おすすめ本レビュー

温泉旅館のちょっとええ話、満載! 『宿帳が語る昭和100年 温泉で素顔を見せたあの人』

仲野 徹2024年6月27日
作者: 山崎 まゆみ
出版社: 潮
発売日: 2024/6/5
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「宿帳」である。旅館やホテルでの宿泊では記入が義務づけられているとはいえ、最近はネットで予約しがちなので、印刷されたものにサインするだけのことが多い。昭和とはいえ、はて宿帳なんかが本になるのかと思って読み始めたが、宿帳そのものの本ではなかった。

全24話、そのほとんどが昭和の大スターと馴染みの旅館の関係についてのお話だ。当然のことながら、ああええなぁと思えるエピソードばかりである。ただし、唯一、どの宿でも「素顔をさらさなかった女王」がいる。美空ひばりだ。しかし、これは、ご当人がというよりは、一卵性親子とまで言われた母親の考えによるものらしい。そのプライバシーの守り方は常軌を逸している。

NHKドラマ「夢千代日記」の撮影で宿泊した時の話。人のいない時間を見計らってスナックのママと連れ合って大浴場に行く樹木希林を、吉永小百合は「いいな~、大浴場に行けて」と見送ったという。超のつく大女優になると人目を気にするレベルも尋常ではない。それでも深夜には源泉の荒湯にいって三人で洗濯をしたという。娘・也哉子のズック靴を岩の上で洗う希林。その横で同じように吉永小百合がごしごし洗ったのは、なんとシルクの下着。「こんなにぼろぼろになったわ~」って、あたりまえやろ!大スターはやっぱりレベルがちがいますな。

これは第3話『夢千代たちがはしゃいだ深夜の洗濯 - 樹木希林、吉永小百合と湯村温泉「浅野家」』に紹介されている思い出話だ。このような出来事ばかりではなく、それぞれの温泉の来歴や優れた点も紹介されていて、ちょっとしたガイドブックにもなっている。夢千代日記は被爆者を描いたドラマなので、ロケ地のイメージが悪くなると尻込みする温泉地が多かった。そんな中、どうして観光協会会長だった朝野家(当時は湯村観光ホテル)の社長が私財を投げ打ってまで撮影隊を呼んだのか。24話のすべてに、ほぉ~と思わず声に出したくなるいい話が詰まっている。

志村けんがとてもフレンドリーだったというのはわかるけれども、高倉健、大林宣彦、北大路魯山人や松本清張といった、ちょっと怖そうなイメージの人たちでさえ、温泉で見せる素顔はとても優しい。本来がそういう人なのを世間が違うイメージで見てしまっているのか、温泉という場のなせる業なのか、それとも両方なのか。いずれにしても、それぞれの旅館のホスピタリティーの素晴らしさがあってこそのエピソードが満載なのだ。

唯一、ふたつの話で登場するのが志村けんと石原裕次郎率いる石原軍団がひいきにしていた、あわら温泉の「べにや」。この名旅館、再建されたとはいえ、以前の建物が焼失したというのは悲しいことだ。他に登場するスターは、西城秀樹、松田優作、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ、田中邦衛らである。個人が主役の話が多いのだが、いくつかは、逆に旅館が主役であり、そこに有名人が色を添えるというパターンだ。その代表格が第16話『スターたちを圧倒した荘厳な大浴場 -「法師乃湯」を愛した人々』である。年配の方はみな覚えておられるだろう、高峰三枝子と上原謙が二人で入浴しているJR東日本「フルムーン」のポスター写真もここで撮影された。

お風呂の撮影では高峰さんのおっぱいがぽよよよよんって浮かんできては、撮影を止めておっぱいをお湯の中へ沈める。また撮り始めては、浮かんでくる。その繰り返しでしたよ

という大林宣彦監督の談話が笑える。ホンマかいな、おっぱいってそんなに比重が小さいんか。

他にも、与謝野鉄幹・晶子夫妻、お忍びで夏目雅子、勝新太郎・中村玉緒の一家、さらにはフジロックの前泊に忌野清志郎が法師の湯に泊まりにきたという。温泉旅館でやたらとサインの色紙が貼ってあると興ざめすることもあるけれど、こんな人たちが泊まった旅館なら行ってみたくなってしまう。

昭和の湯宿とは、日本人にとってそういう素の自分をさらけだせる場所だったし、宿もそれを受け止めたことで、濃密な人間関係ができあがった

と、著者の山崎まゆみさんは書く。ただし、この本に出てくるエピソードの多くは30~40年前のものである。当時は、有名人でなくとも、馴染みの旅館があって贔屓として通っていた人たちもたくさんいたのだろう。しかし、今や、温泉旅館の立ち位置はずいぶんと変わってしまっているのではないか。

昭和の頃は、温泉地の名旅館の主はその土地の名士であり、経済的にも恵まれていた。だから作家や芸術家を支援するという土壌があった

温泉旅館の衰退が叫ばれている。家族経営が多く、収益性が高くないかららしい。生き残れるのは2割程度でしかないのではないかとさえ言われている(「温泉旅館で何が起きているのか?~このままでは絶滅危惧種入り」 中村智彦・神戸国際大学経済学部教授)。たとえ生き残れたとして、インバウンドが跋扈するような状況では、かつての風情は保たれまい。来年は昭和100年、温泉旅館に多くを望む時代は「遠くなりにけり」なのかもしれない。

嘆いていても仕方がない。本の内容に戻ろう。旅館を出立する時、女将さんや仲居さんにお見送りしていただくことがある。慣れないので、なんだか面はゆいのだが、そういった際に強烈な印象を残された二人のエピソードが紹介されている。古湯温泉「鶴霊泉」で、体調不良をおしながら「男はつらいよ」の撮影を終えた渥美清。そして、東日本大震災の被災地激励の私的旅行で穴原温泉「吉川屋」に宿泊された上皇后陛下。旅館を後にする時、どのようなことをされたのか。この心洗われる二つのエピソードだけでも、本書を読む価値は十分にある。ええ本、読ませてもらいましたわ。