おすすめ本レビュー

『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』

首藤 淳哉2023年3月18日

一見、ライトノベルを思わせるタイトルだが、本書は紛れもない実話である。ただし著者の半生は、まるでラノベの主人公のようにユニークだ。

著者は1992年千葉県生まれ。昔からどこまでも内向的で、考えすぎる人間だったという。そんな性格もあってか、大学受験や恋愛、就活の失敗などで心を壊し、大学を卒業した2015年からは、千葉の実家で引きこもり生活に突入。週一でバイトは続けていたが、それもコロナでなくなってしまい、さらに追い討ちをかけるように2021年からはクローン病という自己免疫系疾患の難病も患う。

驚くのはここからである。著者は引きこもりのかたわら、ルーマニア語を身につけ、2019年から小説や詩を書き始めた。その作品は現地の文芸誌に掲載されただけでなく、《Istoria literaturii române contemporane 1990-2020》(ルーマニア文学現代史1990-2020)という本にも名前が掲載されているという。日本ではほとんど無名だが、著者はルーマニアではれっきとした作家として知られているのだ。

わずか数年で外国語をある程度マスターするだけでも大変なのに、その言語を駆使して文芸作品を完成させるとなるとほとんど奇跡だろう。こういう凄い人がいるから世の中は面白い。

それにしても、なぜルーマニア語なのか。鬱状態で引きこもるようになって、著者は映画を観まくったという。映画を観ている時だけは心が安らいだためだ。そんな中、運命の一作と出会う。もちろんルーマニア映画である。その作品では、ルーマニア語そのものがテーマとなっていた。言語をめぐる考察がモチーフとなった作品に魅了された著者は、ルーマニア映画をもっと知りたくなった。そのためには言葉を学ばなければならない。こうしてルーマニア語学習にのめりこんでいった。

ところで、ルーマニアについて、あなたはどんなことを知っているだろうか?

メジャーなのは、ドラキュラかもしれない。だが、『吸血鬼ドラキュラ』を書いたブラム・ストーカーはアイルランド人だし、元ネタはルーマニアというより東欧に広く伝わる伝承である。(このあたりについては『吸血鬼伝承—「生ける死体」の民俗学』という面白い本がある)

人文系の本が好きな人は、宗教・神話学の大家であるミルチャ・エリアーデや、反出生主義の文脈でこのところ再評価されているE・M・シオランの名前を思い浮かべるかもしれない。冷戦の終焉を目撃した世代なら、独裁者チャウシェスクの名前を挙げるだろう。日本におけるルーマニアのイメージは、せいぜいそんなところではないか。

一方、ルーマニアでは日本文化への関心は高いようだ。漫画やアニメの人気は言うに及ばず、文学も村上春樹の長編はほぼすべてルーマニア語に翻訳されているし、村上龍も根強い人気があるという。

ルーマニア語は同じ東欧のチェコ語やポーランド語、あるいはロシア語などと同じスラブ語派と思いがちだが、実はロマンス諸語に属するのだという。西欧のフランス語やイタリア語、スペイン語のほうが親戚というわけだ。イタリア語などは、勉強していなくてもある程度意味がわかるくらい近い関係にあるという。しかもラテン語の枠組みを最も今に受け継ぐ言語だとする説もあるらしい。影が薄いかと思いきや、ルーマニア語には独特の存在感がある。

そんなルーマニア語を身につけるために著者が編み出したのが、「ルーマニア・メタバース」というユニークな手法である。

やり方はこうだ。Facebookで新しくアカウントをつくり、プロフィールに「私はルーマニアが好きな日本人です。ルーマニアの友人を作りたいです」みたいなメッセージを書く。あわせて日本人—ルーマニアコミュニティに登録し、そこで日本文化が好きなルーマニア人と友達になる。「もしかして友人かも?」の欄がルーマニア人で埋め尽くされるようになると、片っ端から友達リクエストを送る。「○人共通の友人がいます」と表示されるようになったらしめたもので、友達はどんどん増えていく。

この頃にはもうタイムラインはルーマニア語の投稿一色になり、ここから実際にどんなルーマニア語が話されているかを学んでいった。投稿へのリプライにもルーマニア語で返事を送った。その中からMessengerで個人的にやり取りする親しい友人もできた。日本にいながらにして、ルーマニアに留学しているかのような空間をつくる。なるほど、「ルーマニア・メタバース」とは言い得て妙である。

他にもルーマニア語がきっかけとなった素敵な出会いや、羨ましい師弟関係、ルーマニア文壇事情など読ませるエピソード満載である。なにより、ルーマニア語学習を通して、自らの置かれた境遇や日本をとらえ直していくプロセスがいい。ルーマニア語によって著者自身が救われたことがよくわかる。

この本を読みながら、新しいことを学ぶ時の熱量について考えさせられた。外国語をマスターするという高いハードルも、熱が生み出すパワーがあるからこそ乗り越えられる。ではその熱量はどこから生まれるのか。「楽しさ」である。

新しい言語を学ぶこと自体が楽しいと著者は言う。将来役に立つかどうかなんて関係ない。まず楽しいかどうかが重要なのだ。楽しいから続くし、熱量も衰えない。楽しく続けてさえいれば、上達なんて後からついてくる。

これと対照的なのが「リスキリング」かもしれない。

知人に薦められ、某誌の特集を読んでみたが、「これからの時代はこの資格が役に立つ」みたいな記事のオンパレードで正直げんなりした。その資格は果たしていつまで通用するのか。新しいテクノロジーの登場よってフェーズが変わったらたちまち時代遅れになるのではないか。「役に立つ/立たない」という視点はとても危うい。それに好きでもない勉強を続けるのは苦痛でしかないだろう。

引きこもりの難病持ちであることに著者は自虐的に言及するが、本書を読みながら、そんな著者が眩しく見えて仕方なかった。ルーマニア語で書いた作品を現地の文芸誌で発表している日本人なんて他にいないだろう。オンリーワンという言葉は著者のような存在にこそ相応しい。

実家の部屋に居ながら、著者は広い世界とつながっている。あなたにとって楽しいことはなんだろうか。それさえあれば、あなたもワクワクするような新しい世界と出会えるかもしれない。

作者: 住谷 春也
出版社: 松籟社
発売日: 2022/5/19
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本書に教えられた一冊。著者は御歳92。ルーマニア文学を日本に紹介してきた翻訳者である。著者もまた会社勤めのかたわらルーマニア語を勉強したという。

作者: イリナ・グリゴレ
出版社: 亜紀書房
発売日: 2022/7/21
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こちらはルーマニア出身で弘前に暮らす人類学者が日本語で書いた一冊。著者は川端康成の『雪国』を読んで、「私がしゃべりたい言葉はこれだ」と思ったという。