『一揆の原理』 Facebookのルーツは一揆にあり?

2012年10月23日 印刷向け表示
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一揆の原理 日本中世の一揆から現代のSNSまで

作者:呉座 勇一
出版社:洋泉社
発売日:2012-09-26
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「一揆」は不遇を託っている。教科書で習い、多くの人がその言葉を知っているのにもかかわらず、一揆が好き、という人にはお目にかかったことはない。信長がどうとか、明治維新がどうとか、語る人はいっぱいいるのだから、「やっぱり正長の土一揆が最高だよな」とか「尊敬する人は、三河国賀茂郡で一揆を指揮した辰造です」とか「延暦寺の僧徒が日吉社の神輿をかついで朝廷に迫ったときはどきどきしたよね〜」とか言う人がいてもいいはずなのだが。

今更、一揆について知ったり、語ったりすることに興味のある人は、正直ごくわずかだと思う。しかし若き歴史学者が、一揆を論じつつ、フェイスブックを、脱原発デモやアラブの春を、東日本大震災における「きずな」を語る本書を読めば、一揆がぐっと身近になるとともに、「一揆の行動原理」から現代を見る視座が得られるだろう。

そもそも一揆は誤解にまみれている。筵を旗にし、竹槍を持って、貧しく困窮した農民たちが暴動を起こし、鎮圧され、首謀者が死罪になる。そんな「竹槍に筵旗」のステロタイプが形成されたのは実は明治時代だ。筑前竹槍一揆をはじめとする、明治初期の新政府に対する一揆で有名になり、それが白土三平のカムイ伝などによって受け継がれて来た。しかし、実は江戸時代までは一揆に竹槍は使われなかったのだ。余談だが、竹槍はちゃんと作れば二人ぐらい簡単に田楽刺しにできる強力な武器だったらしい。

農民による一揆の参加者が手にしていたのは鎌と鍬。武器としては貧弱である。実は、(これも我々のイメージとは違うが)、江戸期多数の農民たちは刀を持ち、また鉄砲を持つものも多かった。なぜ殺傷能力の高いそれらを使わないのか(鉄砲を「鳴り物」として、空に向かって撃つことはあったそうだが)。

それは一揆が暴動でもお上に対する反逆でもないからだ。いわば、権力者に圧力をかけて、自分たちの要求を認めさせようとする行為であり、鎌や鍬は、「百姓」である自分たちの象徴なのだ。例えば、農民たちが代官の罷免を求めて、荘園主の屋敷を取り囲むのは、「官邸包囲」に近いという。

さらに昔にさかのぼって、平安時代後期の延暦寺による朝廷への強訴などを見ると、朝廷側の警備に当たる武士は、僧徒たちには手を出さない。それどころか、彼らを傷つけたら非難され、罰せられる。一方の僧徒たちも、一定のルールにしたがって歩く。ちょうどデモ隊を見守る警察といった風情である。

また、一揆には、上記のように、相手に迫って圧力をかけて要求を認めさせようとする強訴とともに、「兆散」という形態もあったそうだ。これは、荘園での農作業を放棄して、集団で逃げ、年貢を納めないこと。ストライキである。そう見ると、強訴は団体交渉と言える。

面白いのは、これらの行為が社会的に認められていたらしい、ということだ。強訴するという手続きを踏んだんだから、交渉が決裂してストに突入してもしょうがないよな、といった感じ。一方、強訴せずに兆散した農民たちを、通常の手続きを踏んでいないとして非難する文書が残っていたりする。

そんな目からウロコの一揆トリビアがまず楽しく、さらに、著者のアナロジーと冷静でクールな論理が心地よい。例えば、借金を棒引きさせた徳政一揆。日本の戦後歴史学の主流を占めた「資本主義が大嫌いで革命が大好きなマルクス主義歴史学」の考え方だと、「悪徳高利貸しに苦しめられた民衆の怒りが爆発し」たということになるのだが、実は融資を受けていた近隣の住民は、地元の金貸しが潰れては困る。次の融資が受けられないからだ。例えば京都での徳政一揆を、著者は、遠方から来た農民たちが単に略奪を働いただけで、債務とは関係ない、とあっさり言う。

また一揆の結束を高める一味神水という儀式がある。起請文を書き、血判を押したあと、神前で焼いて灰にし、その灰を入れた水を全員で回し飲むのだ。ここに宗教性、神秘体験、神懸かり的要素も見る歴史学者も多いのだが、著者は、参加者は空気を読んで仕方なく参加するという、神さまとは程遠い、人間臭い同調圧力を指摘し、さらに一味神水は「パフォーマンス」で、外部への宣伝行為、ハクをつけるため、という。「呪術や『ハレとケ』」が大好きな社会史学者や民俗学者が読んだら怒り出しそうなほど、身も蓋もないのだ。

さらに著者は、農民一揆や一向一揆などのわれわれのイメージする一揆とはかなり違う、一揆の本質とも言うべき、中世における武士の軍事同盟としての一揆などについて深掘りしつつ、論じていく。ものすごくざっくりと言ってしまえは、著者が言わんとしているのは、一揆って革命じゃなくて、人のつながりなんだよ、ってことになるだろう。そのヒントとなるのが、「交換型一揆契状」だ。全員が署名する起請文と違い、他人の目に触れぬよう隠され、知り合い同士、一対一で一揆を行う契約を行う。それが次々に連鎖して、多者間の一揆契約ができてしまう仕組みである。

ここに著者はフェイスブックなどの「SNSにおける人のつながり」を見る。気鋭の歴史学者から見れば、フェイスブックの思想は、交換型一揆契状によって結成された日本中世の一揆の延長線上にあるのだ。これはぜひともザッカーバーグに教えてあげたいところである。

それを踏まえたうえで、著者は現代を「一揆の時代」と見据えつつ、現在のデモなど意思表示が「百姓一揆」の域を出ていないと言う。本書によれば、百姓一揆は「『武士は百姓の生活がきちんと成り立つようによい政治を行う義務がある』という『御百姓意識』に基づく待遇改善要求」であり、「政治はすべて武士にお任せ、ただし増税だけは一切拒否」(本書に引用された與那覇潤氏の言葉)という姿勢。「お客様感覚で幕府や藩のサービスの悪さにクレームを付けているだけ」なのだ。戦後から現代に至るデモやさまざまな運動についても当てはまるところが多いだろう。

しかしそんな「百姓一揆」段階からレベルアップし、中世に見られた人のつながりによる「一揆の本質」にまで人々が至れば、ライフスタイルが変わり、フクシマをめぐる問題をはじめとする、さまざまな問題に対しても解決の可能性も見いだせるかもしれない、と著者は語る。

そんなささやかな希望によって締めくくられる本書を閉じたとき、竹槍に筵旗の一揆のイメージはすっかり消え去り、まったく別の世界が見えてくるのである。

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百姓のごんべが竹槍持って悪代官の屋敷に殴り込みに行く、誤った歴史観に基づく(?)ファミコンゲーム「いっき」。ちゃんと本書で言及されている!

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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