おすすめ本レビュー

『虎の血』岸一郎って、誰やねん?

首藤 淳哉2024年2月5日
作者: 村瀬 秀信
出版社: 集英社
発売日: 2024/2/5
  • Amazon
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • HonyzClub

プロ野球がキャンプインし、いよいよ開幕がみえてきた。そんな心躍るタイミングで、抜群に面白いスポーツノンフィクションが出版された。

昨年のプロ野球は、阪神タイガースの38年ぶりの日本一で盛り上がった。優勝を意味する隠語である岡田彰布監督の「アレ」は、「A.R.E.」というチームスローガンになり、年末の新語・流行語大賞にも選ばれた。大阪の街は虎一色に染まり、優勝記念セールに客が押し寄せた。

熱狂ぶりを目の当たりにして、やはり阪神タイガースは特別なチームなのだと思った。通常モードでも、甲子園球場はつねに満員。勝ち負けなんて関係ない。いくら負けがこもうが「ダメ虎」を見捨てないのがタイガースファンである。

さて、それほどの人気球団ともなると、もはやファンが知らないことなど何もないように思える。なにしろ選手がつるんでいるタニマチの素性からチーム内のこじれた人間関係に至るまで、瞬く間に知れ渡ってしまう球団なのだ。

ところが、そんな人気球団にもミステリーがあった。球団の長い歴史をひもとくと、ひとりの監督にまつわる情報がすっぽりと抜け落ちているのだ。
その名は、岸一郎。1955年(昭和30年)、大阪タイガース(現・阪神)の第8代監督に就任し、わずか2ヵ月指揮をとっただけで解任された謎の人物である。

この時、岸は還暦で、当時の男性の平均寿命が63.6歳だったことを思えば、おじいちゃんといっていい年齢である。しかもなんとプロ野球未経験者だった。監督になる前は、福井の敦賀で農業をしていたという。そんな人物がなぜ監督になれたのかといえば、球団オーナーの野田誠三宛てに書いた『タイガース再建論』に野田がいたく感激し、抜擢したからだった。だが、選手の反発を食らい、わずか33試合で休養を余儀なくされる。会見で発表された表向きの休養の理由は「痔の悪化」……。これだけでもう、この人物の素性が気になって仕方ない。

著者は謎の老人の正体を追う。この「人探し」の過程が面白い。当初は、しょぼいおじいちゃんだった人物のイメージが、読み進むうちに、意外な方へ裏切られていく。そして知られざるバックグラウンドが明らかになった時、目の前に思いもよらなかった視界がひらけるのだ。この「意外性」が本書のもうひとつの面白さ。それだけではない。わずか2ヵ月しか指揮をとらなかった岸の解任が、その後の阪神タイガースに重大な影響を及ぼしたことも本書は明らかにする。

阪神タイガースという球団には、これまで受け継がれてきた伝統がある。それは、”お家騒動”という悪しき伝統だ。そもそも阪神タイガースは、あれだけの人気球団でありながら日本一の回数が驚くほど少ない。「ファンの応援が力になった」というのは選手がよく口にする言葉だが、それで言うなら、タイガースは12球団でもっとも優勝回数が多くてもおかしくないはずだ。なのに日本一はわずか2回(1985年、2023年)。22回の日本一を誇る読売ジャイアンツの足下にも及ばない。なぜ勝てないのか。内輪揉めで野球どころではないからだ。

吉田義男監督が指揮した1985年は、ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布を擁する新ダイナマイト打線の圧倒的な破壊力で初の日本一に輝いた。だが、ここから黄金期に突入するかと思いきや、そうはならなかった。主力選手による監督批判、ケガ、不祥事、コーチの職場放棄、オーナーの無神経な発言、マスコミによる”監督おろし”の大合唱……。翌年こそ3位だったものの、翌々年は球団ワーストの勝率3割3分1厘の最下位に沈み、吉田はチームを去った(昨年の日本一の後も「いよいよ黄金期到来か」みたいな記事を目にしたが、前科を考えると眉唾に思える)。

岸一郎が監督に就任した時、タイガースの顔だったのが、藤村富美男である。
オールド阪神ファンが「史上最高の選手」と口をそろえるスーパースター。”物干し竿”と呼ばれた長いバットを振り回し、本塁打王を3回獲得。豪快でわかりやすいプレースタイルでファンを魅了した。現役時代は知らないが、あの長嶋茂雄が憧れ、水島新司が『ドカベン』で岩鬼正美のモデルにしたと聞けば、派手なプレーぶりをイメージできるような気がする。

この時、藤村は38歳。選手として晩年を迎えていた上、前任の松木謙治郎監督が辞めた後、次の監督は藤村というのが周囲の見方だった。ところがそこにプロ経験のない老人監督がやってきたのである。大スターがそっぽを向くのに時間はかからなかった。

当時、こんな場面があったという。打撃不調の藤村がフォアボールで出塁し、岸監督が代走を命じた。ところが藤村は、代走で出てきた選手を「オマエは帰れ!」と怒鳴りつけ、交代を拒否した。指揮官への造反に対し、岸は苦い笑いを浮かべるだけだったという。

こうなると選手が増長するのも当然で、主力選手が平気で監督を「年寄り」呼ばわりするようになり、岸はベンチで孤立してしまう。メディアも面白おかしく不仲を煽り、その結果、開幕から33試合で岸は実質的な解任の憂き目にあうのである。

タイガースの長い歴史からすれば、わずか33試合の出来事に過ぎないかもしれない。だが、主力選手が監督を無視し、反抗し、ついには監督の座から引きずり下ろしたという事実は重く、大きい。そしてこの間違った”成功体験”が、その後はお家芸として受け継がれていくことになってしまうのだ。

岸一郎を追い出した後、選手兼監督となったのが藤村富美男だった。ところがその翌年、こんどは藤村がチームを追われてしまう。世に言う「藤村排斥事件」である。詳しい経緯はぜひ本を読んでほしいが、岸追放の旗振り役だった藤村がこんどは追われる側になるとはなんという因果だろうか。そして、タイガースではその後も似たようなパターンが繰り返されるのだ。まさに「因果応報の呪い」とでも呼びたくなるような負の連鎖である。

本書を読むと、阪神タイガースの長い歴史の中で、岸一郎は名前のあとに”以前/以後”をつけたくなるほど重大な影響を及ぼした人物だったことがわかる。だが、じつは彼の名は大学野球や満州の歴史にも刻まれているのだ。そのあたりは本書の人探しパートを読んでほしい。岸一郎という人物が血の通ったキャラクターとして見事に浮かび上がってくる。あの偉大な投手と岸が並び称されていた事実に驚く人は多いだろう。阪神タイガースの第8代監督は、じつはたいした人物だったのだ。

ところで、熱狂的な阪神ファンの皆さんにぜひ聞いてみたいことがある。
今年も阪神タイガースは優勝すると思いますか?

「当たり前や!」と答えた人は、胸に手を当ててよく考えてみてほしい。
あのタイガースである。本当にこのまま順調に行くだろうか。

流れというのは思ってもみないところから変わるものだ。
例えば、岡田監督の後ろ盾とされる阪急阪神ホールディングスの角和夫会長は、いま宝塚歌劇団のパワハラいじめ問題への不誠実な対応で厳しい批判を浴びている。
もうすでに流れは悪い方へと変わりつつあるような気がするのだが……。