おすすめ本レビュー

『大村智 – 2億人を病魔から守った化学者』

仲野 徹2012年3月18日
大村智 - 2億人を病魔から守った化学者

作者:馬場 錬成
出版社:中央公論新社
発売日:2012-02-09
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はじめまして、『なかのとおるの生命科学者の伝記を読む』で、ごく一部ではおなじみの、浪速大学・仲野です。ここしばらくHONZ被害者同盟の暫定代表を務めておりましたが、このたび訳あって、読み手から書き手へ、すなわち、被害者から加害者へ、あっさり転向することになりました。よろしくお願いいたします。って、よろしくないですね、すみません。ところで、すっかり忘れていましたが、とある生命系専門誌での連載企画として「押し売り書店 仲野堂」というのがあったのでした。この案は未遂にておわりましたが、ひょっとすると、生来の加害者体質かもしれませんので、取り扱いには十分注意してください。処女作は、得意ジャンルの伝記本、『大村智』でございます。 

子ども向け伝記本では、問答無用・説明不要の偉人であれば、そのタイトルに「野口英世」とか「キュリー夫人」とかいうのがありだけど、大人向けの伝記本でこのメインタイトルというのは珍しい。新聞広告で、この堂々たる男らしいタイトルを見たとき、おもわずしびれた。しかし「大村智」という名前を知っている日本人がどれくらいいるのだろう。どこまで大胆、いったい何を考えているのか……。普通、このタイトルだと誰も買わないだろう、まさかHONZでもかぶることはあるまいと初参加の朝会に持参したら、なんとお二人とバッティング。さすが、HONZ、あなどれん、アドレナリン。

サブタイトルは「2億人を病魔から守った化学者」。え、ほんまか? ほんまやったら、もっと有名でないとおかしいやないか? と訝る人も多いだろう。あたりまえだが、本当なのである。ただし、おそらく、日本人で救われた人は非常に少ないはずだ。この大村先生が開発されたのは、「オンコセルカ症」という、アフリカ・中南米で蔓延している寄生虫感染症に対するお薬なのである。薬学部の教授であられたし、誘導体は犬のフィラリアの特効薬でもあるので、薬剤師さんや獣医さんはある程度ご存じかもしれないが、お医者さんで大村智の名前を知っている人もそう多くはないだろう。 

成毛代表とのインタビュー(その1その2)でもお話したが、面白い伝記というのは、すごい不運やスキャンダルがなければならんのである。そうでないと、おもしろくないのである。私がこれまで読んだなかで最低の伝記は、10年ほど前、まだ、女性問題スキャンダルに堕ちる前のタイガーウッズの伝記である。銀の匙をくわえて生まれてきたような輩が、銀の匙で金鉱をさわやかに掘り進めるような話は、つまらんというよりも、ほとんど不快なのである。ウッズ君も、スキャンダルを乗り越えて初めて伝記にふさわしい偉人になれるだろうから、私の期待にそえるよう、性欲をしぼってがんばってくれたまえ。 

話がそれた。『大村智』である。残念なことに、大村先生の伝記は、基本的に上り調子一本である。農家の長男に生まれ、地元の山梨大学を出て、東京で定時制高校の教員になる。なりたくてなった定時制高校の教員ではなかったが、ひたむきに学ぶ学生の態度に教えられて、昼間に大学で研究を始めた。将来について相談する先生が、結果論的に、ものすごく正しいとしかいいようのない示唆を与えてくれる。定時制教員をしながら東京理科大学の大学院に進学し、昼は研究に没頭するようになる。

教員を辞して北里研究所に就職し、おどろくほど現実的な戦略で、つぎつぎと独自の研究を展開していく。紹介すれば長くなるので、詳細はぜひこの本をお読みいただきたい。「あかんあかん、そんなん待っとられるかいっ」とつぶやく、いらちの大阪人みたいな人は、この「千里ライフサイエンス振興財団」のニュースをごらんいただきたい。いずれにしても、特筆すべき点がふたつある。一つは、自らが稼いだお金、米国メルク社との契約によるロイヤリティーなど、で、自らの研究費をまかない続けたことである。企業以外の研究者はそのほとんどが税金からの研究費に頼っているのに比べると、例外的、というよりも、ほとんど想像すらできないくらいすごいことなのである。

もうひとつは、川奈ゴルフ場の近くで発見された放線菌から発見されたエバーメクチン(およびその誘導体であるイベルメクチン)の信じられない効果である。どんなにいいお薬があったとしても、アフリカで特効薬として使うのはきわめてむずかしい。経済的な状態、健康への関心の低さ、医療の充実度、などから、注射による投薬を続けることはほぼ不可能であり、経口投与ですら相当にむずかしいとされている。ところが、イベルメクチンいうお薬は、開発者である大村智でさえ驚いたことに、年に一回の投与、それも経口投与で著効を示すのである。そのおかげで、2億人近くの人がオンコセルカ症から守られ、年間4万人以上を失明から防いでいると推定されている。その上、耐性寄生虫が出現していない、という、ほんとうに魔法のようなお薬なのだ。 

いやはやすごいのである。単に業績がすごいだけではない。スキーで鍛え上げたスポーツマンで、若い人の指導にも心をくだき、研究所の運営にも辣腕を発揮する。そして美術にも造詣が深く、設立に関与した北里メディカルセンターは絵画であふれ、現在は女子美術大学の理事長も勤めておられる。これを現代のスーパーマンと呼ばずしてなんと呼べばいいのだろう。平成の北里柴三郎と呼んでもいいかもしれない。って、どっちやねん……。 

「危ないときに何となく神様が力を添えてくださって、川の向こうにポンと橋渡ししてくれるようなことがある」といった幸運にめぐまれたのは事実であろうが、全体としては、自力で自分の道を切り開いてこられた、という印象が極めて強い。山梨大学出身なので大成は難しかろうという周囲の反対を押し切って研究職についたのもそうである。また、留学先も「給料が少ないからには、きっと何か別のいいところがあるに違いない」といった、逆をはるような独特の判断で決めたというのもおもしろい。そして、これらの独創的な判断の総和が「大村智」になったのだ。

ここまでいくと、たとえどん底に落ちずとも、スキャンダルにまみれたりせずとも、おもろいのであるから、許そうではないか。読み進めるほどに、どんどんと素直になり、最後には気をつけ状態になって、はいはいとありがたくお話を聞きたくなってしまうのである。まいりました。これほど読後感の爽やかな伝記はそうありません。みんな読もう! そして「大村智」という本書のタイトルが、「誰やこれ?」といった違和感なく受け入れられる明日を築こう! って、最後、意味なく力がはいりすぎましたが、HONZ初登場、これにて終わります。

北里柴三郎―熱と誠があれば (ミネルヴァ日本評伝選)

作者:福田 眞人
出版社:ミネルヴァ書房
発売日:2008-10
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北里研究所は、もちろん柴三郎に由来する。大村先生の八面六臂の活躍は、北里に通ずるところも大きい。

志賀潔―或る細菌学者の回想 (人間の記録 (5))

作者:志賀 潔
出版社:日本図書センター
発売日:1997-02-25
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赤痢菌の発見者である志賀潔のエッセイ集。晩年、赤貧洗うがごとし生活になってしまった志賀潔であるが、誠実な文章は心に沁みます。

笑うカイチュウ (講談社文庫)

作者:藤田 紘一郎
出版社:講談社
発売日:1999-03-04
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寄生虫本の「古典」といえばこれでしょう。ちなみに、寄生虫学教室の標本棚は相当に気持ち悪いです。興味のある人は目黒寄生虫館へ。

微生物の狩人 上 (岩波文庫 青 928-1)

作者:ポール・ド・クライフ
出版社:岩波書店
発売日:1980-11-16
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これぞ古典。と思って推薦したけれど、絶版。こんな名著まで再版未定とは…。 岩波書店、ちょっとは考えなさい。