おすすめ本レビュー

昆虫のいない世界、それはディストピア 『昆虫絶滅』

仲野 徹2024年1月27日
作者: オリヴァー・ミルマン
出版社: 早川書房
発売日: 2023/12/5
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『昆虫絶滅』、なんとも刺激的なタイトルだ。まずはプロローグで、「昆虫のいない世界」がいかなるディストピアであるかが描かれる。

昆虫がいなくなった世界といえば、およそ半世紀前に出版されたレイチェル・カーソンの古典的名著『沈黙の春』を思い浮かべる人もおられるだろう。殺虫剤や農薬―当時の主流はDDTである―の使用により昆虫がいなくなってしまう。その結果、食物連鎖の上位に位置する鳥がいなくなり、鳴き声の聞こえない沈黙の春がやってきてしまうという内容だ。いまとなっては常識的と言ってもよい内容だが、社会に大きなインパクトを与え、環境保護運動の大きなドライビングフォースになった。しかし、『昆虫絶滅』を読むと、『沈黙の春』というタイトルは牧歌的すぎて過少な物言いとすら思えてしまう。

さて、昆虫がこの世から消えると何がおこるのか。まずはカーソンが唱えたように、昆虫をエサにする鳥たち―地球上に存在する約一万種の鳥類の半数―が飢え死にする。鳴き声が聞こえなくなるだけではない。その死骸が散乱したままになる。これには説明が必要だろう。動物の死骸の分解には、ハエや甲虫といった腐肉食性(!)昆虫が大きな役割を担っている。バクテリアや菌類の消化速度ではとても間に合わないのだ。世間では嫌われもののクロバエだが、人間の死体の60%を一週間で消化できるだけのウジ虫を生むことができるという凄い能力を持っている。ちょっと怖すぎるやん。

都会では問題にならないが、牧畜農家はとんでもない状況に追い込まれる。家畜の糞はコガネムシの仲間である糞虫がエサにしてくれることによって「清掃」されている。なので、8000種にもおよぶ糞虫が消えてしまえば、糞の山ができてしまうのだ。

死骸や糞にあふれた世界、それだけでもおぞましいが、より深刻なのは食料供給の崩壊だ。世界の農作物の三分の一以上は、ハチ、蝶、ハエ、蛾、甲虫などといった送粉昆虫による受粉を必要とするので、身近な食材の多くがなくなってしまう。小麦、米、トウモロコシといった風によって受粉する植物は残るが、それだけで生きていくのは厳しすぎる。

地球は人間の惑星ではなくて、昆虫の惑星と呼ぶべきかもしれない。名前がつけられた昆虫だけで100万種、実際には1000万種ほども存在するとされており、推測値であるが、トータルではなんと1000京(10の19乗)匹もいるらしい。ドイツでは昆虫の量が10年間に四分の一になってしまった地域があるし、他にも昆虫激減の研究成果がいくつもある。あまりの多彩さ故に必ずしも研究者の意見が一致しているわけではないという問題があるが、看過するわけにはいかないというのが現状だ。

昆虫が減少している原因としては三つのことが考えられる。ひとつは生息環境の変化である。開発によって生息域がなくなってしまうというだけでなく、単一の耕作作物を広い範囲に植えることによって自然の生息地がなくなってしまうというのも大きな要因だ。もうひとつは、おなじみ、地球の温暖化である。当然、それぞれの昆虫には生存に適した気温がある。ある研究によると、今世紀末までに到達するのではないかとされている3.2℃の気温上昇が生じると、「すべての昆虫種の約半数が、現在の生息可能な範囲の半分以上を失う」と予想されている。

三つ目は、「沈黙の春」と同じく殺虫剤だ。米国などではネオニコチノイド系と呼ばれる殺虫剤が主流である。昆虫の神経系に作用する化学物質で、ヒトなど哺乳類には害がないとされている。しかし、土壌などへの蓄積性があるし、後述するようにミツバチの減少の原因ではないかと考えられていて、EUや日本では使用が禁止されている。にもかかわらず、地球規模でみると大量に使われ続けられているのだ。

産業的に最も重要な昆虫はミツバチである。蜂蜜を採るためだけでなく、果樹を受粉させるのに必要なためだ。世界中のアーモンドの80%が作られるカリフォルニア州では、受粉のために234万箱、およそ300億匹ものミツバチが必要だというからものすごい数だ。現地だけだと足りないので、その多くは花の季節になると全米から運ばれてくるし、オーストラリアでも同様のミツバチ大移送がおこなわれている。

セイヨウミツバチの本家であるヨーロッパでは、すでにその減少が明らかになっている。原因は不明だが、「殺虫剤の使用を減らし、樹木や垣根を復活させ送粉者や生物多様性に配慮してより多様な作物を栽培する」必要性が叫ばれている。一夜にして巣箱の蜂が「失踪」してしまう「蜂群崩壊症候群」も驚異だ。病気、農薬、ストレス、栄養不足などが原因としてあげられているが、これもよくはわかっていない。さらにはミツバチに寄生するダニによるコロニー崩壊も大きな問題になっている。

ミツバチほど有名ではないが、季節によって4800キロメートルもの渡りをするオオカバマダラという蝶がいる。メキシコで越冬する保護区では、蝶が木を覆い、その重さで枝がしなり、ときには折れるほどという壮観になる。そして、それを見られる場所は有名観光地になっている。しかし、その蝶も激減の波にさらされている。やはりここでも原因は、生息地の喪失、殺虫剤の猛威、気候変動だ。

ヨーロッパでは昆虫減少に対する方策が取り始められている。だが、それが奏功するかどうかはわからない。地球温暖化を思い出すべきだろう。兆しが見え始めたころに放っておいたために、じりじりとではあるが着実に悪化しているではないか。

世の中から完全に昆虫がいなくなるというのは、あくまでも仮想の話だ。しかし、物事の本質を捉えるためには、こういう極端な思考実験も重要である。なにしろ、昆虫がどうやら世界中から減り始めていることは間違いなさそうなのだから。もしかしたら、知らない間に臨界点を超えてしまっているのかもしれない。

『昆虫絶滅』が「昆虫の黙示録」としてインセクトゲドン(昆虫を意味する英語のインセクトとハルマゲドンの合成語)預言の書とならないことを祈るばかりだ。



作者: レイチェル カーソン
出版社: 新潮社; 改版
発売日: 1974/2/20
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いうまでもなく、レイチェル・カーソン不滅の名著。