おすすめ本レビュー

『香川にモスクができるまで』在日ムスリムの素顔

首藤 淳哉2023年4月15日
作者: 岡内大三
出版社: 晶文社
発売日: 2023/1/26
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読書に付箋は欠かせない。知らなかったこと、驚いたところ、心を動かされた箇所に貼っていく。内容に引き込まれるほどその数は増える。この本にもびっしり付箋がついた。初めて知ることがあまりに多かったからだ。初めて知ったこと。それは、在日ムスリムの素顔である。

世界には19億人を超えるムスリムがいるという。このうち在日ムスリムは推計18万3千人(2019年末時点)。世界のムスリム人口からすれば決して多くはない。身近にムスリムの友人がいる日本人はそれほど多くないだろう。

他方、ネットにはイスラム教に対する偏ったイメージが溢れている。厳しい戒律、極端な女性蔑視、過激派による自爆テロ。「絶対にわかりあえない怖い人々」として彼らは扱われている。

リアルな姿を知らないにもかかわらず、良くない印象だけは刷り込まれている。ムスリムに対する世間の認識はそんなレベルではないだろうか。

著者は国内外のマイノリティーのコミュニティーを取材してきたノンフィクションライターである。ある時、こんな噂を耳にしたという。

「香川県にモスクをつくろうとしているインドネシア人がいる。その男は、溶接工で、長渕剛が好きらしい」

インドネシアは世界最大のムスリム人口を抱える。2億2千万人を超える国民のうち9割がムスリムだ。香川県には2019年時点で約800人のインドネシア系ムスリムのコミュニティーがあったが、信仰のための施設であるモスクはなかった。それを自分たちでつくろうとしているらしい。

早速会いに行くと、著者の前に大柄で恰幅のいい男性が現れこう言った。

「よう来てくれました。私フィカルね。いまからモスクの打ち合わせするけんね」

流暢な讃岐弁で挨拶してきた彼こそが、モスクをつくろうと奮闘するインドネシア人ムスリム・コミュニティーのリーダーであり、本書の主人公だ。

フィカルさんは2005年に22歳で来日した。本書はフィカルさんの歩みにもたっぷりページを割いているが、読むと彼の人柄がよくわかる。最初に勤めたのは鶏肉の加工会社で、不慣れな環境でホームシックになりながら懸命に働いた。異国で暮らす青年の孤独を癒したのは親切な人々との出会いだった。世話になった人の紹介で日本人の女性と知り合い、不器用なデートを重ねた末、ふたりは結婚する。

家族ができてフィカルさんはこれまで以上に身を粉にして働いた。複数のバイトを掛け持ちし、朝4時半に起き深夜1時半に寝る生活を送った。やがて娘が3人生まれ、家族のために条件のいい溶接工の仕事に転職した。

この頃から同胞や移民の友人に相談を受けることが増えた。時には騙されることもあったが、他人に優しくすればいつか神様が返してくれると信じるフィカルさんはどこまでもポジティブだ。そんな「義理と人情」の人柄に惹かれ、多くの人がフィカルさんの周りに集まるようになった。

フィカルさんをリーダーとするグループは、「イスラムの家族」を意味するインドネシア語の頭字語でKMIKという。参加者は50人ほど。モスク建立の話が持ち上がったのは、親睦や助け合いを目的したこのゆるいつながりの中からだった。

とはいえ、外国人である彼らが自力でモスクを建てるのは簡単ではない。メンバーの多くは若い技能実習生で、寄付を募るにもお金を持っていない。日本人からの寄付となるとさらに望み薄だ。ムスリムがどういう人々か、そもそも日本人は知らない。その無知はしばしば差別にもつながる。

フィカルさんたちは皆、差別を体験したことがあるという。「あなたテロリストやろ?」と言われたり、外国人であることを理由に不動産屋に相手にしてもらえなかったり、中には実際に危害を加えられそうになった人もいる。そんな辛い体験をしていてもなお、モスクをつくろうというのである。

非ムスリムからするとよくわからないのは、「なぜ、そこまでしてモスクが必要なのか」ということだ。信仰の施設だからというのはわかる。だがいちばん大切なのは信仰心ではないだろうか。建物がなくとも信仰心さえあれば、神に祈ることはできるのではないか。なぜそこまで施設にこだわるのか理解できない。

著者にとってもモスクの存在意義は謎だった。ところが、フィカルさんに密着取材するうちに、著者自身が次第にモスクの必要性を理解するようになっていく。このプロセスこそが本書の最大の読みどころだ。著者の目を通して、私たち読者のムスリム観も変容していく。

シャッター通りと化した商店街で一緒に物件探しをした時、ある商店主がフィカルさんに向けた冷酷な視線に著者は衝撃を受ける。それは同じ日本人には決して向けることのない眼差しだった。

店を出て落ち込む著者をフィカルさんは慰める。

「大丈夫よ。私、慣れているから。あの人とゆっくり話したら、仲良くなる自信あるよ。そうやって私は、日本で生きてきたからね」

そして、著者を気遣ってこう言うのだ。

「私と一緒に歩いていて、恥ずかしくないですか?」

フィカルさんにこんなことを言わせてしまう日本人とはいったい何なのだろう。在日ムスリムについて書かれた本なのに、読んでいると、私たちの社会に対し鋭い問いを突きつけられているような気になってしまう。そう、本書を通して見えてくるのは、私たち自身の姿でもあるのだ。

それが象徴的な形で現れたのがコロナ禍だった。頓挫しかけたモスク購入計画の意外な突破口となったのが、実はコロナだったのだ。詳しくはぜひ本書を読んでほしいが、史上稀に見る危機的な状況で、在日ムスリムの人々は驚くべき行動力を発揮した。それは、無私と互助の精神に基づく圧倒的なコミュニティーの力だった。ここでも対照的な日本社会の姿が浮き彫りになる。助け合いが当たり前の彼らに比べ、私たちはなんとバラバラで孤独な存在であることか。

テロやカルトに人を駆り立てるのは、孤立であるといわれる。モスクはムスリムにとって孤立から人を救う大切なセーフティーネットでもあるのだ。もちろんムスリムでない人々にもその門戸は開かれている。フィカルさんは自分たちがどういう人間かを知ってもらうためにもモスクは必要だと考えている。

ムスリムの人々を怖いと思うのなら、知ればいい。私たちに必要なのは、異質な他者を知ろうとするちょっとした勇気かもしれない。

ようやく手に入れた建物でフィカルさんがひとり祈りを捧げる場面は、本書のハイライトだ。改装前のがらんとした部屋が、夕日に照らされオレンジ色に染まっていく。光の中で一心に祈りを捧げるフィカルさんと、それをかたわらで見守る著者……。

昔フィレンツェで、朝の散歩の気まぐれに小さな聖堂に入ったことがある。足を踏み入れた瞬間、はっとした。暗がりの中、ステンドグラスを通して一条の光が差し込み、ちょうど祭壇の前にだけ、美しい光の輪ができていた。世俗の欲にまみれた私も、この時ばかりは「神様はいるのかもしれない」と思った。

宗教はまるで違うが、祈りを捧げるフィカルさんの姿にあの時と同じような感動をおぼえた。彼らが信じる神を、私は信じてはいない。だが、彼らが大切にしているものを、私も尊重したい。無心に祈る友を見守る著者のように。厳かで静謐な時間が流れるこの美しい場面に、日本人と移民との理想的な関係を見たような気がした。