『地図から消えた島々』

麻木 久仁子2011年12月15日 印刷向け表示
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地図から消えた島々: 幻の日本領と南洋探検家たち (歴史文化ライブラリー)
作者:長谷川 亮一
出版社:吉川弘文館
発売日:2011-05-20
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問題です!(SE:ジャジャン!)

かつて「ロス・ジャルディン諸島」「イキマ島」「グランパス島」「中ノ鳥島」などが位置した海域はどこでしょう?

さてさて。クイズ番組にこんな問題が出る日は来るだろうか。たぶん来ない。難問過ぎる! 解答解説もややこしくなりそうだし……。えっ? そんな島あったっけ、聞いたことない。地図にもない……。クイズマニアの方々からお問い合わせ殺到…かも!

答えは「北太平洋」である。それも日本の近海の島々だという。“かつて”は航海の安全には欠かせないものである水路誌や海図に記載されていた、れっきとした地図に載っていた島々である。しかも、「地図から消えた」のは決して大昔の話ではない。「ロス・ジャルディン諸島」が地図から正式に削除されたのは1972年のことであり、「中ノ鳥島」を領土編入する閣議決定手続きの瑕疵については、なんと1998年の参院総務委員会で質疑応答されていたというのだ。

こんな実在しない島々が、中世の昔ならいざ知らず、近代に至るまで「ある」ことになっていたというのは、なかなか想像しづらい。グーグルマップでも使えば、いまや世界のあちこちを居ながらにして上から見下ろせる時代だ。だが、ついこの間まで、人間にとって海は果てしなく広く、未知の領域だったのだ。正確な測位がままならない時代においては、衝突や座礁の危険を避けるべく、“「ない」と言い切れない島は「ある」”として海図に載った。一度地図に載った島は、誰かが確信を持って「ない」というまでそのまま記載されつづけた。

とはいえ領有権の定まらない島が、あるかないかもよく確かめられることのないまま数多く放置されていたというのも、不思議なことに思えるだろう。しかし、海に面した国々が極々小さな島にまでこだわって領有権を主張するという考え方が国際的常識となったのも、沿岸から二百海里の排他的経済水域設置が提唱され始めた1970年代以降のことで、歴史的には新しい考え方なのだという。

このように海図には記載されているが、実在の確認が取れていない、いわば幻の島を「疑存島」というそうだが、本書は、たんに地理的に“地図から消えた”島の“発見”からその“消滅”を取り上げているわけではない。地図から消えた島々を題材に、その時代背景をも十二分に追いながら、北太平洋上の島々への日本の“進出”が、どのような人物の先導により、どのように行われてきたかを追いかけている。

まず本書は、そもそも北太平洋上の疑存島が“誕生”する発端となった、18世紀から19世紀の前半にかけての、スペインやイギリスの“進出”の様子から説き起こす。そして幕末維新期以降の日本の“南進”を先導した「商人たち」の野望と欲望を描き出す。「グアノ」と呼ばれる鳥糞の堆積物から出来るリン鉱石産地として。アホウドリの羽毛の産地として。一攫千金を夢見て南方の島々に乗り出していく姿は意気軒昂である。

「国」を前面に出す強権的なものであった大陸への“進出”に比べ、洋上に点々とする島々の扱いが、既存の府や県への編入という形をとるのは、おそらく、それらの島々が欧米諸国と“隣接”したものであったからだろう。時代と人間たちが、文字通り経(たていと)と緯(よこいと)として織りなされていくさまに引き込まれる。

 新たに発見された島々は、「拝借」を申し出た冒険家にして商人への、いわば“先渡しの払い下げ”で経営された。南大東島での玉置半右衛門や、彼を模倣したプラタス(東沙)島の西沢吉治のように、商人たちが実質的な紙幣や軽便鉄道、果ては学校までという「社会資本」を担ったという事実には驚かされる。これでは半ば独立国である。島で働く者にとっては、逃げ出すことのできない絶海の孤島で行われた、プランテーション的な過酷な収奪そのものであるともいえるだろう。そうした島の経営が莫大な富を産み出すとなれば、やがて彼等に追いつけ追い越せとばかりに、あるのかないのか依然として確認されていない島々までが領土として「編入」され、無償の「拝借」が許され、資金が集められる。あたかも政府をも巻き込む巨大原野商法のようなありさまとなる。ロマンと欲望が、洋上に存在しない“幻の島”を浮かべていくことになった。

こうした男たちの“活躍”について、著者はこう記している。

本書の登場人物たちについては様々な捉え方があるだろうが、私としては、彼らをロマンチックな冒険家として称えたり、あるいは、領土拡大の功績者、などという筋違いの評価をしたりする気にはなれない。「南洋冒険」や「幻の島」などといったフレーズにロマンを感じる方には――私自身そうだし、だからこそこうした本を書いているわけである――いささかきつい言い方かもしれないが、探検のロマンと帝国主義的な欲望との差は紙一重に過ぎない。(あとがきより)

人間のバイタリティが欲を生み、欲がバイタリティを生む。人としてあるべき姿はいかなるものなのか。

本書にたびたび出てくる「撲殺」という言葉が心に残る。南鳥島や沖ノ鳥島など、さまざまな「鳥島」の名前の由来であるアホウドリは、絶滅に近いまでに乱獲された。アホウドリは地上での動きが鈍く、捕獲が容易なため「馬鹿鳥」とさえ呼ばれる鳥だった(人間が近づいても逃げようともせず、易々と籠を被せてられ捕まえられる映像を見たことがある)。そのアホウドリを一羽一羽、撲殺したのだ。入植した人々の手によって何百万回と棍棒が振り下ろされた事実が、決して断罪口調ではなく、あくまでも淡々と記されている。そうすることによって成り立つ人間の営みというものを、きちんと見ておきたいという著者の誠実さのあらわれなのだろう。

また、隠れたテーマとして、著者が何度も「新聞」による世論、というものについて言及していることも挙げておきたい。日本国内の新聞が、“南進”の冒険による成果、あるいは遭難を書きたてたり、反面アメリカの領土侵犯についてのセンセーショナルな記事を取り上げていたり、あるいは清朝中国やスペインの新聞の世論を煽る動きにも触れている。ここにも古くて新しい問題がある。

著者の記述は、実に細かく出典を追い、煩雑にならない限りそれを明示し、表現は常に「さりげない」「控えめな」ものである。だからこそ読み手は思考力と想像力をかきたてられ、知らずに集中させられてしまう。学者・研究者たる者の知的誠実さとはこういうものかと眼を見開かされた。こころからの敬意を表したい。

実は著者・長谷川亮一氏が2008年に上梓した『「皇国史観」という問題 十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策』(白澤社)を既に手にしていた。「統制」というものを、取り締まりという消極的側面だけ出なく「正しく望ましい」思想の喧伝という積極的な面も含めて見なし、そこで文部省教学局がどのようなコントロールを働かせたかという学術論文なのだが、なかなか手軽に読むと言う訳にもいかず途中で投げ出していた。が、またあらためてじっくりと取り組みたくなった。

1977年生まれ、まだ30代半ばという若い著者の、今後の著作も心待ちにしている。

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