おすすめ本レビュー

『東京医大「不正入試」事件』特捜検察のシナリオ捜査が父と息子の人生を狂わせた

首藤 淳哉2023年2月14日

人の記憶にはバイアスがある。「文部科学省汚職事件」と総称される一連の出来事の中で人々の記憶に今も残るのは、おそらく東京医科大学医学部医学科で行われていた不正入試のほうではないか。

東京医大は一般入試で、女子受験生や4浪以上の男子受験生に差別的な扱いをしていた。3浪までの男子受験生に一定の点数を加える優遇装置を講じていたほか、OBの子供など縁故受験生にも寄付金の額などを条件に適宜加点していた。

その後、文科省による実態調査で、東京医大だけでなく複数の大学でも不正な選抜が行われていたことが発覚した。特に女子受験生への差別的な扱いはメディアにも大きく取り上げられ、社会問題になった。元受験生たちが集団で大学を訴える損害賠償請求訴訟が各地で起き、裁判所が大学側の不法行為を認め、原告らに対する損害賠償を命じたことも記憶に新しい。

その一方で、一連の不正入試が明るみ出るきっかけとなった事件のほうは、世間から忘れられつつあるのではないだろうか。

2018年7月4日、東京地検特捜部は、文部科学省・学術政策局長の佐野太を受託収賄の疑いで逮捕した。同日、参議員議員・羽田雄一郎の政策顧問で医療コンサルタントの谷口浩司も同容疑で逮捕された。

容疑の内容は次のようなものだ。

佐野は2017年5月10日に港区内の精進料理店で、東京医大理事長の臼井正彦(学長の鈴木衛とともに逮捕)と会食し、臼井から同大が文科省の私立大学研究ブランディング事業の支援対象校に選定されるよう、事業計画書の書き方などについてアドバイスと指導を求められた。佐野は協力する見返りとして、同大を受験した次男が合格するよう加点などの優遇措置を受けた。

簡単に言えば、息子を裏口入学させる見返りに、東京医大が文科省の支援対象校に選ばれるよう便宜を図った、という疑いだ。金銭ではなく、入試の加点を賄賂と見做すという、極めて特殊な贈収賄事件である。

本書はこの事件の裁判を追った法廷ドキュメントだ。裁判ものは読むのに忍耐を要することが多いが、本書は著者の熱意に背中を押されるように読み進めることができた。その熱意はどこから来るのか。それは、事件によって重い十字架を背負わされることになった青年を救いたいという使命感である。

「わが子の医大入学のために不正に手を染めたエリート官僚」。事件をそのようにとらえるなら、なんとも陳腐な構図である。ドラマの脚本なら今どきこんなベタなストーリーは却下だろう。ところが本書が明らかにするのは、この陳腐なシナリオの書き手こそが検察であるということなのだ。ベタなセンスの持ち主は、東京地検特捜部だったのである。

この事件の最大の特徴は、「物証」があることだ。会食の模様が、音声データの形で丸ごと残されていたのである。

ボイスレコーダーでこっそり録音していたのは会食に同席していた谷口だった。

ただ、録音は何か企みがあってものではなかった。酒の席で重要な話が出ても忘れてしまうと考え、個人の備忘録として残していたにすぎない。谷口が取締役を務めていた医療コンサル会社では、顧客との打ち合わせや社内ミーティングなどを録音した後、クラウドで社内共有しており、日頃からボイスレコーダーを持ち歩く習慣があった。

裁判で明らかにされた会食の席での会話は、普通の内容である。医大を目指して浪人中の佐野の次男についても、臼井はごく一般的なアドバイスをしているにすぎない。だがこれらの会話を、検察はことごとく「角度」をつけて解釈し、臼井から請託が行われ、佐野がそれを承諾したやり取りだと主張した。

本書の中で繰り返し著者が強調していることがある。それは、佐野の次男が自力で合格していたという事実だ。そのことは裁判でも明らかにされており、検察側も認めている。にもかかわらず、父親の逮捕によって次男は「裏口入学」の汚名を着せられ、SNSなどでは今も誹謗中傷が続いているという。

元凶は理事長の臼井である。臼井は、佐野から頼まれてもいないのに、次男の1次試験の点数に勝手に10点を加算していたのだ。これが佐野への賄賂にあたると検察は見做した。無理筋もいいところである。

佐野と谷口の逮捕も、元はと言えば、取り調べで臼井が検察の意に沿うように供述したことがきっかけだった。臼井にはかねてから金にまつわる数々の疑惑があった。検事は取り調べで臼井の過去の後ろめたい案件を持ち出し、公表されたくなければ協力しろと暗にプレッシャーをかけた。病み上がりで体調が優れなかったこともあり、臼井は検事に迎合するように供述していく。のちにそれがひとりの若者の人生を狂わせることになるとも知らずに……。

著者はこれまで、東京地検特捜部が立件した数々の経済事件を取材してきたが、事件の当事者が決まって訴えるのが、特捜部の強引なシナリオ捜査の問題だという。まさに本書が取り上げる事件でも同じことが繰り返された。

著者は当初、この事件にさほど興味がなかったという。だが、初公判を傍聴し、佐野の次男が自力で合格していた事実を知り衝撃を受けた。だが、初公判までにこうした事実を正しく報じた司法記者クラブ所属のメディアは皆無だった。どの社も特捜部のリークを無批判に垂れ流しているだけだった。ならば「自分でやるしかない」と本書を書いた。

ある司法関係者によれば、この事件の主任検事は、「東京医大事件を立件できたことで、私立大学医学部入試で長年行われてきた不正な加点の実態が明らかになり、とりわけ女子受験生の差別是正を実現できた。自分にとって誇れる実績の一つ」などと自画自賛していたという。

だが、女子受験生らへの差別待遇は、この事件と何の関係もない。冤罪の可能性が極めて高い贈収賄事件の捜査の過程で、たまたま表沙汰になった副産物にすぎないのだ。

本書を読んでいると、検察に対し怒りがわいてくる。もっと他にやるべきことがあるはずだ、大物政治家のひとりでも逮捕してみろと言いたくなる。だが著者は、佐野が逮捕された背景には、首相官邸とのこじれた関係があったのではないかと推測している。詳しくは本書を読んでほしいが、事実ならますます検察への失望は増す。

この事件の最大の犠牲者が、佐野の次男であることは言うまでもない。裏口入学という烙印を押されたまま、彼は今も懸命に医師を目指しているのだ。2022年7月20日の1審判決当日も、普段と変わらず大学へ行き、判決が言い渡される時間帯には解剖の授業を受けていたという。

メディアの間では無罪判決の観測も流れたが、1審は全員が執行猶予付きの有罪判決だった。判決後、「冤罪を晴らすことができず、本当に申し訳ない」と詫びる父親に、息子がかけた一言に心を動かされた。

この青年の未来に、幸多かれと願わずにはいられない。