放送禁止用語に阻まれた『探偵! ナイトスクープ』の幻の企画が、ついに書籍で実現。かつて『全国アホ・バカ分布考』で世間を騒がせた著者が、今度は女陰・男根の境界線に挑む! 第3回は「かわいくて優雅な「オマンコ」」について。なぜ日本人はいたいけない女陰に、最大限のいとおしさの込もった名を付けたのか? (HONZ編集部) 第1回、第2回
奈良時代の貴族であり歌人であった山上憶良が、次のように歌っています。
しろがねもくがねも玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも
(現代語訳:銀も金も、宝石ですらも、何の価値があろうというものか。それらよりも勝れる宝が、わが子というものだ)
憶良は、わが子を得て、心弾む幸福感に包まれます。およそ世の中に、この幸福に共感を覚えない親があるでしょうか。憶良の心情は、古今を通じて世界の親の心情でもあったでしょう。
こんな思い出があります。大学3回生、1970年の夏のことでした。郷里の友人と大阪万博を見にいくため茨木の駅で降り、万博会場行きのバスに乗って座席に座りました。やがてバスは混んでゆき寿司詰めの状態になりました。私の目の前に、父親に連れられて乗ってきた幼い女の子が立ちました。私は即座に、自分の席を女の子に譲ってあげました。そのときです、30代半ばの父親がさっと私に向き直り、「まことに、ありがとうございます!」と、深々と頭を垂れたのです。私は何ごとかと、驚きました。こんな大人の男性が、20歳の青二才たる私の如きにそんな礼儀正しい感謝の態度をとってくれるとは、啞然とするほどの衝撃でした。父親というものは、わが娘のためなら、こんなことまでできるのか! 幼い少女は、母からはもちろんのこと、父からも、そんな風に大切に育てられているものなのかと、私は深い感慨に捉われたのです。
日本の父や母が、そんな大切なあどけない娘の、いたいけない女陰に、最大限のいとおしさの込もった名を与えたのは、ごく自然なことだったのです。
しかし、あどけない幼児のための言葉だった「マンジュー」が、やがて本家の京で大人の陰部にも使われるようになりました。そこで「マンジュー」を、都の婦女子はさらに愛らしさと上品さを加えるべく御所ことばをそのまま採用し、語尾「ジュー」を省略して、「マン」「オマン」としたのでしょう。そしてその後、またしても愛すべき幼女に限定して用いる「オマンコ」という言葉を生み出してゆきます。
「オマンコ」の江戸での出現の時期について、『近世庶民文化』における対談で、興味深い会話がなされています。『近世庶民文化』とは、先述の岡田甫氏が、1950年に自ら創刊した雑誌です。この雑誌の、第15号(1953年1月15日発行)で、岡田氏は、性風俗研究家・高橋鐵氏(1907〜71)と「粋客酔談」と題された対談を行っています。
ここでは「オマンコ」は「於満古」と表記されています。恐るべき奇妙な漢字表現です。いったいどういう語源を意識しての、当て字だったのか不明です。読んでみましょう
於満古の発見
高橋…… という言葉はいつ頃から遣われたものだろう。比較的新しいと思うが。
岡田……たしか英泉の絵本にあつたんじやないか、子供が銭湯の中で、女の局部を指さしして云つてる詞書が……。川柳では、僕の調査ではやつと文政10年(1827)の句まで逆のぼれる。それ以前はまだ知らない。「 おまんこのほとりに蛸は口があり」と云う句だがね。勿論こういう句がある以上もう当時は普遍的な言葉で、だがそれがあまり出て来ないと云うのは、その音調からして子供の言葉だつたんだろうと思う。
岡田甫氏は、さすがに俳句・雑俳の女陰語などの調査も極めた人らしく、「オマンコ」を、「その音調からして子供の言葉だったんだろうと思う」と、「オマンコ」が幼児の使う言葉であったろうことを、正しく意識しています。ただしこれが、上方からやってきた言葉であったということや、母親たちが娘に愛情を持って教え込んだ言葉であったはずだ、といったことに関して、自覚があったかどうかは疑問です。
『日国』には、「おまんこ」について、次のようにあります。
お-まんこ(一)女性の陰部の異称。陰門。
*雑俳・柳多留-124〔1833〕「 のむく毛は馬がこするやう」
『日国』ではこのように、「オマンコ」の初出を、『柳多留』の1833年としています。そしてなぜか、岡田甫氏がはっきり提示していた1827年の「 おまんこのほとりに蛸は口があり」の例を見捨てています。さらに『日国』は、いきなり「女性の陰部の異称。陰門。」と、何のお愛想もなく、無機質に記述しているばかりなのです。こんないやらしい、助平な語は簡単に済ませたい。そうした、いかにもそっけない気持ちを感じさせます。しかも、これではまるきり調査不足です。この『日国』という、日本語に関する高度な知を集積した最大の辞書ですら、じつは春画・艶本といった「下品」な作品には無関心を貫いてきたからです。
近年、春画の世界的価値が見直されつつある中、私のような素人でも、「オマンコ」のもっと早い使用例を、『別冊太陽 錦絵春画』(早川聞多監修、解説・2015)の中で、簡単に見つけることができたのです。江戸の歌川豊国の春画『逢夜雁之の声』の詞書にありました。春画・艶本をもっと探せば、さらに古い例は見いだされるかも知れません。
この『逢夜雁之声』、1822年の例を次に掲げてみましょう。きわめて読み取りにくい詞書を、長年の友人である、飛びぬけて美人の日本語学者、弘前大学副学長・郡こおり千寿子さんに頼み込んで、判読してもらいました。上品な女子大学の出身で伊吹先生並みに謹厳実直で羞恥心の人一倍強い彼女は、そのいやらしさに激しく赤面しながらも必死にそれに耐え、春画・艶本の解読にチャレンジしてくれたのです。
さて、『逢夜雁之声』の、母親と風呂に入っている幼い男の子が母親に言うセリフです。
おっかア おまへのおまんこにけがたんとうあるから ぬいてくんれ おもちやの人形へ付つけるからよ
(現代語訳:おかあちゃん、あんたのおまんこに毛がたんとあるし、抜いて頂戴。おもちゃの人形に付けるからさ)
一方、同じ画の中で、隣りの湯舟に入ろうとしている大人の女は、こう呟いています。
このゆはさめたとおもつたら まだゝ ぢつはぼぼをやけどをしたやつさ
(現代語訳:この湯はさめたと思ったら、まだ熱すぎる。じつは以前、ぼぼを火傷したことのある熱さだ)
このように「オマンコ」を使っているのは幼い男の子で、「ボボ」を使っているのは大人の女です。「マンジュー」から、江戸庶民が多用した「ボボ」を経て、ついに現代の共通語である「オマンコ」に至る、婦女子も自由に使える女陰語の変化のありさまを物語っている、象徴的なシーンです。
こうした春画を読み込んでいるうちに、またひとつ面白いシーンに出くわしました。『江戸名作艶本4 歌川国虎』(1996)の中の、『祝言色女男思』(1825年)の一シーンです。せっかくですからこれも引ぼぼ用してみましょう。仲良しの幼い少年と少女が、夜ごと演じられる両親の営みのまねをして、セックスごっこをして遊ぶという、とんでもないシーンです。男は少年、 女は少女のセリフです。
男:おめへもつとめへをまくつてぼぼをだしねヱ
女:ヲヤヲヤ またぼぼとおいいだよ おまんことゆふものだよ
男:ソンならおまんこをだしねヱ
女:アイ
ト又をひろげると 男の子ちんぼをチヨイトおつ付ける
(現代語訳:
男:「お前、もっと着物の前をめくって、 ぼぼを出してごらん」
女「おやおや、またぼぼとお言いだよ。と言うものだよ」
男「そんなら、 おまんこを出しねぇ」
女「はい!」
と、股を広げると、男の子は、 ちんぼをちょいと押し付ける)
少年は日ごろ親の使っている「ボボ」をそのまま使い、少女は少年に、新しいトレンド語の「オマンコ」を使うように注意を与え、言い直させています。もちろんその方が、少女にとって、かわいくて、素敵だからです。ちなみにこのころ江戸では、まだ現代語「チンポ」ではなく、一時代古い「チンボ」が使われていたようです。
なお、作家の永井義男氏もまた『江戸の性語辞典』(2014)で、こうした「オマンコ」の文例をいくつも挙げ、この時代、「オマンコ」が幼い少女のものであり、「かわいく、ほほえましい表現」であったことを強調しておられます。まさにその通りでしょう。
「オマンコ」は、幼い少女のための、かわいさを極めた言葉であったことは、間違いありません。そればかりか、「オ」の付いていない、シンプルな「マンコ」もまた同様に、かわいい「女児」のためのものであったことを、徳川後期の随筆で知ることができます。
国学者である喜多村筠庭(信節)(1783〜1865)は、随筆集『嬉遊笑覧』(1830)の作者として、よく世に知られています。筠庭の別の随筆集『筠庭雜考』(1843)巻之一で、「小児にチンボウ、女児にマンコ 」と記しているのです。このように「マンコ」も、あくまで「女児」のためのものでした。
幼い少女に使っていた「マンジュー」や「ボボ」など、かわいい言葉が大人の女陰にも使われるようになると、幼女専用のまた新しく、さらにかわいく、愛くるしい表現が必要となったのでしょう。それが「マンコ」「オマンコ」だったのです。
(第4回はこちら)
HONZにて特別集中連載!
第1回:京都の若い女性からの切実な願い(9月13日掲載)
第2回:「女陰」方言のきれいな円(9月20日掲載)
第3回:かわいくて優雅な「オマンコ」(9月27日掲載)
第4回:女陰名+「する」だけが「性交する」ではない(10月2日掲載)
第5回:男根語の試行錯誤(10月5日掲載)