卒業を前に、酒の席での失敗が原因で興亜義塾を退学処分となってしまう。西川の旅が始まるのはここからだ。蒙疆の地から立ち去れという命令に逆らい、日本人に知られていない西域へ潜入することを決意する。

本書は独特の手法で書かれている。現地に行くことなく、書物や地図、グーグルアースを駆使して、西川の足跡を追うというやり方だ。軽装のまま高地を歩いたり、冷たい河を泳いで渡ったり、現在では考えられないほど過酷な旅である。西川にはその辛さに耐えられるだけの逞しさがあった。未知の土地へ赴き、その最も低いところで暮らしている人々の仲間に入り、働き、生活の資を得る。西川はそうやって旅を続けた。

旅を続けるうえで、西川自身の誠実さが大きな助けになっている。誰かに世話になると、自分の都合はそっちのけで、恩返しのために身を粉にして働く。西川はそういう人間だった。「ロブサン・サンボー」という蒙古名は、チベット語では「美しい心」と訳すことができるという。日本流に解釈すれば「誠意」である。人々をつなぐのは「至誠」であると考えていた西川にとって、それはふさわしい名前だった。

彼はなぜ旅をやめなかったのか。それは、「自由」だったからかもしれない。

旅における駝夫の日々といい、シャンでの下男の日々といい、カリンポンでの物乞いたちとの日々といい、新聞社での見習い職工の日々といい、この工事現場での苦力の日々といい、人から見れば、すべて最下層の生活と思われるかもしれない。(略)しかし、あらためて思い返せば、その日々はなんと自由だったことか。誰に強いられたわけでもなく、自分が選んだ生活なのだ。やめたければいつでもやめることができる。それだけでなく、その最も低いところに在る生活を受け入れることができれば、失うことを恐れたり、階段を踏みはずしたり、坂を転げ落ちたりするのを心配することもない。

なんと恵まれているのだろう、と西川は思った。

旅の空の下、西川は最下層レベルの生活を送っていた。だがそんな中でも、時に奇跡のような出会いや、「聖なる時間」としか呼べないようなひとときに身を置くことがあった。旅には魔法のような力がある。本書を読みながら、そのことを長い間、忘れていたことに気づいた。

魔法といえば、旅の途中に遭遇する美しい風景も魅力的だ。夏を迎え、恐ろしいほどの紺碧となる蒙古高原の空。海抜三千メートルの台地の眼下に広がる青い海のような湖。砂漠で風や砂に洗われた白骨、傾く陽を浴びて砂丘に長い影を曳くラマ僧の姿。地平線に落ちていく巨大な赤い夕日……。

名人は名人を知るというが、旅の達人である沢木には、西川がどんな風景に心を動かされたのかがわかるのだろう。余談だが、息を飲むような美しい風景描写は、星野道夫の本にもしばしば出てくる。この地球上には、人間がいかにちっぽけかと圧倒させられるような、あるいは人間の存在が余計であると感じさせられるような、美しい風景が存在するのだ。

それにしても、あれだけの壮大な旅をしたにもかかわらず、なぜ西川は戦後ひっそりと暮らしたのだろう。もしかしたら、帰国してからの西川の生き方そのものが、戦後日本に対する批評だったのかもしれない。だが実際のところどうだったのかは、もはや確かめようもない。私たちにわかるのは、「西川一三という希有な旅人がいた」ということだけだ。

新型コロナの状況が好転したら、著者はなんとしてでも、中国の内蒙古からインドまで、西川一三が歩いた道を辿るつもりだという。さすがに徒歩ではなく、鉄道やバスも使うが、それでも百日くらいはかかる旅である。そのとき、ようやくこの『天路の旅人』も完結をみるという。沢木耕太郎の旅は、まだ続いているのだ。