思考こそが世界を救う 『ハンナ・アーレント』

仲野 徹2014年05月28日 印刷向け表示
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ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 (中公新書)
作者:矢野 久美子
出版社:中央公論新社
発売日:2014-03-24
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まず、ここ数年の間に読んだなかで、いちばん感銘をうけた本といっておこう。憲法改正に、在日差別に、いろいろなバッシングに、新しい視点を与えてくれた。人間の『複数性』が重要であると。そして、『思考欠如』は罪悪であると。

ハンナ・アーレント。どれくらいの知名度なのだろう。恥ずかしながら、昨年、この名を冠した映画を見るまで、その業績はおろか名前すら知らなかった。タイムラインで何人もが絶賛している映画を観に行った。しばらく席をたてないくらい息がつまるような内容であった。

ナチス親衛隊の一員として数百万人のユダヤ人を収容所に送ったアイヒマン1960年に亡命先のアルゼンチンにおいてイスラエルの諜報機関モサドによって拘束、エルサレムに送還され、裁判をうける。アーレントはその裁判を傍聴し、ニューヨーカーにレポートを書く。しかし、その内容ゆえに、ユダヤ人の友人すべてを失う。

これが映画のあらすじだ。自分自身がユダヤ人であり、アメリカに亡命した身でありながら、いや、そうであるからこそ、レポートの内容がとてつもなく大きな批判と反響をひきおこした。主として問題とされたのは二点。ひとつは、収容所送還にはユダヤ人自身も協力していたではないか、と指摘したこと。もうひとつは、アイヒマンを『怪物的な悪の権化ではなく思考の欠如した凡庸な男』と切り捨てたこと。

映画『ハンナ・アーレント』は、後に『イェルサレムのアイヒマン』として出版されるそのレポートが書かれる経緯を描いたものだ。それ以前のエピソード、後にナチスに協力する哲学者マルチン・ハイデッガーの愛人であったこと、なども紹介されてはいたけれど、映画だけではアーレントがどのような人であるかは、十分にはわからなかった。

もっと知りたいと思いながら忘れていたが、本屋さんで偶然この本を見つけて買った。とはいうものの、ぱらぱらっと見て、かなり難しい文章が並んでいるし、つんどくになるだろうと思っていた。しかし、読み出すとやめられなかった。けっしてやさしくはないが、それをはるかに凌駕する知的な刺激力があった。

アーレントの伝記であり、その思想を紹介する本である。映画に関連するような内容は、本の一割に満たず、それも、最後の方に出てくるだけ。映画の内容、すなわちアイヒマン裁判のレポートは、そこまでにいたるアーレントの経験、そしてそれに基づいた自分自身の思考の結実に過ぎないのである。

『私たちが見るものを、やはり同じように見、私たちが聞くものを、やはり同じように聞く他人が存在するおかげ』で、現実が現実として把握される。

『物の周りに集まった人びとが、自分たちは同一のものをまったく多様に見ているということを知っている場合』にのみ世界のリアリティーが現れる。

人類にとって『複数性』がいかに重要かがこのように説かれる。そして、全体主義の下でなされたナチスによる『人類に対する犯罪』は、”個々の人間を『交換可能な塊』に還元してしまう”、人間の複数性に対する犯罪であったと考える。

裁判で紋切り型の官僚用語を繰り返すばかりのアイヒマン。その『話す能力の不足が考える能力-つまり誰か他の人の立場に立って考える能力-の不足と密接に結びついていることは明らかだった』と判断し、アイヒマンは悪魔ではなく、考える能力のない凡庸な男にすぎないと断定する。そして、『思考しなければ、どんな犯罪を犯すことも可能になる』と結論する。

アイヒマンを悪の権化とみなして断罪したい多くの人びとはアーレントの意見に反発し、アーレントの家は文字通り批判の手紙であふれかえった。そして、ユダヤ人の友人をすべて失った。『ユダヤ人への愛がないのか』と問い詰められた時、『自分が愛するのは友人だけであって、何らかの集団を愛したことはない』と答えたアーレント。愛する友人よりも、自らの思考を尊重したということなのだろう。

スタンレー・ミルグラムという心理学者がいた。驚異的なオリジナリティーを発揮したミルグラムであるが、なかでも最も有名なのはアイヒマン実験』とも呼ばれる研究だ。『服従の心理』と題された本にまとめられているが、誰もが、閉鎖的な環境では権威者の指示に服従し、悪魔のようにふるまってしまうことがある、ということを実験的に明らかにした驚愕の研究である。そんなことがあるのだろうか、と思ってしまうが、ここでも『思考欠如』が重要な役割をはたしている。

アーレントは、アイヒマン裁判を傍聴し、自らの経験に基づいた思考のみで、ミルグラムよりも先に、ミルグラムが実験から得たのと同じ結論を導き出していた。驚くべきことだ。このことは、『思考欠如』が大きな問題であることの鏡像として、優れた思考がいかに重要かつ有効であるかを如実に示している。

『アーレントと誠実に向き合うということは、彼女の思想を教科書とするのではなく、彼女の思考に触発されて、私たちそれぞれが世界を捉えなおすということだろう。』と著者はあとがきに記している。まったくそのとおりだと思う。その言葉とともに、このアーレントの言葉を胸に刻みつけておきたい。すでに、何十年も前の言葉であるけれど。

思考欠如こそ、私たちの時代の明白な特徴の一つのように思われる。

服従の心理 (河出文庫)
作者:スタンレー ミルグラム
出版社:河出書房新社
発売日:2012-01-07
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 アイヒマン実験の新訳です。いまや古典といっていいでしょう。
 

服従実験とは何だったのか―スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産
作者:トーマス・ブラス
出版社:誠信書房
発売日:2008-02-05
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 オリジナリティー抜群、ミルグラムの伝記。スモールワールド現象もミルグラムが見つけた。

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