「解説」から読む本

『愛と憎しみの豚』文庫解説 by 麻木久仁子

麻木 久仁子2015年2月4日
愛と憎しみの豚 (集英社文庫)

作者:中村 安希
出版社:集英社
発売日:2015-01-20
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何年か前に私が出演したあるバラエティ番組で、”豚”が大議論になったことがある。お題は「肉じゃがに入れる肉は何ですか?」。スタジオの出演者は出身地別に東西に別れ、全国の視聴者から寄せられたアンケートの結果も交えつつ、正しい肉じゃがとは何かを語り合うという趣向。まあバラエティだし、それぞれのご家庭の味の思い出なんぞ も披露しながらのほのぼのトークかと思っていたのだが、これがまさかの大激論になってしまったのである。”豚”を巡って!

関東出身のわたしはもちろん、肉じゃがには豚肉。カレーにも豚肉、肉まんもコロッケも豚肉である。ハンバーグは合い挽きだけども。ところが関西出身の出演者たちは揃いも揃って豚肉を許さない。肉と言ったら牛肉でなくてはならぬと譲らない。関東勢は「まあ好みだよね。豚も牛もそれぞれ美味しいし」と寛容に振る舞っているというのに、関西勢は「豚肉を入れてはいけない! 豚肉が入っているなら食べるのを拒否する!」 というからさあ大変! スタジオには牛・豚それぞれの肉じゃがが出されたのだが「食べない」と意地っ張り。

豚は臭くて食べられたもんじゃないなどと言って関東のおふくろの味を全否定したあたりから、鷹揚に構えていた関東勢も「聞き捨てならず」とヒートアップの大盛り上がりだったのだが、もちろんこんなことは勝敗がつくようなことでもなく、割って入った秋田出身者が「うちは肉じゃがには鶏ですっ!」という悲鳴のような声を上げたのを汐に、一同大笑いで番組終了となったのだった。

以来、少々意地のように、それまでにも増して豚肉使いになった。関西人になんと言われようが、母は私たち兄弟を豚肉で育てたのだからね。母の愛だからね。なのでチンジャオロースも豚で作る。しゃぶしゃぶも、針ネギをたっぷりと入れた鍋の中で豚バラか 肉を泳がせる「豚しゃぶ」である。牛の代わりの節約メニューでは断じてない。嚙み締 めるほどに広がる甘みや、脂身の旨味。牛に負けるもんかと意識して味わうほどに豚肉が美味しい。

ということで本書である。関西生まれの著者は、ビーフ王国・アメリカで出会った関東生まれの友達の「カレーはやっぱり、ポークカレーが一番美味しいと思う」という何気ない一言で”豚”を意識し始めたという。そして、ある料理研究家から受け取った「豚の角煮に対する愛のみがひたすら綴られた本」を手にして、豚に対する情熱的な姿勢が定まったというのだ。

嗚呼! そうなのよカレーはポークなのよ。そして例の角煮レシピ本ね? 土屋敦氏の。豚好きにはたまらないあの本は、偶然にも私の座右の書である。高カロリーも物ともせず、唇をテラテラさせながらトロトロの角煮を頰張る禁断の喜びを説く、危険な本である。ここに目を付ける著者にもうすっかり共感し、豚を巡る旅路にひきつけられた のであるが、その旅は「うまいもの紀行」とは全く違う、人と豚の関わりをひたすら追い求める旅なのである。

それにしても、著者の「旅」への姿勢が、私のような出不精には面白い。メールやらフェイスブックである程度のアポイントメントを取り付けると、もう出かけてしまう。もう少し下調べをして、どこで何が得られるかの当たりをつけて、そこそこの筋書きを 描いてからでもよさそうなものだが、と心配になるほどだ。が、考えてから動き出すより、走りながら考えろ、という著者のフットワークの軽快さがとてもうらやましくもある。

チュニジア・イスラエル・バルト三国・ルーマニア・モルドバ・ウクライナ。そして極寒のシベリアに流れ着く。強い情動と意志を持って前進するような感じと、漂い流されていくような感じが混然としているのである。このリズムは到底真似できない。ページをめくるうちに引き回されて、少し酔うような感覚を覚える。かと思えば、ときどきにはっきりとイメージできる「豚肉の味」が登場してコーンとこめかみを弾かれるようなのだ。

たとえば東ヨーロッパの伝統食「サーロ」。豚の脂身の塩漬けである。黒いパンにサーロを載せて食べるという。白くツヤツヤ光る脂身は、舌の上で融ける瞬間に透明になるだろう。そして、その塩気の中にも甘みをもった脂が黒パンにチュッと染みるに違いない。嚙み締めるほどに旨味が増しそうである。なんて美味しそうなんだろう。あるいは脂身のスモーク。琥珀色に輝くその身を歯に当てるときの弾力と、一気に広がるであろう香ばしさを想像してうっとりしてしまう。

ユダヤ教やイスラム教における豚肉食のタブーは有名だが、イスラエルにおいてはイギリスの統治下で養豚が始まり、第二次世界大戦時の肉不足を機に拡大したという。東ヨーロッパに住んでいた正統派ユダヤ教徒が入ってくるにしたがって宗教的なタブーもよりつよくなっていったのだそうだ。豚という存在を軸にして、パレスチナからイギリス、イスラエルへ、アラブ人・ユダヤ人・西洋人の織りなす複雑な歴史を感じさせる。

そして旧共産圏における国策としての養豚奨励と衰退。マイナス四十度を越える極寒のシベリアに、旧ソ連時代の軍事都市を訪ね、兵舎と豚舎が併存していた時代の痕跡を探す。共産主義の崩壊が豚の自給体制を壊し、経済的に効率の良い輸入に取って代わられたことを聞く。かつてソ連で生産される食肉の40%は豚肉だった。が、いまや計画的な大量生産体制はなく、国家を支える豚の特異な地位は失われたのだ。

さて冒頭で触れた番組で紹介された話。明治維新以前は豚どころか肉食にたいする忌避感が強かった日本だが、文明開化とともに牛肉が好まれるようになっていく。特に日露戦争の時、兵糧として牛肉の缶詰が与えられたことが、肉食の習慣を全国に広げることになったそうだ。復員した兵隊たちがふるさとに肉食の習慣を持ち帰る、というわけだ。が、同時に牛肉が軍需物資として優先的に利用されたため国内で牛肉の需要が賄えず、代わりに奨励されたのが関東地方での養豚だった。自分を育てた味の記憶は確固として、あたかもDNAに書き込まれでもしているように人々は頑固である。同じ日本で育っても、牛肉か豚肉かはどうも譲れない、らしい。が、ちょっと引いて見てみると、 たかだか百数十年の、それも国策である戦争やら養豚奨励やらで、いつのまにか馴らされた食習慣だとも言えるのだ。

信仰やら経済性やら人々の属性を示すアイデンティティとして、世界の様々な国々やコミュニティでの豚の物語が紡がれる。それらをひとつひとつ読む。読みながら、同時に舌の上で豚の味を絶えず反芻する。〈私は豚を追っていたのだろうか? いや、きっと誘い込まれたのだ。〉

豚に誘い込まれたという著者に、頭と味覚の間をゆらゆらと行き来するような読書体験へと誘い込まれる、そんな一冊である