「解説」から読む本

『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦 』

文庫解説

内藤 順2020年10月21日
辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦 (集英社文庫)

作者:高野 秀行 ,清水 克行
出版社:集英社
発売日:2020-10-21
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読書には、大きく分けると外在的読書と内在的読書の2種類が存在すると言われている。外在的読書とは読書の目的が本の外部にあって、本は手段の一つというケースを指す。一方、内在的読書は本を読むこと自体が目的化しているケースだ。これをたとえは悪いが、私は薬とヤクブツのような関係と解釈している。

一般的に「本好き」と言われる人は、内在的読書を実践しているケースが多いと思う。実際に私が編集長を務めるノンフィクション書評サイトHONZのメンバー達も本を読むこと自体に面白さや価値を見出しているケースが多いから、典型的な内在的読書のスタイルと言えるだろう。

だが書評を書くということに関しては、少し勝手が違う。私が書評を書く際に最も気をつけているのは、内在的読書の帰結をそのままには紹介しないということである。自分自身では内在的な読書であったものを、さも外在的読書であったかのように変換し、第三者が読むべき理由を明示することこそが良い書評につながるのだ。しつこいたとえだが、ヤクブツを薬のようにセールスするといったところだろうか。

このように第三者に対して本の紹介をするということには、特有の難しさがある。しかしHONZのメンバーと話をする場合は、その手間が省けるから随分と気も楽になるものだ。内在的読書の帰結をそのまま話しても、同じような価値観をもち、同じような本の面白がり方ができるという前提があるからだ。

そのうえ何年も同じメンバーで本の活動を続けていると、自分のための読書とメンバーに紹介するための読書が重なりあってきたりもする。すなわち内在的読書と外在的読書が一体化した状態とも言えるが、これは中毒患者に正当な理由や目的を与えてしまっているという意味でも罪が重い。この状態まで来ると、もはやお互いその沼から抜け出すことは難しくなっているとも言えるだろう。

たしかに同じような読書量のメンバーが集まり、本をネタに好き勝手に妄想のようなことを言い合うだけでもそれなりの楽しさはある。しかし、これを継続的に習慣化していくためには、いくつかの条件があるはずだ。

一つは、妄想のような会話に少なからずリアリティが伴ってくる必要があるということだ。HONZの例で言えば、サイエンス本の話に触れながら、ふと感じた疑問に答え合わせのできる人材が整えばグッと面白くなる。また信じられないようなノンフィクションを前にそれに近しい体験をしたことのある人の話が加わった時にも、盛り上がりを見せることが多い。自分では想像しか出来なかったことが、誰かの体験と地続きになることで、一気に自分ごと化するような感覚が味わえるのだ。

むろん視点に多様性があった方が良いので、15人から20人くらいのメンバーを集められると、ほどよく会は盛り上がるはずだ。だが、そんな我々の固定概念をたった2人で鮮やかに打ち破ったのが本書の試みであった。

世界の辺境を主戦場とするノンフィクション作家・高野秀行、そして日本中世史を専門とする大学教授の清水克行。この2人が互いに8冊の本を指名し、足掛け2年間をかけて語り合った。そのハードボイルドな読書会の模様を収めたのが、本書『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』である。

読書会のやり取りを通して、高野は清水に答え合わせを求め、清水は高野に想定外の問いを求める。その引き合う力が、ただの雑談に終わらせない何かを生み出している。さらに選書もすごい。『ゾミア 脱国家の世界史』『世界史のなかの戦国日本』『大旅行記』『将門記』『ギケイキ 千年の流転』『ピダハン「言語本能」を超える文化と世界観』『列島創世記』『日本語スタンダードの歴史』という実にディープな8冊。否が応でも期待は高まる。

この2人の読書会の成功要因はいくつかあると思うが、まず感じるのは、辺境探検家という空間のプロフェッショナルと日本中世史の大学教授という時間のプロフェッショナルが、それぞれ違う角度から同じ方向を見つめているということだ。

「誰もいかないところへ行き、誰もやらないことをやり、誰も知らないものを探す」ことをテーマとする高野にとって、辺境という「地続きの最果て」こそが興味の対象であることは言うまでもないだろう。一方で、日本中世史を専門とする清水はどうだろうか? 本書でも紹介されているが、日本人の生活文化の基礎が出来あがったのが室町時代とされており、それ以前の日本はまるで別の国のような違いがあるのだという。つまり、日本の時間軸において中世こそが「地続きの最果て」とも言えるのだ。

「地続きの最果て」を求める2人の感覚が重なり合うポイントは、ともに常識と非常識を入れ替えてみようと考える、アナーキーな思考の持ち主であるということだ。本書の記述には、その傾向が随所に見て取れる。しかも「地続きの最果て」という分野は、ニッチでありながら広範な領域にテーマが及ぶから、今後もネタは尽きそうにもない。

さらに特筆すべきは、2人の場合は我々と違って、本を読むという道楽とそれぞれのプロフェッショナリズムが表裏一体となっている点だ。その専門性の高さゆえであろうか、2人とも本にストーリーではなく、ユニークなファクトを求めているような印象を受けるのだ。

だからこそ選書には決してリーダブルとは言えない専門書に近いようなものも含まれる。この手の本を楽しむためには、部分的なファクトから、別のストーリーを構築できるような幅広い知識が求められることだろう。

一連の読書会を通じて、清水はアカデミックな観点から、高野は実際に見聞きした体験談から、本から読み取ったことにリアリティを付加していく。このやり取りに、紹介されている本を購入する力があり、さらには買ったまま本棚に置きっぱなしであった本を再び手に取らせるような力もあるのだ。

その力は、本書を一読された方なら一目瞭然のことであろう。たとえば一冊目の『ゾミア』。ゾミアとは、インド、ベトナムから中国南部にまたがる山岳地帯を指す。高野はゾミアを呼ばれる地域が、自身が行ってきた納豆の取材地と重なることに興奮を隠さない。一方、清水は定住型国家から逃げていった人たちがそこに「戦略的な原始性」をつくり出したというアナーキーな主張に理解を示す。

ゾミア―― 脱国家の世界史

作者:ジェームズ・C・スコット
出版社:みすず書房
発売日:2013-10-04
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続いて紹介されるのが、『世界史のなかの戦国日本』。本書は、16〜17世紀における日本の辺境として、蝦夷地、琉球、対馬に着目している。清水は、最近のグローバル・ヒストリーが全盛の時代にあえて、こぼれ落ちる世界に目を向けている点を高く評価する。一方、高野は日本の辺境を、東アジアの中心と捉えることで、自分の頭の中の地図が変わることに共感を寄せる。

世界史のなかの戦国日本 (ちくま学芸文庫)

作者:村井 章介
出版社:筑摩書房
発売日:2012-04-01
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また、お二人と一緒に登壇したイベント(本書の刊行記念イベント「面白い本を読んだら誰かと話したい!」2018年4月11日@東京堂書店)で、一番盛り上がったのが『ピダハン』。これはアマゾンの先住民族が使っている変わった言語を紹介している一冊だ。高野は世界中の言語を一つの法則で説明しようということの無理さを指摘し、清水はゾミアに住む人達との類似性を指摘する。

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

作者:ダニエル・L・エヴェレット
出版社:みすず書房
発売日:2012-03-23
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文庫版で、あらたな本が追加されたのも嬉しいポイントだ。それが『姦通裁判』である。これは近世ヨーロッパのトランシルヴァニア侯国のとある村で起きた裁判の証言記録を読み解いた一冊だ。この中で清水は、1人の人間の人生を復元することの難しさを指摘し、高野は証言時に最後の一線に踏み込まない村人の知恵に舌を巻く。

姦通裁判 ―18世紀トランシルヴァニアの村の世界― (星海社新書)

作者:秋山 晋吾
出版社:講談社
発売日:2018-04-27
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全編を通して緩やかにつながっているのが、スタンダードの求心力と、辺境の遠心力が引き合いながら平衡を保っている様だ。現代社会においても、画一的な社会から多様性の溢れる方向へ不可逆に変化を遂げているものと思いがちだ。

しかし本書を読むと、実際は、世界における多様性とは時代や場所を問わず一定だったのではないかという印象を受ける。それが多様性への一方通行に感じてしまうのは、辺境について知らないだけであったり、もしくは辺境の側が知られることを望まなかったりしたからではないだろうか。

さらに、多様性や分散型というものが持ちあげられがちな昨今の風潮も、一面的な物の見方によるものに過ぎないことが理解できる。辺境の多様性というものを知れば知るほど見えてくるのは、スタンダードというものの持つ影響力の大きさだ。

「ここではないどこか」を求める著者二人が、時間・空間を彷徨いながら、最終的に「今・ここ」のスタンダードへと帰着した点は非常に興味深い。ここに現実逃避と教養の違いがあるのではないかと私は考える。

辺境にせよ、中世の時代感覚にせよ、面白いものを見つけたときに、その中に一時的にはどっぷり浸りながらも、どこか冷静に一つのパーツとして相対化しているのだ。極端なものを見たときに、その不思議な世界の住人になってしまうのではなく、自らの頭の中の空間/時間のマップにファクトとしてプロットしていく。そこに現実逃避と教養の違いがあるのだ。

何度も何度も、我々の常識や思い込みを鮮やかに裏切ってくれる言説の数々、そこに圧倒的なリアリティを付加してくる二人のガイド。本を読むことだけでなく、語り合うことの面白さも存分に堪能できる一冊と言えるだろう。